第十七話 自由の履き違い
1
山田一郎は平和主義者と言うと聞こえはいいが、なぁに単なる事なかれ主義者だ。
会社では典型的な窓際族、家庭ではダメ亭主……。
一月で満五十八歳になった、後二年で定年を迎える年齢だ。
定年後の計画は、あると言えばあるが、そのための努力はしていない。
親から譲られた僅かばかりの農地、これをなんとか活用したいと漫然と考えている。
考えてはいるが行動はしない。
否、気持ちはあるが、疲れて身体が動かないだけだ、その内に、その内に、といつも自分に言い訳をしている。
争いごとの嫌いな男だが、時として相手によっては切れることもある。
「こらぁーッ! そこの女―ッ! オマエだよ、オ、マ、エッ!」
山田が斜め前に立つ女子高生に向かって、いきなり怒鳴りつけた。
ジッと我慢していた。
例の、ブンチャカブンチャカの音もれだ。
電車が動き出せば音に紛れるだろうと期待して、ジッと我慢していた。
しかし、その耳に纏わり付く嫌な音は、山田の耳を狙い撃ちしているようだ。
・・周りの連中は気にならないのかな。それとも皆我慢しているのかな・・
山田は周りの乗客を窺い見て、目の合った前の乗客に、目でその不満をぶつけてみた。
無神経に公害同然の音を撒き散らす女子高生をチラリと見てから、その乗客に“ほらその女うるさいでしょう”という目を向けてみたのだ。
しかしその男はサッと目を逸らす。
女子高生のスカートから出た大根足に興味がいっているのだろう。
・・このスケベオヤジ・・
裏切られた思いでそう呟いていた。
2
「こらぁーッ! そこの女ーッ! オマエだよ、オ、マ、エッ!」
我慢に我慢を重ねていたが、山田はとうとうブチ切れた。
座っていたからいいようなものの、もしも隣に立っていたら、そのイヤホンをむしり取り、ipotを床に叩きつけ踏み潰し、女の横っ面を一発、張り倒していたことであろう。
・・いや、座っていて良かった。明日の朝刊を賑わすところだった・・
と思ったのも束の間、当然ipot仕舞い込むものと考えた山田が甘かった。
女子高生はシラッとした顔で山田の方を一瞥しただけだった。
その態度はまるで、“遣れるものなら遣ってみなさい、この窓際サラリーマン”と挑発されているように感じた。
その細い眉、隈取りのようなアイライン、無表情な能面面が一層山田の怒りに火を点けた。
「こ、こ、ここここ、このバカ女ーッ! いい加減にしろーッ!」
と、座席から腰を浮かして怒鳴る山田に、女も一瞬たじろいだ、ように見えた。
・・これだけ脅かせば、今度こそ静かになるだろう・・
しかし、近頃の女子高生は強かだ、フンと鼻先で笑って無視を決め込む。
唖然とする山田……。
・・もう止めよう、もうよそう、これ以上拘わると、やばいことになりそうだ。明日の朝刊の見出しが頭を過ぎる・・
しかし、周りの乗客のなにかを期待するような視線は、無言で後押しをしてくれているように感じられた。
山田は大衆を味方に付けた気でいる、それが間違いだった。
― そんなことはあり得ないのだ。
確かになにかを期待はしているが、それはただ他人の不幸は蜜の味、といった場面が起こること期待しているだけに過ぎない。
山田に社会正義の主役を期待しているわけでもない。
況してや、勧善懲悪で、その女子高生が自分の無作法に気付き、私が悪ウございましたと土下座する場面を期待しているわけでもない。
大概の人間にとって、自分に影響を及ぼさない他人の不幸は、とても芳醇で美味しいものなのだ。
観衆は大見得を切って主役のつもりの山田と一応悪役の役回りの女子高生とを見比べて、どちらの応援をしようか判断している。
まあ、山田に99%の正義があったとしても、敵味方は半々と考えて間違いはない。
否、相手が美人の女子高生の場合、下手をすると七三の割合になっている可能性が高い。
もちろん山田が三だ。
電車の中で争う場合、そういった状況判断が大切なことである。
― 読者の皆々様もくれぐれもお気をつけあそばせ……。
作者からご進言申し上げます。
3
「なによ、糞オヤジ」
女子高生の反撃が始まった。
・・ドキッ……、正義は150%俺にある筈だ、なのになぜこの女は反撃できるのか・・
山田には理解できない。で、
「…………」
無言。と、
「私がアンタになにか迷惑をかけた?」
女子高生が嵩にかかって攻めてくる。
「ああ、迷惑だ。その音がうるさくって、落ち着いて本も読めねぇよ」
ようやく反撃して、辺りの乗客を見回すが、皆目を逸らし同調を示す者はいない。
「私は音楽を聴いているだけよ。私の自由でしょう」
山田を睨みつける女子高生の目は冷たく、殺意さえも感じられた。
その後ろでウンウンと頷いているアホな乗客、若い女性というだけで、“私はか弱き女性の味方です”と正義を気取って女性の味方に付く輩がいる。
・・今時か弱き女性などいるものか……・・
「自由……、自由だと。自由っていうのはなぁ、いいかよく聞け、他人の迷惑にならない、他人に迷惑をかけないってことが前提にあるンだよ。その上での自由だ。アンタのは自由でもなんでもなくって、只の我儘ナンだよ。わかったか、唐変木」
・・決まった。ジィーン……・・
山田は自分の言葉に酔っていた。
・・女、見ろ、周りの連中も俺の言葉に感動しているだろう・・
感動で身震いしている山田の耳に、
ブンチャカブンチャカ、ブンチャッチャ…
と音もれが聞こえてきた。
・・ななな、なんだよ、俺の話を聞いてねぇのかよ・・
とそこへ、中距離列車の通過待ちの北千住駅でゴツイ黒人が乗り込んできたのだ。
デッカイ、二メートルはあろうか、まるでゴリラだ。
「ハァーィ、イェ~ィ!」
しかし、怖い顔にもかかわらずやたらと愛想がいい。
山田はその黒人と目があった瞬間、思わず微笑みを返していた。
そのゴリラの耳に突き刺さったイヤホンからは女子高生と同じリズムの音がもれてくる。
然も女子高生の倍の音量だ。
・・糞、このバカヤロー。ここは日本だ、デケェ面するンじゃねぇ・・
と心の中で囁いて、山田は静かに目を閉じた。
・・あの女子高生、俺を馬鹿にしているだろうなぁ……。しかし、君子は(誰が君子じゃ!)危うきに近寄らず、だ。それにしても……、ああ、情けねぇ・・
御仕舞