影の王2
亜人と小競りあいを繰り広げながら、軍はどうにか安全な場所まで辿りついた。日が暮れはじめた頃合いで、彼らは湖の畔で一晩を明かすことにした。ここは、森の出口にほど近い。もう亜人の声は聞こえない。
火を熾し食事の支度をしていると、遅れて合流した部下が影に近づいてきた。彼について林の中へ入ると、古い意匠の長持ちがあった。軍を追って亜人がいなくなったあと、残しておいた腹心たちが、長持ちを担いで沼を渡ったてきたのだ。
影が蓋を開けると、巫女が薄っすらと目を開けた。
「夢を見ました。今すぐに西の森の奥へ進みなさい。ただし、あなた様一人だけ。部下を連れていってはいけません」
言われた通りに、影は一人で森に分け入った。野営の音が間遠くなるころ、人の悲鳴がか細く聞こえた。すでにあたりは暗い。少し先に小さな灯が揺れていた。
影は身を潜めて近づいた。そこにいたのは次男だった。木の枝に下がった灯が照らしだすのは、同じようにぶら下げられた亜人。幾度かの小競りあいのときに、生捕りにしていたのだろう。
次男は鞭で激しく亜人を打っていた。亜人の皮膚は裂け、全身から血が滴り落ちている。
ふいに、次男が顔を上げた。
「そこにいるのは誰だ?」
影は答えた。
「私です」
暗がりから現れた影に、次男は目を細めた。
「ああ、お前か。妙なところを見られてしまったな」
「なにをされているのですか? 亜人はどんなに躾けても従いません。ヤマネコと同じです。生捕りにする意味も、わざわざ打つ必要もない」
「そうだな」
次男は頬を歪めて笑った。
「なあ、気づいていないのか? こんなところにやって来て、のこのこと姿を現して。私はお前が憎い。妾の子どものくせに私より才能があるお前が、体躯に恵まれたお前が、私よりも兄に信頼されているお前が」
次男は一歩影に近寄り、影は一歩下がった。
「兄上が、あなたより私を? そんなわけがありますまい」
「沼に向かおうという忠告、あれを言ったのが私や馬鹿な末弟なだったなら、兄は即決しなかっただろう。そして私たちは亜人にやられていた」
「知将と名高いあなたの言葉を、兄上が無碍になさるはずがない」
「しかしそれだけに、兄はいつ私に寝首をかかれるかと警戒もしている。故に、私の提案をするりと飲んだことがない。
そして私が知将と呼ばれるのは、剣の腕も弓の腕も他の兄弟に敵わないからだ。知を磨くしかなかったのだ。
ああ、でも今は動揺で自慢の頭も回らない。恥ずかしいところをお前に見られて、どうしたらいいのかわからない」
次男はまた一歩距離を詰めた。影は後退りながら言った。
「誰にも言いません。それに、他の誰かに知られたところで、亜人を打つことを鼻白らむ者などいましょうか」
「しかし、お前は私を蔑んでいる!」
次男が大きく鞭を振りあげた。影はふいによそ見をした。次男のすぐ後ろで、亜人を支えている枝が折れた。度重なる鞭打ちの衝撃に耐えられなかったのだ。
地に足が着いた瞬間、亜人は飛びあがり、括られた両腕をそのまま次男の後頭部に振りおろした。次男は醜い声を上げて倒れた。亜人はそれに馬乗りになり、剥きだしの頸に齧りついた。
次男は油断して、鎧を脱いでいた。どこもかしこも、柔らかい肉が露出しているのだった。
影は絶叫に背を向けて、その場を去った。
野営地に戻ると、鍋は煮え肉が焼けてた。部下たちに食事を許すと、影は林の奥の長持ちを見にいった。
蓋を開けると巫女は目を開いたが、なにも言わずにじっと影を見つめるだけだった。
ごわごわした髪のあいだから垣間見える巫女の目は洞穴のように暗く底が知れず、それでいて曇りのない鏡のように、影の顔をくっきりと映すのだった。
翌朝、無惨な姿になった次男が森の奥で見つかった。亜人は姿を消していた。
長男は部下に次男の髪を一房切り落とさせ、残りは土に埋めるよう命じて、軍を故郷へと進めた。
数日は平穏な旅が続いた。三日目の夜中、誰かに呼ばれたような気がして、影は荷馬車へ向かった。通りかかった農園から奪った馬車で、荷物の奥に長持ちを隠していた。
「夢を見ました」
蓋が開けられるが否や、巫女は言った。影が来ることを知っていたかのように、目は大きく見開かれていた。
「昼のうちにセージを一束摘んでおきなさい。夜、毒蛇があなたの寝床に忍びこんでくる。その束で蛇を打つのです。そうすれば蛇は主人の元へ帰って、あなたにしようとしたことをするでしょう」
次の日、道の脇にセージが咲いているのを見つけると、影は部下に命じて摘んでこさせた。そうして、馬に揺られながらひとつに束ね、腰のベルトに差した。
夜、影が自分の天幕の中で毛皮を被って寝ていると、入り口の隙間から音もなく、なにかが入ってきた。
毛皮の中にそれが潜りこむとき冷たい空気も一緒に入ってきたので、巫女の忠告通りに眠らないでいた影はすぐに気づいた。
影は飛び起きて、枕元のセージで打った。驚いて一目散に逃げていくそれは、まだら模様の蛇だった。
影はランプを手に追いかけた。蛇は夜闇に紛れながら、するすると逃げていく。そうして、野営地の奥の一番大きな天幕に入っていった。
まもなく、中からくぐもった悲鳴が聞こえた。
影が天幕に飛びこむと、蛇が長男の首筋に噛みついているところだった。満足して地面に降りた蛇を、影は踏み潰した。
体中紫色に浮腫んだ長男に、影は問うた。
「なぜ……」
長男は口から泡を吹きながら、瞳孔の開いた目で影を見据え、震える手を影へと伸ばした。
「お前が殺した……! お前が殺した……!」
それだけ言うと、長男は絶命した。
あと一日歩けば故郷の街だった。なだらかな丘の向こうに王城の青い影が見えたころ、影は馬のスピードを緩めて後方の荷馬車に近寄った。
片手をうんと伸ばして、長持ちの蓋を少しだけ開けた。巫女の片目が暗闇から覗いた。
「王君にお会いなさい。どうすればいいのか、あなた様はもう知っているはず。お心のままに、欲望のままに……」
影は蓋をぴしりと閉め、忌まわしい巫女を閉じこめた。
ひと月ほど遠征していただけなのに、城は百年もの時間が経ったかのようだった。壁という壁にきつく茨の枝がつたって、城内は暗く火の気がない。
影は長男の剣を携えて、王の部屋へ行った。
「息子たちはどうした?」
王は影の方へ顔を向けることもなく訊いた。
「末の兄は、底なし沼に落ちて死にました。次の兄は、亜人に殺されました。一番上の兄は昨夜、毒蛇に噛まれて死にました」
影は頭を垂れて、長兄の剣を差しだした。
「して、お前はなぜ戻ってきた?」
王が訊いた。その顔は、百も歳をとったように見えた。
「なにを持って帰ってきた? 不吉な、穢らわしい、恐ろしいものを……なぜ持ってきたんだ?」
王が次の言葉を言うより早く、影は剣を抜いていた。そして、老人の体を真っ二つに切り裂いた。
一族が全員死んでしまったので、影が新しい王となった。
影は約束通り、巫女を城の地下牢に閉じこめた。そうしてなにかあるたびに、夢見を聞きにいった。
影と呼ばれた男は瞬く間に力をつけ、やがて方々の王を倒し、国はすべて影に飲みこまれたのだった。
その国とは、ここ。いま私たちが住んでいるこの島のこと。けれど、この最初の王の話は、決して伝えてはならない。
※注釈
この古文書は、ザガの森の奥の底なし沼のそばにある洞窟で見つかった。物語の中に出てくる長男と次男が宝物を隠した沼とは、ここのことだろう。
もちろんそれが、この物語が史実である証拠にはならない。むしろ誰かが悪戯で、この沼に纏わる書物を捏造して世間に発見されるよう仕組んだのだというのが、当時の歴史学者たちの見解だった。
しかし、科学技術が発達して、古文書の書かれた年代が特定されると、考古学、歴史学界隈は騒然となった。
古文書に使われた羊皮紙は二千年以上前のものであるという結果が出たのだ。つまり、かの有名な建国伝説の遙か以前に書かれたということだ。
ではこれは、我々の先祖がこの地にやって来る前にいた原住民の歴史なのだろうか?
否。羊皮紙に書かれた言葉は、我々の母国語の原型であるテヌ語だ。だからこそ、ここまで正確に解読することができたのだから。
それでは、本当の建国伝説はこの物語なのだろうか? あの輝かしい彗星王オールトの物語ではなく?
多くの歴史学者はそれを否定している。影の王が実在した証拠は、ほとんど出てきていないからだ。
しかし理由はおそらく、それだけではない。自分たちの先祖がほの暗いこの王から始まっていることを、彼らの本能が拒否するのだと私は分析する。
実際、別の古文書には、亜人の住処であるザガの森を含む広大な領域を、突如支配下に置いた王の伝説が記されている。その資金源は、底なし沼に隠されていた金銀財宝であったとも。
その財宝がどこからやってきたものなのか記述はない。が、影の王伝説と合わせて読めば、その符号は明らかだ。
この島で出土した遺跡や書物は、ほとんどすべてが「彗星王オールトを史実とする」という前提で読み解かれている。
私たちの目は、最初から色つき眼鏡をかけさせられていると言える。
その前提を外して、もう一度まっさらな状態でひとつひとつの遺物を読み解く必要があるのではないか?
しかし、物語の最後に添えられた一文は、明らかに警告である。この王の存在は日の当たる場所に出してはいけないのかもしれない。
私たち民族の盲信ともいえる彗星王信奉は、一体どこからきたのか?
この忌まわしき王を抹消するために、輝かしい彗星の息子を作りあげる必要があったのだとしたら……?
けれど、伝えてはならないと言っておきながら、この古文書は二千年に渡って保管されてきた(洞窟で発見されたときの状態には、破損しないよう後世の人々が厳重に封印した跡が見られた)。
上記のような、この物語に付随する伝説もいくつか発見されている。
影の王、そして彼を王に仕立てた穢れの巫女……。
この物語は、決して表に出してはならない、しかし忘れ去ってもいけない、私たちの罪なのではないだろうか?
民俗学者スワラニの手記より抜粋。