倍速刑事~非戦力系刑事シリーズ~
今日も倍速刑事が商店街を倍速で駆け抜けている。倍速で食い逃げ犯を追いかけているのだ。
昼休みに町中華のカウンターで出てきたばかりのラーメンに口をつけた刹那、その一番奥の席から黒いキャップをかぶった男がすっくと立ち上がり、何も言わずに店外へと駆け出していった。
その様子に違和感を覚えた倍速刑事は一瞬、「ここって食券方式だったかな?」と倍速で考えてみたが、この店の常連である彼はそんなはずがないことに倍速で気がついた。
とはいえ店主が例の台詞を叫ぶまでは、いかな倍速刑事といえどもスタートを切るわけにはいかない。彼はカウンターの奥で鉄鍋を振っている店主を振り向かせるために、「店主!」と倍速で声をかけた。
だが人生、必ずしも速ければ良いという話でもないのだ。その声に振り向いた店主は、おもむろにティッシュの箱をカウンターの上に着地させてきた。なるほど倍速刑事の口調が速すぎて、「店主」が「ティッシュ」と聞こえたものらしい。
しかしこんなのは倍速で生きていればよくあることだ。その聞き間違いにも倍速で気がついた倍速刑事は、なぜ自分はいま「店主」と呼びかけてしまったのか、あるいは「店長」と呼びかけていれば、少なくともティッシュが寄越されることはなかったのではないか、しかし「店長」と言えば今度は「手帳」と聞き間違えられてしまい、そうなれば自分が刑事だということを店主が認識している以上、それはもちろん「警察手帳」のことだと思われてしまうだろう、そして人のいい店主はなるほどこの刑事はなくしてしまった警察手帳を捜しているというわけかと思い至り、一緒になって店中をひっかきまわして手帳を捜してくれるに違いない、そんなことになるくらいなら、ここはまだしもティッシュが出てきたくらいで済んで良かったということにしておこう――とここまでを一気に倍速で考えた。
そしてどう発語しても聞き間違えの可能性を排除できないと考えた倍速刑事は、仕方がないのでカウンターの隅に残っていた空のラーメン鉢を倍速で指さしてみせた。するとようやく異変に気がついた店主は、満を持してあの待望の台詞を口にしたのであった。
「食い逃げだ!」
その言葉を待っていた倍速刑事は、しかしすぐに駆け出したというわけではなかった。なにしろ《腹が減っては戦ができぬ》と言うではないか。
幸いにして、彼はむろん食事も倍速で済ますことができる。倍速刑事は目の前のラーメンを倍速でかき込むと、勘定をカウンターに置いてようやく店を飛び出した。
路上に出て左右へ倍速で首を振ると、左方面にのろのろと走っている白衣姿の店主が見えた。彼は食い逃げを宣言すると同時に追いかけはじめていたのだが、足が遅すぎてまだ見える範囲にいたことが結果的に幸いした。もしも店主が俊足であったなら、倍速刑事はどちらへ走り出せば良いものやらわからなくなっていただろう。
だが方向さえわかればこっちのものだ。倍速刑事はまもなくふらふらと前方を指さしている店主の脇を倍速で追い越していった。
しかしどういうわけか、犯人の姿はまだ見えない。実はこの日は店主が常連客へのサービスとして麺をこっそり大盛りにしてくれていたために、倍速刑事がラーメンを食べるスピードが、いくら倍速とはいえ想定外にかかってしまっていたのだ。
とはいえ、それでも倍速刑事はこういったピンチの際の状況判断すら倍速だ。彼は倍速で走りながらも、電柱の脇に鍵のかかっていない放置自転車があるのを目ざとく見つけた。そして車体に跨がると、ペダルを倍速で漕ぎはじめた。
そうなればどんなに先行していたとしても、標準速度で生きている犯人はひとたまりもない。まもなく商店街の出口というところで、犯人は風のように現れた倍速刑事に捕らえられることとなった。
それから数分後、しかし大変なことになっていたのは犯人よりもむしろ、倍速刑事のほうであった。彼の倍速逮捕劇に衝撃を受けた通行人らがこぞってその様子を撮影した動画をネットに上げた結果、それが思わぬ反響を呼び、それを絶賛する投稿者らの意図とはまったく別角度の二方面から大炎上してしまったのである。
ひとつは、倍速刑事が自転車に乗る瞬間を捉えた映像に対する、自転車窃盗の疑い。いまひとつは、倍速で走り去る映像を受けての、「これって法定速度余裕で越えてない?」という速度違反の疑いによるものであった。その走行速度はゆうに時速60キロを越えていたうえに、いまどきの視聴者らはさらにそれを倍速視聴していたのだ。
そしてもちろん彼が倍速刑事である以上、その燃え広がる速度もまた倍速なのであった。だが不幸中の幸いであったのは、それが鎮火に至る速度もやはり当然のように倍速であったことだ。
良くも悪くも倍速――それでこそ倍速刑事というものである。