序
――新世界見つけちゃったんだけど! 地面ってお椀の形じゃなかったんだ!
かの有名な冒険者、マリウス・フルクトゥアの言葉である。
今まで、世界はスープを入れる椀のような形をしていると信じられてきた。
女神が与えた大陸は海原に浮かび、それらを囲むようにある高い壁が、世界の果てだと考えられてきたのだ。
しかしフルクトゥアが三千年ものあいだ守られてきた禁を破り、軽い悪戯心で『禁則塔』へ足を踏み入れた。
彼が目にしたのは、当時未知の魔法であった転移魔法陣。
そして我々と似た文明、同じ言葉を持つ人々が存在する、地図上にない世界だった――。
▽
歴史書をぱたんと閉じた。
落ち着かなくて適当に開いたものの、目が滑って読めなかった。
ウェーラは今までの数時間と同じように立ち上がり、部屋の中を落ち着きなく歩き回った。
夕日に赤く染まった部屋はどこか物悲しい空気を漂わせている。もしかしたらウェーラが寂しいと思っているだけかもしれない。
なにせ、今日でこの十六年ものあいだ過ごした部屋とはお別れなのだ。
父である国王の命により、一歩も部屋の外へ出ることを許されなかったため、牢獄に等しい場所とも言える。しかし愛着があることも間違いなかった。
本棚に並んだ書籍たちの背を撫でる。ここにある知識はすべて覚えた。
一番大切な、亡き母が遺した手記は内容を覚え、昨日ひとつの塵も残さないよう燃やした。
――私は神を越えてみせる。
母の言葉である。
正確には、手記に残された一文だ。
常識では到底ありえない内容が書き連ねてあったが、ウェーラは十年かけてそのほとんどを解読した。知識を身につけ、手記を読み込むほどに、母はそう言えるほど天才だったと分かったのだ。
母は占星術を独自の解釈によって再定義し、新しい魔法を生み出した。しかしそれは未完成だった。
手記の最後にあったのは短い一文だ。
『これが貴方に残せる唯一のもの。愛しい我が娘、ウェーラ。貴方の行く旅路に、素晴らしい星空が広がっていることを願っている』
母は分かっていたのだろう。
ウェーラを産むことによって、研究の半ばで命を落とすことも、手記がいずれ娘の手に渡ることも。
そして――娘が幽閉され、やがて王宮から脱走することまでも。
「……ははうえ」
廊下の衛兵に聞こえないよう小さな声で囁く。
「貴方はすごい人だった。私のために、余すことなく知識を遺してくれた……」
そのおかげで、牢獄から逃げ出すことができる。
未だ『神を越える』という言葉の意味は理解できていない。けれどそれ以外のことは頭に叩き込んだ。
ウェーラの夢は王宮を飛び出して、自由に旅をしながら母の魔法を完成させることだった。その夢がもうすぐ叶うなんて、いまでも信じられない気持ちだ。
でも、夢じゃない。
姿見の前に立って、最後の確認をする。
三つ編みにした雪のような白髪に、とろんと垂れた紫紺の瞳。幽閉されている王女なんて、外見が国中に広まっているとは考えづらいが、念のため侍女に無理を言ってフード付きの外套を手に入れた。
簡素なドレスの上に外套を羽織れば、いち国民の完成だ。フードを目深に被っていたら誰もウェーラを王女とは思わないだろう。
よし、と頷いて部屋の中心に立つ。
緊張で心臓の音がうるさい。深呼吸をしてなんとか鎮めようと胸を押さえた。
大丈夫だ。脱出するには今日この時が一番良いと、星々もそう囁いている。
懐から二枚のカードを出し、魔力で宙に浮かべた。
転移魔法とは本来、複雑な陣を床に描いて発動させなければならない。
しかしウェーラは母が開発した『占星術(改)』のおかげで、経緯度さえ知っていればカードを動かすだけでどこへでも行けるのだ。
「――わ、我が星は女神アウリデアと共に。道途を重ね、軌道を描きて此の身を落とさん」
魔力を帯び、淡く瑠璃色に発光したカードをついと指先で動かす。それは真下にあるもう一枚のカードへ向かって時計回りに動き始めた。
周囲に魔力が渦巻く。柔らかい風が頬を撫で、ふわりとドレスの裾が浮く。
窓の外で晩課の鐘が鳴った。
「……見ていてください、母上」
震える声で、それでも口元に笑みを浮かべる。
閉じ込められている王女はもういない。ウェーラは自由になるのだ。
カードが重なり合う。
その瞬間、フェルス王国第一王女ウェーラ・スコッド・フェルスは淡い光に包まれ、王宮から姿を消した。