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魔術  作者: 春瀬あさ
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物乞いの少年

 ヨクトの浮浪児は冬を越せない。北海を臨む港町の吹雪は猛烈だし、街の人々はみな貧乏で余裕がない。


 この街で親から捨てられたなら、それは「死ね」と言われたのと同じことだ。もし子どもに生きてほしいと思っているのなら、旅の行商人にでも頼んで、他の街へ行く馬車に乗せるくらいのことはする。


 もっとも頼まれた方の行商人に、孤児院なり里親なりを探す義務はない。そのまま人買いに売り飛ばされる可能性の方が高いが、それでも数ヶ月後に死が確定しているよりはましだろう。


 少年がもう二年も生き延びているのは、相棒の犬のおかげだった。


 少年は父親と一緒に、船に乗るためにこの街へ来た。ここにいろと言って父親は一人で出ていった。


 少年は宿屋の部屋で待った。だが、夜が明けても父親は帰ってこなかった。食事もせずに狭い部屋にじっとしていた少年を、これ以上の宿賃はもらっていないと言って、女将は外へ蹴りだした。


 泣きながら父親を探して港にいくと、一緒に乗るはずだった船は昨日のうちに出航したと船乗りたちに教えられた。自分は捨てられたのだと、少年はやっと理解した。


 あと一か月もすれば冬がやってくるという季節だった。少年は船乗りたちの細々とした雑用を引き受けて、日銭を稼いだ。

 もしかしたら、本格的に寒くなる前に父親が戻ってくるんじゃないか。ほのかな期待を抱いて、毎日港に入る船を見るのをやめられずにいた。


 船乗りたちからは、毎日殴られたり蹴られたりだった。

 ある日、同じように殴られている犬に出会った。少年は船乗りたちが出航するの隠れて待ち、犬の元に駆け寄って、ぼろぼろになったコートの裾で血を拭ってやった。


 その日唯一の食事である硬いパンを、薪置き場の隅で分けあって食べた。そうして、寄り添って眠った。ちらちらと初雪が舞い散る日だった。


 犬を助けなければ、少年は年を越すのを待たずに死んでいただろう。その日以来、一人と一匹は支えあって生きてきた。


 けれど、そのせいで悪いことも起こった。たまにこの街にやって来る孤児院の女の人や、人買いの男たちは、犬を嫌った。


 少年だけならまだしも犬と一緒では面倒を見られない、買い手がつかないと言う。

 犬はドブとゲロと腐った魚の臭いがして、いかにも貧弱で不潔だった。とても役に立ちそうには見えなかったのだ。


 そういう大人たちが手を差し伸べてきても、少年は犬と一緒にいる方を選んだ。自分を幾晩も温めて生き延びさせてくれた相棒を捨てていくなんて、とてもできなかったのだ。


「僕は置いていかないよ」


 少年は、犬の耳元に話しかけた。自分の未来と引き換えに汚い犬を選んだ少年を、街の人たちは嘲笑した。


─────────────────────


 二つの冬は越せたが、どうやら三度目は無理なようだった。少年の栄養状態はどんどん悪くなっていき、とうとう体力が尽きた。犬がどんなにくっついて体温を分け与えても、賄うことはできなかった。


 霙混じりの雪が降る日だった。少年は港近くの倉庫の壁に寄りかかって座っていた。

 船乗りたちが船から降りて町へ行くのに必ず通る場所だ。運良く優しい人がいたら、なにか食べ物を分けてくれるかもしれない。


 少年はもう立ちあがる力もなかった。ただここに座って憐れな姿を晒し、誰かの同情を誘うことだけが、唯一の生きる努力だった。

 犬は大人しく少年の横にうつ伏せていた。たまに、だらりと垂れさがった少年の手を舐めた。


 灰色の重たい雲が垂れこめて、冬の港町は一日中薄暗い。けれど夕方になると、そこここにかがり火が焚かれて、赤い光が雪に滲んだ。


 それは、寂しくて美しい風景だった。風に頼りなく揺れる橙みたいな真っ赤な炎が、この生命を拒む極寒の地でそれでも鼓動をやめない心臓のようで、少年はこの火を見ているときだけは、意地悪なこの町の人々を健気に感じた。


 母親が生きていたころは、家族で真っ赤な橙を育てて生活していた。かがり火の色は、それを思い出せるのかもしれなかった。


 しかし、そんな少年の優しい心とは関係なく、町の人々は今日も彼を無視していた。誰から見ても、少年が今夜の寒さを乗り越えることは不可能だった。


 ああ、いよいよ終わるのかと、少年は思った。

 体温と外気温が同化して、もう頬に当たる雪の冷たさを感じない。

 新しい船が港に着き、船乗りや商人らが慌ただしく駆けまわる音が聞こえる。


 少年が死んでも日々は続いてく。なにも変わらずに。それは不思議な気持ちだった。自分が刻々と世界から剥がれ落ちていく。


 火の粉が狂ったように舞い、吹雪に混じって燃え尽きていく。なんて凄まじい光景なんだろう。



 ふいに、犬が顔を上げて鼻を鳴らした。少年はもうほとんど意識を失っていたが、かろうじて目を開けた。


 誰かが少年を見下ろしていた。ぼやける視界の中に、茶色のマントを羽織った女性が映る。

 女性の顔は陽光の存在しないこの町で、一人だけ夏を生きているように輝いていた。


「よかったら」


 と、彼女は言った。


「あなたを引きとりたいの、私の山小屋に。ここよりもっと南の山の麓にある、もう少しだけ寒くない地域よ」


 少年は決まり文句を言おうとしたが、唇がかじかんで動かなかった。


「もちろん、あなたの友達も一緒に」


 少年の言いたいことを察して、女性はすぐに付け加えた。


「二ヶ月ほど前にディリルリントの都市の孤児院から女の人が来たはずよ。この町をたまに見回って、浮浪児を保護しているの。

 小さな男の子に会ったけど、犬と離れるのを嫌がって保護できなかったと言っていた。


 だから、私が来た。私の孤児院にはまだ余裕があるの。馬小屋にお友達の寝床を作れるし、あなた達が二人で走り回れる野っ原も目の前にあるわ。どう?」


 少年の目が丸くなり、みるみるうちに潤んで光った。ほとんど死んでいたはずの体に熱が蘇ってくる。


「……こいつも、一緒に行っていいの?」

「そうよ」

「……行く」


 掠れた声をようやく絞りだして、少年は答えた。


「決まりね」


 女性はマントを脱ぐと、羽根を纏わせるように軽やかに少年を覆った。けれど着てみると皮のマントはずっしりと重く、吹雪を完璧に遮断して、瞬く間に少年を安全圏に隔離した。


 マントで隠れていた女性の長髪が露わになった。

 それは波打つ小麦の穂。樽いっぱいのエール。じゃがいものポタージュに一雫垂らされたオリーブオイルの黄金。あらゆる豊穣を内包した太陽の色。


 女性はその細腕で軽々と少年を抱きあげた。犬が慌てて、よろよろとついて来る。


「僕たち、何日も食べてないの」


 少年が囁いた。


「そうでしょうね。さあ、ご飯を食べにいきましょう。まずは温かいスープをゆっくりね。宿屋はどっち?」


 少年はこの町でただひとつの宿屋を指差す。



 子どもを抱いて汚い犬を連れた女性の来訪に、女将は眉をひくつかせた。

 けれど女性が皮袋から玉虫色に光る鱗を取りだして渡すと、目を剥いて一番良い部屋を開け渡した。


 まもなく、たっぷりの魚のすり身が入ったスープとパンとチーズが部屋に届いた。少年はベッドに座って、スープをひと匙ずつ飲ませてもらった。犬は小さく唸りながらチーズに齧りついた。


 屋内に入ったのは二年振りだった。


 暖炉で薪が爆ぜる音がする。四方をしっかりとした壁で囲まれた部屋は、冷気をほとんど遮断している。窓の外を見れば氷点下の町が、他人事みたいに吹雪いていた。


 朦朧としたまま思う。どうやら、自分たちは助かったらしい。


 少年は死ぬことを諦めて、静かに世界の続きを受け入れた。

 

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