くしゃみ令嬢と呪いの公爵 ~魔法を消して嫌われた私ですが、眠れない公爵様にだけ感謝されています~
「……寝ている。公爵様が、寝ている……!」
執事のバーナードさんが、泣きそうな声でそう言った。
グレイ公爵邸の書斎。午後三時。掃除婦の格好で羽ぼうきを振るい、本棚の前で大きなくしゃみをひとつした、その直後のことだった。
「へっくしゅん! ……失礼いたしました」
鼻を押さえて謝るわたしの目の前で、それまで書類とにらめっこをしていた公爵様が、ゆっくりと椅子にもたれかかった。そして、そのまま眠ってしまったのだ。
「先週は三十分だったのに。今回は、もう一時間……」
バーナードさんは震える手で懐中時計を見た。わたしも書斎の時計を見上げる。いつもは十五分もすれば目を覚ます公爵様が、今日は起きない。時間がたつほど執事の顔が青ざめたので、途中からは眠りを喜んでいるのか心配しているのか分からなくなった。
結局、わたしは帰りそびれた。窓を閉め、火の気を確かめ、書類の上に毛布を落とさないよう気をつけながら、夕方まで見張り役を務めた。
午後六時。バーナードさんの懐中時計が、三時間目を告げた。
「三時間だ……! 七年前に呪いを受けてから、こんなに深くお休みになったことはない。誰か、毛布を! 静かに! 邸中の者に言え、今日は爪先で歩けと!」
わたしは羽ぼうきを握り直し、こっそり後ずさった。
まずい。仕事の成果が出すぎた。これほどの騒ぎになれば、わたしの正体まで調べられるかもしれない。
わたしの名前はリリア・アルノー。十九歳。子爵家の長女。そして、王都ではちょっとした有名人である。
――くしゃみで社交界を壊滅させた女、として。
◇
わたしの体質が発覚したのは、十六歳のデビュタントの夜だった。
その晩のわたしは、それはもう完璧だった。母が仕立ててくれた白いドレスには、光を受けてほのかに揺れる魔法刺繍が施されていた。髪も、頬の化粧も、練習を重ねた挨拶も完璧。
あとは笑顔で一曲踊るだけ、のはずだった。
問題は、会場に飾られていた百合である。わたしは花粉に弱い。とくに百合。最初の相手と手を取った瞬間、鼻の奥がむずりと疼いた。
「……っ、ふ……ふ……」
「リリア嬢?」
「だ、大丈夫です。……へっくしゅん!!」
盛大なくしゃみだった。それ自体は、まあ、恥ずかしいだけである。大変だったのは、そのあとだった。
わたしのくしゃみは、同じ部屋で働いている魔法をまとめて解いてしまう。ドレスの刺繍が光を失い、貴婦人たちの髪を結い上げていた固定魔法が解け、自動給仕人形が三台まとめて止まった。極めつけに、照明代わりに浮かんでいた魔法の灯りが、ぷつんと一斉に消えたのだ。
真っ暗闇の中、髪を振り乱した貴婦人たちの悲鳴と、割れるグラスの音。近くにいたお年寄りが転び、わたしは謝りながら手を貸した。その間にも「犯人は誰だ」という声が飛んでくる。
翌日の社交界紙の一面は、こうだった。
『暗黒の舞踏会――元凶は子爵令嬢のくしゃみ』
以来、わたしは舞踏会というものに呼ばれなくなった。いえ、正確には、呼ばれても行かないことにした。行くたびに「あの令嬢がいる」と囁かれ、花に近づけば周りが一歩下がる。笑顔でいるのにも、限界というものがある。
だから決めたのだ。わたしは人前でくしゃみをしない。魔法のある場所には近づかない。社交界からは身を引く。
困ったことに、くしゃみは魔法そのものではないらしい。協会の調べでは、わたしの体は魔法の働きかけを受けつけず、治療魔法も効きにくい。誰かに守護の術をかけてもらうこともできない。便利なのか不便なのか、十六歳からずっと判断に迷っている。
――そのはずだったのに、なぜ今、公爵邸で掃除婦をしているのか。
理由は、お金である。身も蓋もないけれど、本当のことだ。
アルノー子爵家は貧しい。父は領地の立て直しに私財を投げ、弟は来年、騎士養成学校に入る。そんな折、魔術師協会でわたしの体質を調べてくれた研究員、ナディアさんから内密の仕事を紹介された。
『週に一度、グレイ公爵邸で掃除をしてほしい。ただし掃除は建前だ。本当の依頼は――邸の中で、くしゃみをしてほしい』
最初は冗談だと思った。けれど報酬は、普通の掃除婦の十倍だった。
「閣下は呪詛を受けておられる。七年前から、眠ってもすぐに悪夢で目が覚める。朝まで休めた日は一度もないそうよ」
ナディアさんは、真面目な顔で言った。
「解呪の魔術師を何人も試したけれど、呪いが戻ってしまうの。あなたのくしゃみなら、一時的にでも眠れるかもしれない」
「協会の会長さんには、相談したんですか?」
「いいえ。会長を通すと話が広がるわ。依頼主は公爵家のバーナードさん。協会からの正式な派遣ではなく、わたし個人の紹介という形にする。あなたが心配なら、断っていいのよ」
断っても責められない仕事だと分かって、少し安心した。けれど、受けない理由にはならなかった。
くしゃみひとつで、人が眠れるようになるのなら。それは、社交界を壊滅させた欠点が、初めて誰かの役に立つということだった。
「やります」
鬘と眼鏡と、掃除婦の制服を用意した。名前も、リリアではなく「リリ」と名乗ることにした。
もちろん、変装でごまかせるのは顔だけである。昔の舞踏会を知る人に、くしゃみまで聞かれたらおしまいだ。だから掃除は本当に丁寧にした。手を抜いたら、あの騒ぎを起こした令嬢が公爵邸に潜り込んだことだけが残ってしまう。
かくして、週に一度の秘密の仕事が始まったのである。
◇
公爵様――セオドア・グレイ閣下は、二十九歳。王国有数の領地を持つ大貴族で、騎士団の後見人でもある。七年前、先代の急死で家督を継いだ頃から、眠っても悪夢で目を覚ますようになったという。
休めない、というのは思ったよりずっと過酷なことらしい。わたしが邸に通い始めて三か月。目撃した閣下は、いつも目の下に薄い隈を作り、短気で、書類の山に埋もれていた。
わたしの仕事は単純だ。火曜日の午後、書斎と寝室を掃除する。本棚に近づき、頃合いを見て、羽毛で鼻をくすぐり、くしゃみをする。すると周囲の魔法が解け、呪いの効き目も薄れる。最初は十五分、次の週は二十分。目を閉じる時間が少しずつ延びていった。
その夜にはまた悪夢が戻る。術の根がどこかに残っていて、時間がたつと呪いをかけ直すのだろう、とナディアさんは言っていた。休める時間は短いけれど、公爵様は少しずつ食事を取れるようになり、わたしの来る火曜日を待つようになったらしい。
ただし条件があった。絶対に、正体を知られてはいけない。令嬢が掃除婦をしていたと知れれば、家の名前に傷が付く。それに何より――閣下は、自分の弱みを誰かに見られることを極端に嫌うのだと聞いていた。
だからわたしは、いつも閣下が眠ったのを確認してから、そっと退出していた。
それなのに今日。三時間も眠った閣下が目を覚ましたとき、わたしはまだ書斎にいたのである。
「……誰だ」
寝起きの、掠れた声。わたしは羽ぼうきを落としそうになった。
「し、失礼いたします! 掃除婦のリリです! すぐ出て行きます!」
「待て」
閣下は額を押さえ、ゆっくりと起き上がった。そして信じられないものを見る目で、自分の腕時計と窓の外の傾いた日差しを見比べた。
「……三時間。俺は三時間、眠ったのか」
「は、はい。そのように見受けられます」
「先週も、先々週も、火曜の午後だけ眠れた。……そういうことか」
閣下の視線が、わたしに刺さった。机の上の書類には、魔法で封をした形跡がある。今はただの紙束だ。わたしのくしゃみのせいである。
「お前の、くしゃみか」
わたしは観念した。逃げるなら今しかない。いや、もう遅い。鬘の下で冷や汗が流れた。
「……はい。申し訳ございません。黙って邸に入り、勝手に解呪まがいのことをして。バーナードさんからの依頼で、悪意は決して――」
「礼を言う」
「……え?」
閣下は立ち上がり、まっすぐにわたしを見た。先週まで眠りが浅かった人の目とは思えないほど、その瞳は澄んでいた。
「七年ぶりに、悪夢を見なかった。三時間、ただ静かに眠れたんだ。……ありがとう」
わたしは、羽ぼうきを持ったまま固まった。
これまでの人生で、わたしのくしゃみに礼を言われたのは、初めてだった。
◇
正体が――半分だけ――バレた日から、仕事の形が変わった。
まず、給金が倍になった。次に、くしゃみをする場所が、書斎だけではなくなった。寝室、温室、使用人棟の前。閣下の眠りが浅い週には、到着するなり応接間で一発、ということもある。
ただし、魔法仕掛けの道具がある部屋では、必ず先に知らせる。それはわたしが言い出した決まりだった。くしゃみで火を消せても、倒れた燭台まで元には戻せない。魔法が消えたあとのことまで考える。それが、十六歳の舞踏会から学んだ教訓である。
そして何より、閣下が起きているときにくしゃみをする、という日が増えた。
「さて、リリ。今日も頼む」
「無理です。くしゃみは、しようと思ってできるものではございません」
「そこを何とか」
「お金の問題ではございません。鼻の問題です」
わたしたちは本気で研究を始めた。羽毛、ほこり、冷たい風、眩しい光。胡椒は鼻を痛めるので、緊急用として小瓶に入れた。バーナードさんが鍵のかかる引き出しに保管し、わたしたちは「原則使用禁止」と張り紙までした。
研究の成果は、こうだ。緊張すると出ない。焦れば焦るほど出ない。逆に、ぼんやりしているときや、午後の日差しが気持ちいいとき――そういうときに限って、盛大に出る。
もうひとつ分かったことがある。呪いは消し去れないまでも、くしゃみのたびに術のつながりが弱くなるらしい。ナディアさんは調査記録に、こんなことを書いていた。
『呪いを結び直す核が残っている。そこへ直接干渉できれば、根元から断てるかもしれない。ただし、核がどこにあるかは不明』
閣下はその報告を読んで、真顔で「まず核を探そう」と言った。わたしは「まずくしゃみを自在に出す方法を探してください」と返した。二人とも間違っていなかったので、話し合いは引き分けになった。
「厄介な体質だな」
「申し訳ございません」
「謝るな。……俺の呪いだって、十分に厄介だ」
閣下はそう言って、少しだけ笑った。わたしが訪ねる日が週に一度から二度に増え、閣下の機嫌は目に見えて良くなった。隈は薄くなり、邸の使用人たちは「閣下が怒鳴らなくなった」と噂した。
ある日の帰り道、公爵邸の門前で事件は起きた。
荷馬車ならぬ、魔法仕掛けの運搬車が坂の上から暴走してきたのだ。荷台には石材が積まれ、御者の青年は真っ青な顔で手綱――いや、制御の魔石を握りしめている。
「止まれ、止まってくれーっ!」
自動運転の術式が暴走している。車は加速し、門前の広場で遊んでいた使用人の子どもたちの方へ突っ込んでいく。
「子どもを壁際へ!」
わたしが叫ぶと、近くの門番が駆け出した。車輪の脇では、非常停止用の鉄の爪が激しく上下している。動力の魔術が暴走すると、安全装置まで引き上げられてしまうのだと、以前ナディアさんが愚痴を言っていたのを思い出した。魔術さえ切れれば、ばねで鉄の爪が車輪に食い込むはずだ。
わたしは車が通る石畳の横へ駆け寄った。荷台の上から石の粉が舞い上がり、鼻の奥がむずつく。幸運なことに、今日は緊張より先にくしゃみが来てくれた。
「へっ……へっ……へっくしゅん!!」
くしゃみと同時に、車を覆っていた術式の光が、ぷつんと消えた。鉄の爪が勢いよく下り、車輪に食い込む。耳を裂く音を立てて石畳を削りながら進んだ車は、子どもたちの手前三歩のところで止まった。
あたりが静かになった。御者の青年が、その場にへたり込む。門番の腕の中で、子どもたちが、わあっと泣き出した。
「……間に合った」
わたしは膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。ひとりでは間に合わなかった。門番が子どもを抱き寄せてくれたから、落ち着いて車の仕組みを思い出せたのだ。
その夜、閣下から呼び出しを受けた。
「門前の件、聞いた。……なぜ、あんな危険なことをした」
「目の前で子どもたちが危なかったので」
「お前が轢かれていたら、どうするつもりだった」
「車の真ん前には出ませんでした。……でも、怖かったです」
閣下は深く息を吐いた。叱られると思った。秘密の仕事の範囲を越えた、と。
けれど閣下は、机の引き出しから一枚のハンカチを取り出し、黙って差し出した。上質な麻の、白いハンカチ。隅には、グレイ家の紋章が刺繍してある。
「……鼻だ」
「え?」
「くしゃみをするたび、お前は鼻が赤くなっている。痛そうだ。……使いなさい」
わたしはハンカチを受け取った。なんだろう。胸の辺りが、変にくすぐったい。
「あの子たちも、今日のお前に礼を言っていたぞ」
「そうなんですか?」
「俺の部屋に乗り込んできて『リリお姉ちゃんはすごい』とな。執事が三度お帰りいただこうとしても動かなかった。……俺も、同感だ」
いっそ、ここでくしゃみをしてしまいたかった。顔が熱いのを、鼻のせいにできそうだったから。
「ありがとう、ございます」
「それと、リリ」
「はい」
「来月の王宮の舞踏会に、俺の邸からも何人か招かれている。……お前は、行かないのか」
心臓が、どきりとした。
「わたしは掃除婦ですので」
「そうか」
閣下はそれ以上、何も聞かなかった。その優しさが、少しだけ痛かった。
◇
その週の終わり、邸に来客があった。
魔術師協会の長、マルクス伯爵。閣下の叔父上にあたる方で、亡き先代公爵の弟君だという。
「セオドア。顔色が良くなったではないか。眠れているのかね?」
「おかげさまで、叔父上」
「ほう。どの魔術師の仕業かな? わしにも紹介してほしいものだ」
応接間の扉の陰で給仕の支度をしていたわたしは、その笑い声に、なぜか背筋が寒くなるのを感じた。閣下は指先で額を一度押さえた。寝不足の日に、よくする仕草だった。
マルクス伯爵の指には、黒い石の指輪があった。黒曜石だろうか。光を吸い込むような、嫌な輝き方をする石だった。
「次の王宮の舞踏会では、国王陛下への献上品として、新しい守護魔術を披露する予定でね」
伯爵は上機嫌に言った。その指輪が、言葉に合わせて一瞬だけ暗く光る。
「会場全体を覆う大規模なものだ。楽しみにしておくといい」
閣下は何も答えなかった。ただ、わたしのいる方を一瞬だけ見た。
帰り際、伯爵が何気なく閣下の肩に手を置いた。閣下の顔がかすかに歪む。さっきまで落ち着いていたのに、急にこめかみを押さえ始めた。伯爵の指輪の黒い石は、また光った。
わたしは手にした盆の縁を握った。偶然だろうか。何か聞こうとしたところで、バーナードさんに呼ばれたので、結局確かめられなかった。
その夜、閣下は言った。
「リリ。舞踏会の日、屋敷に残れ。……何が起きても、会場には近づくな」
「なぜ、ですか」
「叔父上は昔から、俺の領地と家督を欲しがっていた。七年前、父が急死した直後に呪いが始まったのも、偶然とは思えん」
「あの黒い指輪……伯爵様が閣下に触れたとき、光っていました。そのあと、閣下の顔色が悪くなって」
閣下が顔を上げた。
「お前も見たか。俺も、叔父上の訪問のあとには必ず悪夢が強まる。だが証拠がない。協会の長が相手では、むやみに追及もできん」
わたしは息を呑んだ。
「もし叔父上が呪いの主なら、俺が眠れるようになったことを、快く思うはずがない。次の狙いは――」
「国王陛下、ですか?」
「か、俺の命か。どちらにしても、大勢の前で魔術を使う場には、お前を置きたくない。国王陛下には警戒を進言するが、叔父上が何を仕掛けるか、まだ確証がない」
閣下は、真剣な顔で言った。
「お前のくしゃみは、確かにすごい。だがな、リリ。お前はそれ以前に、ひとりの娘だ。危険なことに、巻き込みたくない」
わたしは、ハンカチを握りしめた。
この人は、わたしを呪いを解くための道具として扱っていない。あれほど眠りを欲しがっていたのに、わたしの身を案じてくれる。そのことが、胸に残った。
「……分かりました。舞踏会の日は、邸でおとなしく掃除をしています」
そう約束した。そのときは、本当にそのつもりだったのだ。
◇
事件は、あっけなく起きた。
温室の掃除中、花の手入れをしていた庭師が、鉢をひっくり返したのだ。土と花粉が舞い上がり、わたしの鼻が盛大にむずついた。
「へっ……だ、駄目……へっくしゅん!!」
過去最大級のくしゃみだった。温室の自動散水の魔術が止まり、宙に持ち上げられていた水が一度に落ちてきた。小さな滝を浴びたわたしは、その場で目を閉じる。
水の勢いで、わたしの鬘が外れた。
茶色い鬘は水路を滑って、温室の薔薇の茂みに引っかかった。下から現れたのは、わたし本来の金に近い栗色の髪。そして水滴を拭おうとして眼鏡を外したわたしの顔を、ちょうど通りかかった閣下が、まじまじと見ていた。
「……どこかで見た顔だと思っていた」
閣下は、三年前の社交界紙を思い出すように言った。
「暗黒の舞踏会の、子爵令嬢」
わたしは真っ青になった。
「ち、違います、人違いです、その令嬢はもっとこう……いえ、わたしです。申し訳ございません。令嬢が掃除婦など、家の恥でございます。すぐに辞めさせていただき――」
「なぜ謝る」
「え?」
「お前は仕事をして、対価を得ている。誰にも迷惑をかけていない。……むしろ俺は、お前に命を助けられている側だ」
閣下は薔薇の茂みから鬘を取り、引っかかった小枝を外して渡してくれた。
「あの舞踏会、俺もいたんだ」
「……ええっ!?」
「灯りが消えたあと、真っ暗な中で誰かが『すみません、すみません』と謝りながら、転んだ老人を助けていた。あれはお前だな。最初に会ったときから声に覚えがあったんだ」
覚えている。暗闇の中、わたしは謝りながら、手探りで椅子を戻し、泣いている子どもを宥め、倒れた給仕を起こした。誰も見ていないと思っていた。
「あの晩、一番まともに働いていたのが、元凶のお前だった。……面白い女だと思った」
鬘を受け取る手が震えた。面白い、と言われたことも、初めてだったかもしれない。
「リリア・アルノー嬢」
初めて、閣下がわたしの本当の名前を呼んだ。
「舞踏会に、俺と一緒に行ってくれないか」
「……正気ですか? わたしが行けば、また会場が――」
「花は外してもらうよう、陛下に頼んである。ドレスは魔法刺繍なしのものを、母上にでも仕立ててもらえばいい」
「でも、閣下は会場に来るなと……」
「言った。今も危険だと思っている」
閣下は、笑うでもなく目を逸らすでもなく、わたしを見た。
「王宮には、叔父上の指輪のことを伝えた。国王陛下は警戒を認めてくださったが、証拠がなければ守護魔術の披露を中止する理由にはならん。俺には、術を止められる手段がない。お前にはある。……ただ、お前をその手段として差し出すつもりもない」
「わたしが、行くと決めたら?」
「そばにいてほしい。何か起きたら、まずお前自身の安全を確かめる。危ないと思えば引く。そう約束してくれるなら、一緒に来てくれ」
確実な勝算はない。けれど、会場の外で何も知らずに待つのも、もうできそうになかった。国王陛下も、そこで働く人たちも、わたしのくしゃみが役に立つかもしれないなら。
「……行きます。でも、失敗したら……」
「俺もいる。お前ひとりに背負わせない」
閣下は、少しだけ目を逸らした。
「お前は一度も、まともに踊ったことがないそうだな。バーナードがナディアから聞いたらしい」
「バーナードさん……!」
「一曲だけ、俺と踊れ。くしゃみが出そうになったら、遠慮せず俺に知らせてくれ。責任は俺が取る」
わたしは長いこと黙っていた。胸の中では、行ってはいけない理由が百個も並んでいた。けれど、その百個を押しのけて、たったひとつの本音が顔を出した。
「……わたし、花のない会場で、一曲だけ、踊ってみたかったんです」
「なら決まりだ」
閣下は満足そうに頷いた。わたしは鬘をかぶり直しながら思った。この人は、わたしの欠点を「面白い」と言い、願いを「決まりだ」と言ってくれる。まずいのは、鼻ではなくて、こっちの方かもしれない。
◇
招待が決まってから当日まで、わたしは公爵邸で舞踏の練習をすることになった。教師は、閣下本人である。
「社交界から離れて三年。ステップは覚えていますが、実践は――」
「なら、まず一曲通してみよう」
邸の小広間に、バーナードさんが魔法仕掛けの蓄音機を用意してくれた。優雅な旋律が流れる。わたしたちは向き合い、手を取り、ステップを踏み始めた。
最初の一小節は、完璧だった。二小節目も、完璧だった。三小節目で、窓の外から花粉を含んだ風が吹き込んできた。
庭には薔薇が咲いていた。百合ほどではないが、わたしの鼻は正直だ。窓を閉めようと離れかけたときには、もう遅かった。
「……っ、ふ……」
「リリア嬢?」
「だ、大丈夫です、これはまだ我慢が……へっくしゅん!!」
蓄音機が止まり、広間の魔法灯が消えた。極めつけに、魔法で空中に散らしてあった飾りの銀紙が、ひらひらと雪のように降ってきた。
銀紙まみれの閣下と、銀紙まみれのわたしは、しばらく見つめ合った。
「……申し訳、ございません」
「謝るなと言っただろう」
閣下は頭に載った銀紙を払いながら、なぜか楽しそうだった。
「それに、いい練習になった。本番の会場に蓄音機はない。生演奏だ。……開けた窓から花粉が飛び込まぬようにも頼んでおこう」
「閣下は、いつもそうですね」
「何がだ」
「わたしのくしゃみを、失敗として数えない。次にどうするかの材料にする」
閣下は少し考えてから言った。
「まともに眠れない七年間で覚えたことだ。変えられないものを嘆いても、夜は明けない。……明けない夜の中で、何ができるか考えるしかない」
わたしはその言葉を胸の中で繰り返した。変えられないもの。わたしの体質も、そうだ。嘆くのは、もうやめにしよう。そう思えたのは、このときが初めてだったかもしれない。
そのあと、わたしたちはナディアさんを交えて舞踏会の相談をした。王宮の警護を増やしてもらうこと、怪しい魔具があれば離れること、いざというときの退路を確かめること。わたしの仕事は、万一のときに術を解除すること。ただし、守護魔法が使えない体だから、最前列へ飛び込むのは禁物だ。
「問題は、緊張したらくしゃみが出ないことですね」
わたしが言うと、ナディアさんは胡椒の小瓶を机に置いた。あの「原則使用禁止」の張り紙と同じ赤い印がついている。
「本当に最後の手段よ。少し吸うだけで十分。それから、術の核が強く動いているところで魔法を断つと、逆流で核そのものが壊れることがある。王宮の大掛かりな魔具は、近くに立つ位置にも気をつけて」
「では、誰がこれを?」
閣下が小瓶を取り上げ、礼服の左胸ポケットを指した。
「俺が持つ。誰かに見つかったら言い訳が必要だが、俺なら『鼻がむずむずする公爵』で済むだろう」
「……それ、済んでいますか?」
「済ませる。俺が左胸を見るのを合図にしよう。声が出せない事態になっても、お前なら分かるな?」
わたしは頷いた。頼もしいというより、胡椒の小瓶を携えた公爵という光景が少しおかしかった。それでも、逃げ道と備えがあるのは心強かった。
練習の帰り際、門前で小さな騒ぎがあった。以前暴走車から助けた使用人の子どもたちが、わたしを待っていたのだ。
「リリお姉ちゃん、これ!」
差し出されたのは、少し不格好な刺繍の小さな布だった。くしゃみをする女の人の絵、らしい。
「お礼だって。あの日、助けてくれたから」
わたしは布を受け取って、泣きそうになった。くしゃみで何かを壊した記憶は山ほどある。けれど、自分が助けた相手から、直接こんなふうにお礼を受け取ったのは初めてだった。
「ありがとう。大事にするね」
その布はすぐに、わたしの部屋の壁に飾った。舞踏会の招待状よりも、ずっと目立つ場所に。
◇
舞踏会の前日、母がドレスを仕立ててくれた。魔法刺繍はなし。真っ白ではなく、淡い青の、裾にだけ手刺繍の小花が散らされた一着。
「あら、魔法がなくても、十分きれいじゃない」
母は公爵様との仕事について、あれこれ聞かなかった。ただ、背中の紐を結びながら言った。
「明日は、謝らなくていいのよ。くしゃみは、悪いことじゃないんだから」
わたしは鏡の中の自分を見た。十九歳の、ただの娘がいた。魔法刺繍が消える心配をする必要もない。
そして当日。王宮の大広間に、花は本当に一輪もなかった。代わりに会場を飾るのは、色とりどりの絹のリボンと、魔法ではない本物の蝋燭の灯り。
国王陛下に直接事情を伝えたという閣下は、入場前に騎士団長とも短く言葉を交わしていた。壁際には、いつもより衛兵が多い。けれど客たちは気づかず、絹のリボンを褒め合っている。
「リリア嬢。危ないと思ったら、すぐ離れる。約束だ」
「はい。閣下も、ご自身を大事になさってください」
「善処する」
「それ、約束より弱くありません?」
閣下が小さく笑ったので、わたしも少しだけ笑えた。
閣下は、わたしを見て少しだけ目を見開いた。
「……よく似合っている」
「あ、ありがとうございます」
「一曲、どうぞ。リリア嬢」
音楽が始まり、わたしたちは広間の真ん中へ進んだ。周囲の視線が刺さる。「あの令嬢だ」「暗黒の舞踏会の」という囁きも聞こえる。
けれど閣下の手は大きくて、温かくて、少しも震えていなかった。一歩、二歩。わたしは練習どおりにステップを踏む。鼻は平気だった。花がない。それだけで、世界はこんなに優しい。
「……踊れている。わたし、踊れています」
「ああ。上手いものだ」
曲が終わった。わたしは生まれて初めて、舞踏会で一曲を踊り切った。目頭が熱くなって、慌てて瞬きをした。三年前は真っ暗な会場で床のグラスを拾っていた。今日は、目の前の人の顔が最後まで見えた。
そのときだった。
会場の天井で、何かが軋む音がした。
頭上には、献上品として披露されるはずの守護魔術の燭台――巨大なシャンデリア型の魔道具が、太い鎖で天井から吊られていた。装飾に見える外側の輪には、見慣れない魔術の文字がびっしり刻まれている。
マルクス伯爵が壇上で杖を掲げた。その指の黒い指輪に、魔道具から伸びた光の筋がつながる。
「陛下に、新たな守護の力を――」
次の瞬間、シャンデリアから黒い霧のような魔術が広がり、会場中の人々が音もなく動きを止めた。金縛りだ。足を出そうとした騎士がその姿勢のまま固まり、楽団の音が途絶える。国王陛下も、護衛の騎士たちも、閣下でさえ、指一本動かせない。声も出ない。
あの黒い魔法が、わたしだけを通り過ぎた。十六歳の検査で、傷を治す術も、身を守る術も効かないと告げられた体。いつもは不便で仕方なかったのに、今はわたしだけが息を吸える。
閣下の手に、触れた。温かい。でも指は握り返してこない。視線だけが、わたしを追った。
「おや。動ける者がいたとは」
伯爵が、壇上からわたしを見下ろした。指の黒い指輪が、不気味に脈打っている。
「……お前、あの掃除婦か。セオドアの顔色が良くなったのは、お前の仕業だったのだな」
伯爵の口元から笑みが消えた。国王に向けた杖の先が、ゆっくりこちらへ向く。
「七年前からあの子に仕込んだ呪いを、どこの馬の骨とも知れぬ娘が邪魔するとは。だが、もう遅い。陛下にはもっと深く眠っていただく。私が国を支えるのだ」
七年前。閣下の父君が亡くなり、呪いが始まった年。わたしは、伯爵の指輪を見た。魔道具とつながる光の筋。閣下の呪いを結び直していた核も、あそこにあるのだろうか。
伯爵はもう一度、国王陛下に杖を向けた。
やらなきゃ。今、魔道具は指輪とつながっている。あの光の筋が消える前にくしゃみをすれば、魔法を断てるかもしれない。けれど。
「へっ……へ……」
出ない。肝心なときに、出ないのだ。緊張で鼻が乾ききって、むずつきが遠のいていく。
「だ、駄目……お願い、出て……!」
そのとき、隣にいる閣下の視線が動いた。わたしの顔から、自分の左胸へ。もう一度、ゆっくりと。
左胸。
練習の日、そう決めた。声が出せないときにも分かるように。わたしは閣下の礼服の左ポケットに手を入れた。指に触れたのは、小さな革の小瓶。厳重に封がされていて、ふたを開けるのに手間取った。
胡椒だった。
「本当に持ってきてくださったんですね」
当然、閣下は答えない。ただ、その目がかすかに細くなった気がした。
伯爵の靴音が近づいてきた。魔法を受けつけないわたしにも、殴られたら痛いし、捕まれば動けない。それだけはどうにもならない。
けれど、逃げている間にも、閣下の目がわたしを追っている。危なくなったら引く。そう約束した。今なら間に合う。騎士のいる扉までは遠い。でも、あと一回、息を吸う時間はある。
わたしは小瓶を鼻の下へ近づけ、ほんの少しだけ香りを吸い込んだ。鼻に痺れるような刺激が走る。
「へっ……へっ……ふ……」
鼻の奥が、限界まで疼く。伯爵が杖を振り上げる。
「その小瓶を置け!」
「へっっっくしゅん!!!!」
人生最大のくしゃみだった。わたしの目の前で黒い魔術の筋がふつりと切れ、指輪から伸びる光が逆向きに走った。広間の天井近くまで、魔道具が激しく震える。
金縛りの魔術が、ぷつんと消えた。シャンデリアの黒い霧が晴れ、騎士たちがつんのめるように動き出す。伯爵の指輪には、ぴしりと亀裂が入っていた。
「な……何をした、小娘……!」
亀裂から光が漏れ、指輪は音を立てて砕け散った。その瞬間、閣下が大きく息を吸った。
「……解けた」
閣下は自分の手を見た。
「……胸の奥に、何もない。あの重さが消えた」
七年間、閣下を苦しめた呪いが、その指輪に結びついていたのだ。屋敷では一時的にしか解けなかった術が、今度は、核ごと消えた。
騎士団長の号令が飛び、動きを取り戻した騎士たちが伯爵を取り押さえる。国王の前には、警戒していた衛兵たちが壁のように並んだ。わたしはやっと、小瓶のふたを閉めた。
陛下付きの老魔術師が、砕けた指輪の欠片を拾い、厳かに言った。
「これが呪詛の核。守護術と見せかけ、国王陛下に拘束の術を向けていた証拠ですな。先ほどの逆流で、埋め込まれた術式も露わになった」
老人は、わたしをまっすぐ見た。
「リリア・アルノー嬢。あなたのその体質は、欠点ではない。王家の守護に等しい、稀有な力です」
会場が、ざわめいた。今度は「暗黒の舞踏会の元凶」としてではない。国王陛下が立ち上がり、わたしに深く頭を下げたのだ。
「礼を言う、リリア嬢。そなたは国を救った」
わたしは慌てて膝をついた。鼻はまだ、ぐずぐずしていた。
「も、もったいないお言葉です。わたしは、くしゃみをしただけですので……」
その場にいた全員が、少しだけ笑った。温かい笑いだった。
人々の声が戻るなか、閣下がわたしのそばへ来た。
「約束を破って、危ないところへ踏み込んだな」
「閣下こそ。ずっとわたしの隣にいらっしゃいました」
「……そうだった」
閣下は口元を押さえた。その目尻には、うっすら笑い皺が寄っている。七年間、眠りに苦しんできた人が、今夜はどんな夢を見るのだろう。
◇
それから一か月。
わたしの生活は、少しだけ変わった。社交界紙の一面は『王宮を救った、奇跡のくしゃみ』。舞踏会の招待状は、月に三通も届くようになった。花を外した会場なら、わたしは行くことにしている。
ただし、くしゃみをすれば灯りが消えることは変わらない。招待状を寄越した人に「会場の魔道具を確認していただけますか」と返事を書くと、返ってこない招待状もある。三年前なら落ち込んだだろう。今は、相手に選ぶ権利もあると思える。わたしにだってあるのだから。
そして閣下は――眠れるようになった反動で、今度は寝坊が増えた。バーナードさんから「閣下が会議に遅刻しました。気持ちよさそうに寝ていたので起こせませんでした」と、笑いながら報告を受けること、三回。
四回目にはわたしが「起こしてください。公爵家のお仕事です」と注意した。バーナードさんは「それを言ってくださる方が現れて、ほっとしております」と頭を下げた。どうやら、公爵家には眠れるようになったあとの課題もあるらしい。
ある晴れた午後、閣下がアルノー家を訪れた。掃除婦の雇い主としてではなく、正式な訪問として。
「リリア嬢」
応接間で、閣下は改まった顔をした。
「週に一度の契約は、先月で終わりにした。呪いはもうない」
「……はい」
分かっていたことなのに、胸が少しだけ痛んだ。もう、公爵邸に行く理由はない。
「だから、新しい契約の相談だ」
閣下は、一枚のハンカチを差し出した。あの日もらった、グレイ家の紋章のハンカチと同じ白い麻布。ただし隅には、小さな花と、わたしの名前の頭文字が新しく刺繍されていた。
「この刺繍、もしかして……」
「門前の子どもたちに図案を頼んだ。あの子たち、針を持つより絵を描く方が得意らしい」
あの、くしゃみをする女の人の布を思い出した。花に囲まれてくしゃみをしているのではない。花から少し離れたところで、笑っている女の人が、ここにいる。
「今度は毎日にしたい。……掃除の話ではない」
「え?」
「俺の隣に、いてほしい。くしゃみのためじゃない。お前と話していると、眠る前が楽しい。目覚めたとき、お前がいたらもっと嬉しい。……そういう理由で、だめか」
わたしはハンカチを受け取った。胸の辺りが、またくすぐったくなった。今度は鼻ではなく、ずっと奥の方だ。
「……ひとつだけ、条件があります」
「何だ」
「わたしはこれからも、くしゃみをします。どんなに気をつけても、灯りを消したり、仕事の邪魔をしたりするかもしれません。それでも、いいですか」
閣下は即答した。
「構わない。消えた灯りは、また点せばいい。出る日は、俺がハンカチを渡す。出ない日は、一緒に静かに過ごそう」
「……それは、結婚してほしいという意味ですか?」
「そうだ。肝心な言葉が抜けたな。リリア・アルノー嬢、俺と結婚してほしい」
「お受けします」
自分でも驚くほど、はっきりと声が出た。
わたしは笑ってしまった。目に涙が浮かんで、鼻の奥が、つんとした。
「へっ……」
「おい、待て、今のは嬉しい方のやつか」
「たぶん、両方です。閣下、ハンカチ、貸してください」
「もうお前のものだ」
「では、遠慮なく――へっくしゅん!」
応接間の魔法の灯りが、ぷつんと消えた。真っ昼間なので、何の問題もなかった。父と母と弟が、廊下から一斉に「おめでとう」と叫んだ。盗み聞きである。
閣下は暗くなった応接間で、声を上げて笑った。
「……これから毎日こうなるのか」
「たぶん。失礼いたしました」
「謝らなくていい」
閣下は、わたしの手を取った。
「それが、お前の挨拶だと思えばいい」
わたしは今度こそ謝らなかった。代わりに、握られた手に少しだけ力を込めた。
明日もきっと、どこかでくしゃみをする。魔法の灯りが消えたり、誰かの呪いが解けたりするのだろう。けれどもう、それを恥ずかしいとは思わない。
だって今のわたしには、暗くなった部屋で一緒に笑ってくれる人が、隣にいるのだから。




