第十三話 携帯でメールを打ち続ける女
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上野発午後六時十分、常磐線快速取手行きに山田一郎は乗り込んだ。
前の五両は我孫子で切り離されると放送があった。
・・我孫子、読める? “あびこ”と読むンだよ。ついでに、安蒜は読める?・・
山田は最近この列車での帰宅が多い。
時間も早く本数も多いので確実に座れるのだ。
この日、運の良いことに、空いていた三人掛け席の真ん中にうら若き女性が座った。
「すいません」
と消え入りそうな声で挨拶をしてから座った。
山田もつられて、
『あっ、はい、どうぞ』
と間の抜けた挨拶を返して身体を脇に寄せた。
・・今日は運がいいな。大安、大安、へへへっ…・・
別になにがあるわけでもないが、隣に若い女性が座ると嬉しいものだ。
まっ、大人しく座っていてくれれば、の話だが……。
出発間際にその女性がスッと立ち上がった。
なにかモゾモゾしている。
ジロジロ見てもと思い、山田は“週刊新潮”に目を落としていた。
ガサガサ、ゴソゴソ、中々座らない。
やがて列車が動き出し、女性はよろけて山田の膝に腰を落としてしまった。
謝るかと思ったら、ジロッと睨みつける。
・・むっ、なんだ、この女は……。珍しく礼儀正しいと思ったが、勘違いか・・
その女に対する反感から、
山田の心境は、“痘痕も笑窪”から“笑窪も痘痕”に変わっていた。
こうなると相手がどんな好い女でも悪い感情が優先する。
・・詫びのひと言えねぇのか。早く座れ。バカヤロー・・
と、なってしまうのは仕方のないこと……。
その女性はおもむろに携帯電話を取り出した。
「カチカチカチカチカチ、カチカチカチカ、カチカチカチ……」
もの凄い勢いで、一心不乱にメールを打ち出した。
「カチカチカチカチカチ、カチカチカチカ、カチカチカチ……」
・・ええい、耳につく。うるせぇ、バカヤロー・・
段々心がささくれ立ってくる。
女性はそんなことにお構いなしだ。
「カチカチカチカチカチ、カチカチカチカ、カチカチカチ……」
・・疲れるだろう。少しは休めよ。えっ、疲れない。そうじゃねぇよ、周りがたまんねぇンだよ。いい加減にしねぇか・・
と言いたかったが、動き出せば電車の音に紛れるだろうと我慢した。
しかし、それでもカチカチ音は脳髄に進入してくる。
・・ああ、もうダメだ・・
『すいません。止めていただけませんか』
思い切って言葉をかけた。
女性は山田に一瞥をくれると、携帯電話から目を離し膝の上に置いた。
それでホッとした山田が、
『ありがとう』
とお礼を言うと、
「私、なにか違反をしていますか?」
と言って山田を睨む。
『えっ?』
「私、違反をしていますぅ」
女性は語尾を上げてもう一度山田に問い返した。
『い、違反……、いや、そうじゃなくて……』
答えに窮する山田に、
「じゃあ、邪魔をしないでください」
ときっぱりと言い切った。
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『あっ、……』
と声をもらして山田は俯いていた。
― 行司差し違えで、山田の負け。
<ガッ、ピィッ、ああ、……座席にお座りのお客様は、一人でも多くのお客様が座れますように、なるべく席を詰めてお座りください。尚、車内での携帯電話のご使用は他のお客様のご迷惑となります。電源は切って~、ご協力をお願い申し上げます。プッツン>
・・あれ? ほら、今、携帯の電源は切ってくださいって、車掌さんが言ったじゃない。……ってことは、メールを打つのも違反じゃないのか? そうそう、確か、携帯の電波は心臓のピースメーカーに悪いって、以前聞いたことがあるぞ・・
『ほら、おねぇさん。電源、切ってくださいって……。電波が心臓病の人に悪いみたいだから……』
山田は遠慮気に極力感情を抑えて言ってみた。
と、キッと顔を上げた女が、
「おねぇさん、って……、だいたい、あなたは心臓が悪いンですか?」
と反撃してきた。
『俺っ? 俺は、別に……』
シドロモドロする山田に、
「だったら、文句言わないでください。関係ないでしょッ!」
女性はきっぱりと言い放った。
『し、しかし、ま、周りに、心臓の悪い人が……』
「居るって言うンですか? あなたは周りの人たちとお知り合いですか?」
山田の顔をマジマジと見ながら、女は皮肉交じりに攻めてくる。
『あっ、いゃ……』
フンといった感じに、女性はそんな山田を無視して、
「カチカチカチカチカチ、カチカチカチカ、カチカチカチ……」
と、凄いスピードで機械音を発し続けている。
・・スピードに見とれている場合じゃない。よし、抗議のために、せっかく確保した席だけど、前のおばさんへ譲ろう。そうすれば、この女も自分の行為に気付くだろう・・
『どうぞ、座ってください。隣がうるさいですけど……ねッ!』
山田は皮肉を込めて言ってから、敢然と起ち上がった。
「えっ? あ、はい……」
そのおばさんは小首を傾げ、ペコリと頭を下げたから座った。
山田は隣の女性の反応を見たが、
「カチカチカチカチカチ、カチカチカチカ、カチカチカチ……」
まったく意に介する様子もない。
『糞ッ! このバカ女……、世も末じゃ』
と小声で呟いた。
チラッと女性が目を上げる。
どうやら、山田の行為に気がついてはいるようだ。
しかし無視、相変わらず忙しくメールを打ち続けている。
席に座ったおばさんも、山田がなぜ起ったのか理解できたようだ。
おばさんは女性を横目で見てから、なるほどといった表情を浮かべ、前に立っている山田に視線を投げかけてから、静かに目を閉じた。
・・このヤロー、俺のような大人しい、然も分別のある男じゃなかったら、今頃は携帯を床に叩きつけられ、踏んづけられて、頬っぺたの一つも張り倒されているぞ・・
山田は憎々しげに呟いていた。
御仕舞