乾けよ
生まれたときから、この世界はすべてが満たされていた。
喉が渇けば水が現れ、欲しい服を思えば目の前に浮かび、行きたい場所は思考一つで移動できる。
病もなく、争いもなく、誰もが笑っていた。
それは幸福というより、幸福を模した完成品だった。
私はずっと、この完成品が気に入らなかった。
みんなは「願えば叶う」ことを当たり前のように受け入れ、そこに違和感を抱く者はいない。
だが私は、心の奥底で、渇きが枯れずに残っていることを知っていた。
そんな日々の中で、異変に気づいたのは十五の頃だった。
クラスでよく笑っていた友人の一人が、ある日突然いなくなった。
彼女の席は翌日には消え、記録からも、家族の記憶からも、彼女の存在が抹消されていた。
みんなは誰も気にしていない。いや、気にしている様子があっても、その感情が芽吹いた瞬間にすぐ薄れていく。
まるで世界が感情の根を切っているかのように。
それから数年、私は数えきれないほど「消えた」人を見送った。
送るといっても、葬儀も涙もない。ただ「昨日までいたはずの人」が、翌日には存在しなくなる。
私はその理由を探し続けたが、答えに辿り着く前に、ある決定的な瞬間を迎えることになる。
二十歳の誕生日。
私の親は、笑顔でケーキを運び、ろうそくを灯した。
だが、その瞬間、親の表情がぴたりと固まった。
次の瞬間、無音のまま白い粒子に変わり、空気に溶けるように消えていった。
ケーキの甘い匂いだけが部屋に残り、私はただそれを見ていた。
驚きも悲しみもなく、ただ事実を受け止めていた。
後にわかったことだが、この世界には「幸福を保たなければならない」という見えないルールがあった。
人間は一つの生きがいを軸に生きており、その生きがいを根こそぎ奪われると、不幸の感情が一定の閾値を超えてしまう。
その瞬間、存在は分解され、白い粒子になって消滅する。
私の親は「子育て」という生きがいを失った瞬間、ルールに従って消えたのだ。
だが、なぜ私は生きているのだろう。
最も近しい存在を失ったのに、私は冷静だった。
悲しみを感じる前に、それを分析し、答えを導き出してしまう自分がいた。
それはまるで、この世界の仕組みをもともと知っていたかのように。
そしてある夜、夢の中で“設計図”を見た。
巨大な黒いスクリーンに浮かぶ無数の数式、条件分岐、そして世界の根幹を記すプログラムコード。
私はその全てを理解できた。理解した瞬間、記憶が蘇った。
――この世界を作ったのは私だ。
生まれる前、私は人類最後の設計者として、絶望に覆われた旧世界に立っていた。
戦争、飢餓、疾病、裏切り、孤独。
人は不幸の連鎖から逃れられず、その中で死んでいった。
私は人類の最後の希望として、新しい世界を設計した。
人々が二度と不幸に呑まれぬよう、幸福を義務づけるシステムを組み込み、不幸が閾値を超える前に存在を消す安全装置を入れた。
それが「消える」という現象だった。
だが、私は一つだけ計算を間違えていた。
“満たされない”という状態が、人間の根底にある美しさを守っていることに。
渇き、欲し、届かず、諦め、また求める――。
その循環の中にしか、生きるという実感はない。
完全な幸福は、人を生かさない。
それを私は、作り手でありながら見落としていた。
だからこそ、私は自分に「満たされない」というバグを仕込んでいた。
私だけは完全には幸福にならないように。
不満と渇望を抱えたまま、消えずにこの世界を観測し続けるために。
だが、それにも限界が近づいている。
私の中の渇きは、やがて私自身を壊す。
そして、私は次の決断を迫られていた。
――世界を書き換えるか、私だけが消えるか。
静かな夜、私は端末を開き、コードを呼び出した。
一行、一行、幸福のルールを削り、代わりに「満たされない権利」を挿入していく。
全人類が初めて、不完全である自由を持つ世界。
それは旧世界の混沌を呼び戻すかもしれない。
だが、その中にこそ、私が愛おしいと思う瞬間があるはずだ。
保存を押す直前、画面が揺れた。
背後から、粒子の風が吹く。
私を消すシステムが作動しているのだ。
残された時間は、数秒。
私は笑った。
消える瞬間まで、私は満たされないままだった。
それでいい。
いや、それがいい。
画面の中でコードが走り、新しい世界の設計が起動する。
私は白い粒子になり、静かに空に溶けた。
その翌日、世界には初めて、泣きながら笑う人々が現れた。