第十五話 近頃の医者は……
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山田一郎は窓際サラリーマン、年齢は五十八歳、残り二年で定年を迎える。
若い連中は邪魔者扱いするが、そんな存在にも会社は人間ドックを受けさせてくれる。
三十六年間もの長きに亘って、家庭生活を犠牲にしてまで会社に尽くしてきたのだから、当然といえば当然のことだが、会社とはありがたいものだ……。
「ピンポーン、ピンポーン……。株式会社○○の山田様、山田一郎様。一番診察室へお入りください」
看護婦からの呼び出しを受けて、山田一郎は指定された部屋の前に立った。
「はい、どうぞ」
『山田です。どうぞよろしくお願いします』
どんな気丈な性格でも、内視鏡検査の結果報告を受けるときは緊張するものだ。
言葉遣いがとても丁寧になる。
だからと言って、出てくる結果は変わらないのに……。
「どうぞ、お掛けください」
『はい。よろしくお願いします』
と、もう一度丁寧にお辞儀をして医師の前に座った。
医師が診断書と一緒に数枚のカラー写真を取り出すと、机の上に並べる。
胃の粘膜が鮮やかな色彩で写っている。
その写真にジッと見入ったまま、山田は医師から言葉が発せられるのを待った。
無言の時が流れる。
緊張感に背中を汗が伝わるのがわかった。
「ふ~む、こことここ……」
医師が指差した。
『は、はい。色が……、明らかに、色が違います……』
その部分はピンク色をした健常な粘膜と比べて、黒紫色をしている。
「ふ~む、……」
と声を漏らした。
・・ドックン、ドックン、ドックン、ドックン……・・
それだけで山田の心臓は早鐘を打ち始め、音が医師にも聞こえるのでは心配になった。
「…………」
『せ、先生』
堪らず声を発していた。
「あ、はい」
胃の写真に目を落とし考え込んでいた医師が、山田の呼び掛けに目線を上げた。
『せ、先生……、癌、でしょうか?』
山田は不安を思い切って口に出してみた。
「……リンパ×○……、か……」
語尾が掠れて聞き取れなかったが、リンパ癌かも知れませんと聞こえたような気がした。
しかし、それをもう一度確認する勇気がなかった。
・・ガーン! えっ? そんな簡単に答えちゃうの、もう少し気を遣ってよ・・
「そうですねぇ……。よく調べてみないと……」
今度ははっきりと、
「そうです、リンパ癌です」
と聞こえた。
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『ガーン! ガーン! ガーン!』
と、後頭部をハンマーで三度殴られた気分だ。
・・癌、癌、リンパ、癌・・
という囁きが、山田の頭の中を駆け回った。
「……、……さん。……やま、だ、さん……」
『……あっ、はい。あ、す、すいません。……で、これから』
「山田さん、大丈夫ですか? 少し細胞を採らせてもらいました」
『えっ、あ、大丈夫です。さ、細胞を、ですか?』
「ええ、そうです。細胞を培養してみませんと、癌かどうかは判断できません。培養には二週間ほど掛かります」
『に、二週間ですか?』
「そうです。私は水曜日の担当ですから、二週間後の水曜日にいらしてください」
・・そうか、まだ癌と決まったわけではないのか・・
『わかりました。では、よろしくお願いします』
山田はそれでも冷静を装って、丁寧に礼を述べて部屋を後にした。
受付で費用の精算を待つ間、頭の中で自問自答を繰り返していた。
・・先生はリンパ癌と言った・・
・・否、言ったように聞こえただけかもしれない……・・
・・いやいや、確かにそう聞こえた。俺はリンパ癌ナンだ。とうとうきたか。お袋になんて言おうかなぁ……・・
・・でも、まだそうと決まったわけじゃない。二週間後の結果が出るまで、知らせるのは止めよう・・
「キキキキーッ! こらぁーッ! 信号は赤だろう。気をつけろーッ!」
『あっ、す、すいません。ふ~う、危ない、危ない』
・・ダメだ、しっかりしナくっちゃ……。癌の前に交通事故で死んじゃう・・
山田は自分の狼狽に対して皮肉な笑いを浮かべていた。
・・それにしても、今はほんとうに簡単に、癌の宣告をするんだなぁ。誰にでも宣告するのかな? 再検のとき一緒になった、あのお婆さんなんかにも言うのかな? 俺がこれだけうろたえるンだから、あのお婆さんなんてショックで引っくり返っちゃうンじゃないかな。それとも、俺がダラシないのかなぁ~。ふふふふっ…・・
なんだか笑うしかない心境だった。
3
・・こんなとき誰かに話せれば、少しは気が紛れるのだが……。しかし、会社で誰かに話せば、アッと言う間に面白可笑しく噂が広がってしまう・・
幸い山田には、過って駐在していた中国に信頼できる友人がいる。
彼女は元医師という経歴の持ち主だ。
山田は久しぶりに電話をしてみることにした。
直ぐに携帯電話に繋がり、一時間ほど話し込んだ
親身に励ましてくれる友人に、山田はとても気持ちが楽になった。
『それにしても結果が出るまでの二週間は長いし辛い、せめて当日に結果がでれば、悩まなくてすむのに……』
と山田がその友人に話すと、
「私、その病気について調べてみます。明日また電話をします。それとなにかあったら、いつでも電話をしてください」
と励ましてくれる。
その言葉に甘え、山田は毎日電話で彼女に苦しみや悩みを伝えた。
それで山田の気持ちは楽になるが、彼女は……。
忙しいことも煩わしいことも、或いは情けない男と思ったこともあったろうが、いつでも親身になって応じてくれた。
山田は二週間毎日励ましてもらったことになる、それで悩みは随分軽減されたものだ。
その日が近づくと、検査結果を聞くのを先送りしたい気持ちが湧いてくる。
・・なにか絶対に避けられない用事ができないかな。病院に行かなくてもいいような理由が、なにかできないかな……・・
などと思い巡らしているうちに、とうとう運命の日はやって来た。
前日まで、
・・一度会社へ出勤してから病院へ行こう、否、午後から行こう・・
などとウジウジしていると、
「いい、明日は朝一番で行きなさい。そして、直ぐに結果を私に報告しなさい」
その晩、ほとんど命令口調の電話が入った。
それで山田は覚悟を決めて、家から直接病院へと向かった。
午前七時半到着、病院の扉は既に開いている。
・・俺より早い人がいる?・・
掃除の小母さんだ。
山田は心のシコリを振り切るように、元気良く挨拶をすると、とても素敵な笑顔が返ってきた。
それで気持ちが晴れた。
『よしッ!』
と気合を入れて、
・・どんな結果が出てもしっかりと受け止めるぞ・・
と、心に誓った。
御仕舞