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第十一話 外を見ていない運転手

1


山田一郎は窓際サラリーマン……。

今日も定時(五時十五分)に会社を出て、東京から一時間半を要する東武野田線の七光台駅で下車した。

この辺りまで来ると気温は、都心と比べて二度は違う。

・・寒い・・

思わず首を竦めた。

歩いて十分、実は走って十分の自慢の一戸建て住宅に向かっている。

結婚が遅く、家を買ったのも三十五歳のときだったので、三十年ローンはまだ七年も残っている。

今年の一月で五十八歳になった。

隣の不倫馬鹿カップルに腹を立てながらも、退職するわけにはいかないのだ。

・・ほれほれ、三十を過ぎた女が甘ったれた鼻声を出すンじゃねぇよ。なぁ~にが、ハマサキさぁ~んだよ。おうおう、相手のチンパンジー面がカズミちゃ~ん、これ美味しいよ、食べるぅ~、だって……、ああ、気持ち悪い・・

時刻は七時ジャスト、駅はまだ空いている。

駅前のパン屋“ルミエール”で大好きな焼き立てのブドウパンを一斤購入した。

・・やった、やった。よし、今晩は飯の替わりにパンだ・・

いつもこの時間では買えないが、今日は運良く買うことができた。

それだけで小市民、山田は嬉しかった。

駅前の信号は押しボタンを押してもしばらく待たされる。

それをいつも不満に思っているが、待望のブドウパンを久しぶりに買うことができたのでそれもあまり苦にはならなかった。

駅から走って十分の家へと急ぐ。

道は昔の農道でとても狭く、車が擦れ違うのはちょっと難しい。

どちらかの車両が縁石に乗り上げて待つ。

少し大きめのトラックなどが来ると、歩行者は脇に寄って怖い思いをしながら遣り過ごすことになる。

一台の軽自動車が山田の進行方向から迫って来る。

もう辺りは暗いのでライトを点けている。

ヘッドライトが道路の凹凸の所為で上下に揺れると、強い光が時々山田の目を射た。

真っ直ぐに進んで来る。

軽自動車なので楽に擦れ違えるはずと判断し、山田はそのまま歩を進めた。

心持車が山田の方に寄って来る気がする。

・・一本道だ。俺が居るのはわかるだろう・・

右手に皮の鞄、左手に買ったばかりのブドウパンを下げ、安心し切って山田は進む。


2


『えっ、えっ、えっ……』

近づいて来る運転手の顔が良く見える。

『な、なんだ、なんだ?』

しかし、その男はこちらを見ていない。

『おい、バ、バ、バカ、こっ、こっちを見ろ』

と叫んでも聞こえるはずもない。

『あッ! ああああ、あーッ!』

山田は咄嗟に危険を感じた。

既の所で車を避けたが、その拍子に右足が泥濘にめり込んでいる。

そして、大切な、大切なブドウパンがバックミラーに触れて吹っ飛んでいた。

『バ、バカヤローッ!』

と怒鳴っても、なにごともなかったように車は遠ざかって行く。

一度ブレーキランプを燈したが、思い直したようにその軽自動車は走り去って行った。

ナンバーを読もうとしたその瞬間、ライトがパッと消された。

確信犯だ。

山田は慌てて石ころを掴んで投げつけたが、道路でカチッと虚しく弾けた。

『糞ッ!』

左手に持ったポリ袋は千切れて飛んで、ブドウパンが道路に転がっている。

滑ってひっくり返るのはなんとか踏ん張ったが、泥に突っ込んだ右足の革靴はドロドロに汚れていた。

靴の中にまで泥が侵入している。

・・糞ッ! あのヤロー、前も見ずに肉饅かなんかに喰らいつきやがって……。危ねえ、危ねえ。まだ轢かれなかっただけ、幸いか。あ~あ、しかしブドウパン……。あ~あ、この靴……、どうすりゃいいンだよ・・

山田は怒りを抑えながら、田町駅前で貰ったサラ金の広告用ティッシユを取り出し、虚しく皮靴のドロを拭った。

慌てて飛び込んだトイレでのティッシュペーパー、困ったときのティッシュはなにものにも換えがたいものだ。

広告主がサラ金だからと、捨てなくって良かったとつくづく思った。

・・この辺りでは見たことのない面だ。誰かわかれば家まで押しかけて行くンだが……。糞ッ! 豚ヤローが……。それにしても醜い豚面だった・・

と相手を酷く貶すことで、山田は自らを慰めていた。

・・ああ、喰えないだろうなぁ~・・

山田はブドウパンを横目で見て、泥で汚れた靴下を皮靴の中でネチャネチャさせながら、家路を急いだ。



御仕舞


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