アトリと鷹2
旅人がここを初めて訪れたのは十年前、まだ城の当主が健在だったころのことだ。
近くの森で狼の群れにしつこく追われ、気がつけばとっぷりと日が暮れていた。
旅人は一本だけ持っていた剣と松明の火でなんとか獣を退散させ、命からがら丘の上にぽつんと建つ古い城に辿り着いたのだった。
重厚なオーク材の扉を叩くと、出てきたのは今と同じ執事だった。傷だらけの旅人を見ても、彼は表情ひとつ動かさなかった。歓迎されていないことは、もちろん旅人にもわかった。
哀れな姿で同情を誘い一晩の宿と飯を強請り、夜中まで待って金品を盗んで逃げる。そんな輩は、いつの世も後を絶たない。目撃者をなくすために、一家全員が殺されてしまう場合も少なくないのだ。
しかし、旅人は城の中に招き入れられた。
旅人は当主の部屋に呼ばれた。中へ入ると、白髪の痩せ細った、だが異様に威圧感のある老人が豪奢な椅子に座っていた。
彼は目を眇めて、旅人を眺めまわした。
「語れ」
と、彼は言った。
「昔話でも伝説でも、自分の体験談でもいい。知っている中で一番の物語を、今ここで語れ」
「俺は吟遊詩人じゃない。ただの放浪者だ」
と、旅人は答えた。
「誰でも語るべき物語をひとつは持っているはずだ。それはときに、金貨より価値がある。宿代の代わりに、それで支払うのだ。お前の心の中で一番重みのある物語はなんだ?」
自分の中で、一番重みのある物語? 旅人は知らず心臓に手を当てた。
剣の腕一本で世界中を旅してきた。一応文字は読めるが、本を読んだことはほとんどない。
酒場で歌う吟遊詩人の声も、酔った頭をぼんやりと通過していくだけ。自分の中に、物語なんていうものが存在しているのだろうか?
暗い部屋の中で、燭台の火が頼りなく揺れていた。天鵞絨のソファにゆったりと座る当主を見つめているうちに、旅人の心にひとつの物語が浮かびあがってきた。
「数年前、とある森の近くにある村で宿を取ったとき、相部屋になった男から見せてもらった古い本がある」
当主は無言で頷き、先を促した。
「その本は古代文字で書かれていて俺には読めなかったが、文字の研究者だというその男は、解読することができたのだと言う。
その森の奥の底なし沼には財宝が眠っているだの、世界の真実が書かれた古文書が隠されているだの、昔から色んな噂があった。男は、古文書を掘り当てるためにやって来たらしい。
そして本当に沼の近くの洞窟で古い書物を見つけ、この宿に引きこもって二年間解読を続けていたんだそうだ。そうして俺が訪れた日にすべての解読が終わったのだと言う。
男は俺に言った。ここであなたと出会ったのは、なにかの運命だと思う。この本の内容を余さず語るので、どうか覚えていて欲しい。
そして夜が明けたら元の洞窟にこれを埋めにいくので、用心棒を引き受けて欲しいと。
せっかく宝を見つけたのに、なぜ手放すのか? 不思議に思って訊いた。ここに書かれているのは、公にしてはいけない歴史なのだと彼は言った。しかし、それと同時に世界の裏で連綿と語り継いでいかなければいけないものでもあると。
だから古文書は燃やしたり破棄したりはせずに、また未来の誰かが見つけられるよう埋めておく。同時にその内容を、お前さんにだけ伝える、と。
矛盾した話だ。俺には訳がわからなかった。だがまあ、話を聞くだけなら特に問題はない。森に住む野人から男を守るのも、そっちが俺の本業だからな、金さえ貰えるのならと引き受けた」
旅人は語った。この国を最初に統べた王のことを。それは、広く知られている彗星王の話ではなかった。まったく別の、名前すらない一人の男の半生だ。
相応の身分も財産もない男がどのようにして力を得たのか。その発端に、枯れ井戸に閉じこめられていた巫女の存在があった。
その巫女は、右半身が欠けていた。手足は溶け落ち、顔半分も腐りかけていたという。
枯れ井戸からこの巫女を連れだしたことによって、男の未来は決まった。
「この巫女を自分の城へ連れ帰る道すがら、男は三人の兄を殺し、最後に城で父親を殺した。
新しい長に収まった男は、他の部族へ次々と戦争を仕掛けていった。男は決して負けなかった。巫女から予言を授かっていたからだ。
それから、魔力を身につけるために巫女とまぐわった。戦争の前夜は必ず、その腐った体を激しく抱いたという」
旅人はそこで口を噤んだ。当主の顔が厳しく歪んでいたからだ。
なにか? と訊こうとして旅人は初めて、ソファの後ろのカーテンの隙間から、誰かが顔を覗かせているのに気づいた。
それは、小さな少女だった。左半分しか見えない幼い顔が、驚きと恐怖で硬直していた。
カーテンの後ろは窓ではなく、別の部屋に繋がっていたのだ。
「それが、お前が知っている中で一番重みのある物語なのか?」
「ああ。だが、この話をなぜ公にしてはいけないのかがわからない。彗星王がこの国の最初の王じゃないかもしれないからか?
学者さんたちの界隈はそりゃ大騒ぎになるかもしれんが、大半の一般人にはなんの関係もない話じゃないか」
「だが、学のないお前にも、この話は確かな重みを感じさせた」
「ああ」
「それは、巫女のせいだ。この話で大事なのは、王ではなく明らかに巫女の方だ。彗星王伝説より遥か昔から語り継がれる、掘り起こしてはならない穢れが、その巫女だったのだ」
旅人は肩を竦めた。
「語り継がれる穢れ? なんのことだか、俺にはさっぱりわからん」
「こちらへ来なさい」
当主は旅人に話しかけたのではなかった。
瞬間、ぱっとカーテンが翻り、少女が当主の膝元にすがりついた。そのたった数歩で、彼女の足が悪いことが見てとれた。
「娘だ。アトリという」
「なんだ。こんな小さな娘さんが聞いてるんなら、もっと別の話の方がよかったなあ」
旅人はおどけてみせたが、父も娘もにこりともしなかった。
「この娘はまだ七つだが、もう始まっている」
「始まっている?」
「腐食が、だ」
そう言って、当主は少女の右側にかかる長い前髪を持ちあげた。醜く爛れたどす黒い肌が露わになった。それはどす黒いだけでなく、ぐずぐずと腐って膿が噴きでていた。
旅人は短い呻き声をあげた。あどけない左側の顔との対比が、より一層不気味だった。
「この子の右半身は、成人を待たずして腐り落ちるだろう。穢れの巫女のようにな。
お前は、なぜこの話を私にした?
わざわざ夜に狼のいる森を抜けて、なぜこの話を遠くの村からここへ運んできた?」
当主の威圧に、旅人は思わず後ずさった。
「わざわざ聞かせにきたわけじゃない。あんたが俺になにか話をしろと言ったんじゃないか!
すべては偶然だ。この城にこんな娘がいるなんて、よそ者の俺が知れるわけがないだろう?」
父親のなすがままに腐った顔を晒していた少女は、そっと首を振って手を払い、恥じるように父のガウンに顔を伏せた。
その仕草に胸を突かれ、旅人はその場に踏み止まった。
「私たちにこの話を聞かせた代償を、支払ってもらおう」
当主は言った。
「これから一年に一度、必ずこの城を訪れよ。そして、新しい話を娘に聞かせるのだ。この城から一歩も出られない娘の代わりに、世界中から物語を集めてこい」
なんとも理不尽な要求だった。しかし、旅人は了承した。今にも泣きそうな少女の左目が旅人を捉えた瞬間、償いをしなければならないと思ったからだ。
旅人は約束を守り、一年に一度城を訪れて、世界中から拾い集めた物語を当主と娘に聞かせた。
五年前、当主は病に侵されて死んだ。死ぬ数ヶ月前にやって来た旅人に、彼は言った。
「あの娘は、正当な血を引いた王女だ。だが、誰にも知られることはない。世界から隠され朽ちていく……それが唯一の使命である、哀れな娘だ。
せめて、お前だけは覚えていてくれ。そんな王女がいた物語を、胸の内に秘めておいてくれ」
それが遺言だったと知ったのは、旅人がその一年後に城を再訪したときだった。
城には執事を含めた数人の使用人と、十二になったばかりの少女が残されていた。
旅人は少女の前に恭しく跪き、その左手を取った。
「姫。今日から私があなたの騎士になりましょう」
と言っても、二人のあいだで行われることは以前となにも変わらなかった。
年に一度旅人は城を訪れ、世界各地の伝説や昔話をアトリに語って聞かせる。
ただその約束が、二人の中で改めて、違えることのない固いものになったというだけのことだった。