第十話 携帯電話を見ながら歩く輩
1
或る日の帰宅時、JR常磐線の柏駅……。
『あっ、いっ、とっととと……』
前を歩いている男が急に立ち止まる。
しかし、急ブレーキも間に合わず男の背中にトンとぶつかった。
山田一郎はむっととして、
『きっ、……』
気をつけろと声を発するよりも早く、男が、
「いてぇな」
振り返って山田を睨みつけた。
『きっ、……ごめんなさい』
男の迫力のある目付きに山田はたじろぎ、文句を言いかけたが、情けないことに口から出た言葉は、ごめんなさいのひと言……。
すごすごとその場を離れようとすると、
「ちょっと待てよ。……おい、待てよ。オヤジ!」
・・ああ、やばい。聞こえない振りして行っちゃおう・・
「おいこら、トボケてんじゃねぇよ」
追いかけて来た男が山田の肩に手を掛けた。
『うッ!』
と声を発して、山田は立ち止まった。
「うい、こらぁーッ! 舐めてンじゃねぇぞ」
威嚇する男と向き合った山田の足は、傍から見てもガクガクと震えているのがわかった。
それで更に付け上がった男がニヤリと笑って、
「ちょっと顔貸せ」
と凄んだ。
頼りなげな山田の態度に、金を巻き上げられるとでも思ったのだろう。
『は、はい。な、なんでしょうか?』
いつもなら土下座をしても争いごとから逃れようとするが、その日の山田は冷静だった。
「なんでしょう、じゃねぇよ」
『それでは、どんなご用件でございましょう?』
山田の足の震えが止まっていることに男は気付いていない。
男がいきなり山田の襟首を掴んだ。
『あっ、止めてください。お金ですね、お金ならあげますから、殴らないでください』
と言って財布を出しながら、殊更大きな声で山田は訴えるに言い放った。
いきなり財布を突きつけられた男が戸惑っている。
まさか、これだけの大衆の面前で財布を受け取るわけにはいかない。
「な、なに、言ってるンだ……」
と辺りを窺いながら、差し出された山田の財布に手を伸ばした。
「そ、そうか、慰謝料だ」
と言って、財布の中から一万円札を抜き出した。
その時、山田は男の肩越しに視線をやりながら、如何にも後ろの警察官に訴えるように、
『お巡りさ~ん、お金を取られました。こ、この男です』
と男の腕を掴んで叫んだ。
一斉に周りの乗客の目が二人に集中した。
「な、なにッ!」
慌てて財布と現金を投げ返すと、男は脱兎の如く駆け出した。
2
或る日の早朝、JR常磐線の日暮里駅……。
窓際サラリーマンの山田一郎が、混雑する車内から吐き出されるように飛び出した。
山田は混雑する電車内でのトラブルが嫌で、いつもは六時半に日暮里駅に到着する。
しかしこの日は一時間ほど遅くれて、七時五分に柏から乗り込んだ。
筑波EXの開通で以前より空いたとはいいながら、七時台はラッシュのピークの時間帯だ。
揉まれに揉まれて七時半に日暮里駅へ到着した。
久しぶりのことで身体がバラバラ、
・・ふ~う、参った、参った。この時間帯はこんなに混むのか。明日は遅刻しないようにしなくっちゃ……。毎日こんなんじゃ身が持たないよ・・
『おい、早く歩けよ』
向かいの三番線ホームに山手線が滑り込んで来るのが見えた。ということは、
・・間もなく四番線に京浜東北線が来るはずだ。急げば間に合う・・
会社の始業には十分間に合うのだが、いつもより一時間遅れで山田は気が焦っていた。
それで前を俯きながら歩く女性に、
『おい、早く歩けよ』
と強い口調で言っていた。
どうやら携帯電話を見ながら歩いているようだ。
最近、辺りを気にせず夢中になっている携帯オタクが老若男女を問わず多い。
こういった携帯オタクはぶつかりそうになっても、縦しんば(よしんば)ぶつかっても、詫びのひと言も言えない。
山田は詫びを言わない中国人をもじって、こういった輩に日中人と名付けている。
<そうではない中国の皆様、ごめんなさい>
いきなり女が立ち止まった。
『うっ、とっととと……』
サッと身をかわしたが、鞄が軽く女の身体に触れた。
「な、なにをするのよ。私を突き落とす気ですか」
『あっ、いえ、ご、ごめんなさい』
山田は詫びを言ってその場を立ち去ろうとした。が、
「逃げるのですか、この痴漢男ッ!」
と、女が罵声を浴びせた。
『うっ……』
焦る気持ちからつい口を突いて出た言葉なのに、きつい反撃に山田は返す言葉を失う。
・・や、やばい・・
険のある目付き、どうやら虎の尾を踏んでしまったようだ。
『あっ、ごめんなさい』
と山田がその場を離れようとすると、
「待ちなさい、ってば。この人、私を突き落とそうとしました。誰か、駅員の方を呼んでください」
大声で女が叫んだ。
『ちょ、ちょっと待ってください。突き落とす、なんて……私は、なにも……』
ドギマギとする山田の額に汗が滲む。
しかしそんな二人の遣り取りにも、朝のラッシュ時の乗客は誰も興味を示さない。
チラッと一瞥をくれて通り過ぎて行く。
やがて土浦行きの上り常磐線が、二人が相対するホームに滑り込んで来た。
この時間帯の上り列車はガラガラだ。
それでも二人を邪魔だとばかりに、突き飛ばすようにして乗り込む乗客がいる。
「な、なにするンですか」
「やかましいーッ! 邪魔だ、そんなとこにボケッと突っ立ちやがって、このヒステリーババアーッ!」
「なっ、なんですってぇーッ!」
・・チャンス・・
山田はスッとその場を離れ、他の乗客に紛れ込んでいた。
「あっ、痴漢が……」
・・おお、危ねぇ、危ねぇ・・
と囁きながら、山田は後ろも振り返らず階段を駆け上がった。
上から見下ろすと、女がキョロキョロしながら階段を上がって来る。
・・おっと、やばい、やばす。見つかったかな?・・
急いで三、四番線ホームの後方へと走る。
運良く京浜東北線の大崎行きが滑り込んで来た。
・・早く、早く・・
今にも女が階段を駆け下りて来るかと山田の気が焦る。
電車が停止してドアが開いたので、山田は飛び乗って奥へと進む。
・・早く、ドアを閉めろ。早く、走り出せ・・
山田は祈る。と、
・・やばい、女が階段を下りて来た。早く、早く、早く発車しろーッ!・・
心の中で叫んでいた。
女の目線が山田を探しているのがわかる。
・・あッ! 見つかる・・
思わず目を瞑っていた。
と、三番線には山手線が滑り込んで来た。
女の目が京浜東北線の車内から山手線へと移動した。
その瞬間、ドアがガガガッと音を立てて半分ほど閉まり、ドンと音を発してまた開く、
『あっ、うっ……』
女と目が合った。
・・やっ、やばい・・
山田が凍りついたとき、ドアがトンと閉じた。
・・俺はそんなに悪いことをしたのだろうか……。それにしても良かった。俺はこの時間帯の電車乗ることはまずない・・
それで山田は、もう一度大きく溜息をついた。
御仕舞