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失楽園  作者: 幽世
雲霞篇
5/7

五章 抜け殻の絡繰


 三瞬前に翠星が居た空間を鞭がうねる。乱立する鎖の群れが不可思議な森を形成している帝都の一角にて、魔力と俊敏性、魔素量と体力がそれぞれ優劣を競い合っていた。

 ダートライフルの弾に迫る勢いで数本のサバイバルナイフが魔女の黒傘に突き刺さり、その反撃として、変幻自在の鞭が翠星の移動経路に手出しする。

 前方に鞭の一閃が轟いたゆえ急停止した翠星に鎖が蛇のように肉迫、羽の生えたサンダルでも履いているのかと思われるほどに身軽な彼女のつま先を掠ることすら敵わず、数本の鎖が地面に突き刺さった。

 後方に飛び退いた翠星は傀儡の剣の上に白く端麗な手の片方の指先を乗せ、それを弾いた反動で後ろ向きに二・三回転する跳躍を披露した。着地の瞬間に取り込まんとする陰を軍靴のステップでうまく躱し、瞬発的に避けた、顔の左側を後背から通過した鎖を切断する。しゃがんだ翠星の真上で黒い剣がうなり、頭上に強烈な風を感じた。

 黒い全身鎧を身に着けて黒い剣を構える銀髪の傀儡は虚ろな金色の目を除いて容姿が翠星に酷似しており、神速の剣戟を見切れる者が居るならば、同一人物の決闘に見えたことだろう。しかし、二者の種族は大きく異なっていた。その微々たる差が、結果への引き金へと化す。

 紅蓮に領域の大半を支配された蒼氷色(アイスブルー)の|瞳が金色の目を見据え、魔女の打ちつける鞭など見向きもせず弾いた。次いで、傀儡の振るう剣をナイフの柄でたたき割った。

 翠星は、己の変貌に戦慄していた。

 紅が瞳を塗り替えれば塗り替えるほど力は増し、認識能力や解析能力も向上する。しかし、それは同時に理性を段々と内側から食らいゆくかのような不安定な精神を齎す。

 なんという皮肉な矛盾だろうか。

 力を使えば使うほど眠っている怪物を呼び覚ますことに繋がる故に極力戦闘を避けているのに、相手の方が、力を行使されることを望んでいた。いっそ諦めてしまうなどという選択が脳裏に浮かぶが、それでは()()に反するうえ、六年間という短い時間ではあったが過ごした帝都オルゾラームを見捨てる事になる。

 しかしそれを認めないなら認めないで、力に呑まれないよう注意し戦う必要があった。当然のように理性を賭けた博打をし、それに毎回勝利する必要を伴う。それもまた約束を違えることに繋がり、下手をすれば世界を昏倒させる事態を引き起こす引き金(トリガー)にもなり得る。

 四〇センチの刃渡りを持つ戦闘用ナイフを愚鈍な傀儡の装甲ごと、人間の場合では心臓がある位置に突き刺す。それを引き抜いても鮮血が噴き出ることはなく、微光と化した魔素の粒子が散っていく。


「お帰り」

(なんで解呪しなかったのさ)


 翠星はアンラ・マンユの愚痴を弱く息を吐いて貶すと、合わせ鏡のような黒い鎧を着た体の頸を落とし、完全に光の微粒子へと還元させた。それから理由を『念話』で言葉にした。正気に戻すのは手間がかかる上にそれほど時間と危険性(リスク)をかける価値がない、一人で決着を着けるか、一時の危険を冒して二人で片付けるかを天秤にかけた結果として前者を選択した、と。

 その間にも飛び交う鎖を避け、鞭を打ち返しながら青薔薇の花園へと移動していく。翠星が結界外の幼鯨を狩り尽くしたときから既に、作戦は第三段階へ移行していた。

 第三作戦其の一、広い場所への誘導。しかしこれは、ただ広い場所で良いと言うわけではない。次工程の時にもし魔力の酷使により赤に染まりきった場合、どのような事が起こるか想像もつかない。

 そのようなリスクを避けるためには体内の理力を行使し外気の魔素を扱う妖術を魔法に組み合わせて重い一撃を正確かつ安全に放つため、なるべく魔素濃度の高い環境で技を発動する必要があった。

 そして、四季蓮城(ホーラー・サンスーシ)が軍事的優位を保つために台地の中でも一際高い場所に存在していたことでより、そこでの第三段階終幕(フィナーレ)の決行を後押ししていた。

 その幻想的なやり方による作戦が成功するかどうかは最早運であり、また、どれだけ憂鬱の魔女相手に闘いながら欺けるかという翠星の演技力にかかっていた。否。もしそれが看過されたとしても、この魔女の目的は翠星にある。故に翠星が移動する場所に、魔女も行く必要が発生するだろう。帝都を覆い尽くす巨大な結界だが、白鯨による光を遮る多重効果が消滅、霧や雨雲が晴れたことで鎖の量、速度の双方が低下していた。故に鎖は然程の脅威にはなり得ないのだ──それは高い身体能力を発揮できる故である──が、さらに重大な問題がある。

 それは刻限。現在は午前五時五二分、帝都の臣民が起床する最速の時刻まで、残り八分。なるべく騒ぎにならぬよう消音を心掛けて戦っていたが、一度起き出したらそうはいかない。

 二人以上を人質に取られた場合、うち一人しか助けることは出来ない。ひとりを助けている間に、他の人達は全員殺されてしまう。そうなった時にはもはや、翠星が打てる手など存在しない。

 そしてそれより短い制限が、近衛兵の集結である。近衛兵でも臣民と同様の事が言えるが、更なる課題は彼らが青薔薇の花園に接近しているという事。

 先刻の光魔法や白鯨、光線を彼らのうち夜の番をしている者は見ただろう。亜音速で駆け抜けたときも彼らは起きて迫りくる脅威を見て目蓋を目玉が飛び出すのではないかと思うほど見開いていたり、中には失神や失禁などする者も居た。

 彼らが到着するまでは六時までの半分、四分程度しかかからないだろう。つまり、四分以内に魔女を青薔薇の花園ヘと誘導し、その撃破と離脱という荒業を行う決断を、翠星は迫られていた。

 戦力的に見れば互角かもしれないが、状況という観点を交えると、翠星には帝都という重い枷が動きを阻害し、相対的に憂鬱の魔女が圧倒的な高低差を持つ優勢に立っている。


「アクションゲームの裏ボス三体と同時にやり合った方が、まだマシ」


 翠星は愚痴を叩きながら十数本の鎖を一箇所に誘導して弾き、幾重にも渡る鎖の牢獄を投げたナイフに纏わせた竜巻で蹴散らし、その大穴から離脱すると風切り音を立てながら四方八方より肉薄する鉄の蚯蚓を跳躍して躱す。

 数十種類の回避方法を披露しながら平均毎秒半メートルずつ花園に近付けているが、遠距離攻撃が可能なこの魔女を相手に誘導という戦略を取るのはなかなかどうして難しい。


「待ってよ、陰⋯⋯?」


 翠星はナイフを異空間に投げ捨てるように戻し、両手一杯に極彩色の絵の具を宝珠にしたような、それぞれの色が分離している球体を取り出す。それは投擲されると同時に黒が外側を覆い、建物の陰などに落下した。

 着弾の瞬間にそれは影を払い、直径二メートルほどの範囲を()()()()()()()()()で満たした。

 翠星の投げた物体は、元素魔法発動と同じものの思念波を受け取り術式を構築・発動する「自然の珠(エレメンタル・パール)」を改造したものであった。高濃度の魔素にさらされた魔水晶を原料に造るため魔力や術式への耐性が高く、彼女の行使する七属性の高等魔術までを、魔法を行使すればするほど瞳が赤く染まる現象──仮で設置された病「紅化病(ターン・ルージュ)」の侵食を抑えつつ、その発動を可能にする。


「やっぱり。陰が無いと、所詮はただの鞭使いだね」


 冷静というより冷酷に評し、二瞬の隙に魔女の懐へ鎖と鞭の妨害を制し潜り込んだ。魔女はここぞとばかりに翠星と視線を合わせた。紫色の目がぼんやりと光ったが、彼女の機敏な動きの、一ミクロン程度の影響にもなり得なかった。

 翠星の右腕より到来した戦闘用ナイフの一閃を、左手に差していた傘で受け止める。風を切る音と火花、金属音との小花火が連続して三分の一秒にも満たない寿命を燃やし、剣戟を鮮やかに彩った。

 銀髪の少女の華奢な左手がひらめき魔女の鞭を持つ手を捉え、黒髪の魔女は陰から這いよる鎖で戦闘用ナイフを持つ右腕の動きを止めた。

 魔女は勝利を確信したかのように、左手の傘を赤に染まらせる蒼氷色(アイス・ブルー)の瞳をした少女の肩に叩きつける。それも何度も。

 翠星の顔が、動転したかのように引きつった。

 魔素を爆発させ魔女の間合いから外れると、関節が外れ、打撲した右肩を正しい位置に移動させる。

 一方、魔女は砕けた右手を再生させていた。断続的な攻撃を受けたときに翠星は手に力を収束させ、魔女の多重結界を突き破り粉砕骨折を強要したのである。


「痛いわぁ、イタイのです」

「それは可哀想なことをしたね」


 皮肉と嫌味と殺意との三重奏を、魔女は更なる一言で突き返す。青白く細い、生気に欠けた二本の指が魔女の唇の両端を押し上げた。


「嗚呼、貴方も復讐心に囚われて可哀想に、カワイソウだわ。メイドの女の子たちと一緒に天上(ヴァルハラ)でお茶でもしてなさい。そうすれば、貴方も寂しくはないかしら、サビしくないのよ」


 その言葉は表情に乏しい白皙の頬を、僅かではあるが赤く染めさせた。激昂という突沸ではないが、沸点が山の峰に位置するような場所ではもう無いことだけは明らかだった。

 刹那の間をおき、軟体生物の這う動きで翠星に肉薄する魔女の鞭が、蒼い焔に焼き殺された。


「淋菌の分際で、随分と好き勝手やってくれたみたいだね」


 退路を無くす連携を取っていた鎖を切り払い、消すべき敵に向けて一歩足を進める。それは次第に加速し、たかだか十メートル弱が目と鼻の先の距離となるまでに音速の壁を突き破った。

 鉈がうなりを上げて殴り掛かり、ロリータ傘をいとも容易く金属と布の塊に変質させる。それでは止まることなどなく、重い鉈を振りかぶった反動を利用して憂鬱の魔女の脇腹を蹴り上げ、上空五〇〇メートルの空へと招待した。


「驚いたわ、オドロいちゃったのよ。(さと)の末裔がこんなに強かったなんて──」

「五月蝿い」


 罵詈雑言とともに、白い軍服を身に纏った人影が黒いドレスを着る人物を蹴落とす打撃音。それが早朝の空に爆ぜた。卓球の球のように黒ドレスの女は一面の青に引き寄せられ、それを強制した人物は青い絵の具の中に白い四角を見いだした。

 それは比率や色、規模から間違いなく、『月光の棟』の屋根の白さであると彼女は領解した。そしてまた、カーテンの内側に引きこもっていた箱入り娘が突然、時事に詳しくなったときに劣らない不吉さも含めて。



 青い薔薇の咲き誇る園の石畳に降り立った翠星。微量の靴音も立てないその技術を備えた脚は現在、僅かに彼女の鼓膜を振動させていた。

 長髪が乾いた風に揺さぶられ、そこにヴェールでもあるかのようなひらめきを見せる。その目は嫌悪に満ち、憤怒であふれていた。


「ワタシは感激ですのよ、カンゲキだわ。貴方のようなか弱い女の子が、ここまで戦えるなんて」


 憂鬱の魔女ことカタリナは土をかぶり、スカートの大きく破れたボロボロのドレスなど気にも留めずに手をたたいた。

 勝利を革新している眼には一点の曇りもなく、ただ狂気的な信者の眼をしていた。


「ですが⋯⋯」


 目の歪んだ光が消失し──正しく言うなれば、それは紫色の光にかき消され、手も不気味な紫色に輝いている。


「貴方は何故、ナゼ。ワタシの催眠が通用しないのかしら? 気になるわ、キニナルのよ」


 翠星は呆れたような溜息を吐き、その万彩に紛れていた『月光の棟』に視線を向けた。夏の終幕が始まったことを告げる南風を右半身に受けて、銀のか細い光が暗晦の闇に波打つ。


「嗚呼、見てみなよ。君の憂鬱が今、仇となって、綺麗に花開いている」


 空に映るのは、暗い世界に咲くという、一輪の白い花を想起させる、光の微粒子が生み出した淡く陽光を取り込む巨大なステンドグラス。影をもたらした結界は脆く崩れ去り、あとには燦々と注がれる、ほのかな熱を帯びた陽光が帝都を盈たした。


王手(チェックメイト)。とても品性のあるやりかたとは言えないけど、奇手には奇手を。そのままそっくり返す⋯⋯ってね」


 サバイバルナイフが魔女の周囲四方に刺さり、縦方向に複数の魔法陣を描く。それらは魔女を魔方陣の外側へ出ることを禁じ、その隙に、彼女は紅く光る一本を持ち出した。


「許さない⋯⋯ユルサナイわ」

「もとより許しなんて請わないし、いらない」


 魔女の戯言を鋭い言葉で切り捨て、一歩進む。魔女は何を恐れたのか二歩下がり、魔法による壁に行く手を遮られた。


「悪いけど、私は今、苛立ってるんだ。これ以上余計な事を言われると、全部断つ心算(つもり)が、うっかり刃の向きを間違えて骨を折るかもしれないから」


 彼女は誰にも、レオンハルトにすら見せなかった残虐な笑みで、憂鬱の魔女の心の憤りに応え、僅かに憫笑した。対する魔女も何か秘策があるのか、それとも必至で固められた虚勢なのか、まだ余裕が在り気な素振りを見せている。

 時は刻々と流れてゆき、帝国憲兵の鎧の擦れる音が遠雷のように聞こえ始めた。


「⋯⋯時間がない」


 翠星がナイフを振り翳した、その瞬間。魔女の口角がいびつに上がり、白く小さな月が垣間見える。魔女が魔法陣に触れた箇所より白い光が発し、空の色をしていたそれらは急速に、色を失いつつあった。


「時間ないって言ってるのに」

「それはお互い様かしら、オタガイサマなの。この複製体も、もうそろそろ限界ね、ゲンカイだわ」

「──」


 翠星は、相手の動ける残り時間を割り出し、軽い舌打ちで応報する。とても帝都の全員を守りきりながら戦える時間ではない。更に、自然崩壊を待つにしても、それでは商会の馬車に大幅な遅れが出るのだ。そもそも、技術(アーツ)としての複製体は魔素で構成される己の再現体(デコイ)で、能力(スキル)由来の『分身体』とは違い、発動に制限時間が存在する。それは存在値──つまるところ魔素量に影響されるのだが、魔女を名乗る存在ほどであれば大凡一日、二五時間程度であろうか。憂鬱の魔女自身がこの場に居ないのならば潜伏期間の時間分減算し残り一時間半、否であれば丸半日は要する。

 それならば、強力な一撃で殺すか、時間切れまで消耗させながら待つか。どちらも下策だ、リスクが大き過ぎる、翠星は判断した。故に、答えは一つに絞られていた。最初から、選択の余地などない定まったレールの上にでもあるかのような不快感を感じたが、いかんせん目前にある義務を放り出す訳にもいかない。


「自分ながら、奇手に奇手とはよく言ったね」


 己の発言に嘆声を上げながらも、武器を水鏡のように反射する表面を保有し、その芸術的な見た目と、裏腹に血を待ちわびる肉食獣の獰猛さを兼ね備えた片刃のダガーに得物を持ち替えている、翠星の小さな影が薔薇園に赤い斑点を残していった。

 魔女が完全に魔法陣を上書きした頃、彼女は左手にダガーを逆手持ちで構えた。


「──」

「我が敵を捕らえよ『方剣牢獄(メチエペジェイル)』」


 鬱憤に堕ちた魔女は翠星の先刻使ったものと同様の魔法で囚えんとする。しかし彼女の創作物(オリジナル)であるためか、はたまた名前に影響される条件を満たしていないせいか、魔法陣は発動とまったく同じ瞬間に砕け散り、光の粒子へと還元された。

 対照的な反応を見せた両者は、驚きや軽蔑に浸る余裕もなく、即座に次の行動へ、時間と座標を変えていく。ひと息に五連撃を打ちこんだダガーの奮闘が功を奏して魔女の結界を破り、その頬を仮想の歯や長い舌ごと豆腐のように切って、近代妖怪とされる『口裂け女』を体現させた。魔女が混乱した刹那に濁った血液を風魔法による強烈な上昇気流で避けさせ、宙に浮いた状態から魔女の足元に至るまで、横に数回転して着地。輪切りになった魔女の肉片から、緩慢かつ的確な動作で地面に落ちる赤い雨と側面から飛散する赤い弾丸の双方に一つたりとも触れることなく飛び退いた。


 翠星はダガーに残った血糊が固まらないうちに布で拭き取ると、それを焼却処理した。魔女の複製体の仮想血液に潜り込んだ黒蛆を、一匹たりとも残さず焼き殺すためである。

 青い花園の一角には赤い池がいつの間にか形成され、その周辺には翠星がダガーを持って立っていたが、憲兵は誰一人としてそれに気付かない。それどころか、翠星を文字通り通過して莫大な魔力の痕跡を探っている。


(陣の描き直しと追加をしておいて正解だった)

「駄目だ。この検魔計、狂ってやがる」

「俺達のもだ、針が振りきれちまってるよ」

「魔女でも来たのか?」


 憲兵たちの洒落(しゃれ)にならない会話を聞き、同行を横目で探りながら、翠星は魔女の死体から純粋な魔素のみを抽出し、残った核やら黒蛆やらは全て灰に還していた。


「今から行けば、まだ出発前に間に合うはず」


 翠星は能力で周囲の景色と同化し、足音ひとつたてずに青薔薇の花園から、宮殿から離れていった。街中に紛れ込み迷彩を解除した数秒後、何かが脳裏をよぎった。


「⋯⋯あれ。何か、忘れてる気がしたんだけど」



 レオンハルトは現在、未だかつてない危機感を身に感じていた。「死」が物質体となって目前に迫る恐怖が今、彼を押し包んでいる。速度が落ちているとはいえ、剣聖の元人間と渡り合える事がまず称賛に値するが、それが、三分前後継続されている戦闘に際して、勝算と成り得ることはまずない。

 アルテミスを幽閉していた楕円体の膜は破れて久しく、奇妙な色の液体が漏れ出していたがそれも無くなり、そして、銀色の死神が持つ黒い光の刀が、彼の頭の右横にあった。


「──」


 瞬発的に宝剣バルムンクの刃が刀の一閃からレオンハルトを守り──守りきれず、彼の身体は『月光の棟』の主な建材である万年大樹──数万年間育ち、金剛石より硬くなった巨木──材木で造られた重厚な壁を十七層分貫通し、背中にペンキのバケツを投げつけられたかのような傷と、火球でも直撃したような衝撃を最奥の廊下の壁で受けた。不幸中の幸いにも骨折ほどの大怪我には至らなかったようで、レオンハルトの手足はしっかりと繋がっており、強打による麻痺があっても、まだ動ける状態であった。

 が、それ以上に、彼には精神的負荷が重くのしかかっていた。己が幾度となく地面に転がされてきた、知る限り最強の人、つまるところ絶対的強者という偏見、更には、連戦で蓄積された疲労感、上官を手にかける罪悪感とが重なり、彼の四肢に鉛の枷をかけている。

 しかし、相手は彼の知る中で特筆すべき実力を備えた人物。故に、登山初心者が岩の大山、渓谷と崖を添えて、のように不向きな山に登る程度の生半可な覚悟と英気では、羅刹と相対するには一重に見合わない。


「──」


 血とともに吐き出した呼気が二つに別れ、レオンハルトの夕焼け色の右眼に黒銀の鈍い光が差し込む。瞬発的に宝剣で受け流しつつ体勢を低くし、衝撃波を伴う一閃を躱した。

 しかし宝剣にかかる圧力に持ち主の踏ん張りが押し負け、再び壁に撃ち落される。

 黒蛆の活性化から十五分弱、彼の生命の刻限は時計の長針と共に動いていた。淀んだ空気を吸い込もうとしたレオンハルトが咳き込み、黒い粘体が喉を逆流して、外界へ飛び出る。三半規管が悲鳴をあげ、それに伴い吐瀉物が床に投げ出された。

 赤黒く染まった双眼から見やると、宝剣バルムンクの柄に嵌め込まれた呪詛返しの効果を持つ浅葱色の退魔宝珠に、血管のような罅が沸いている。

 それは、己の感染していた事、それの悪化を防ぐ頼みの綱が喪失した事を、示すものだった。これから皮膚の焼け爛れが止まることなく、ありもしない存在に怯え、戦闘もままならないだろう。更には五分後──否、四分五〇秒経った時点で骨が黒鉛みたくなり、燃えるような感覚に五感の狂化、激痛による発狂、脳破壊などの症状が加算され、汚らしい死骸となる運命は確定する、と言っても、過言ではない。

 銀髪の亜獣はレオンハルトを見下ろすのみで追撃せず、ただ静かに、黒い光の刃を鞘に収めた。



「ラスティカ少尉、器官に期待した私が愚かだった。

──本日付けで、貴様を帝国軍から追放する」


 突き放すように吐き捨てて、銀髪の剣聖は、オレンジ色の髪をした少尉の解雇理由証明書を、鉄すら裂く刃も同然に投げだした。

 それは夕暮れに燃える執務室で行われ、証明書はレオンハルトの右耳に小さな切り傷を残して壁に突き刺さる。


「な、何故ですか?! 元帥閣下は──」

「──」


 その言葉の続きは、氷山のように鋭い蒼氷色(アイス・ブルー)の双瞳が赦すわけもない。その目が尽くを焼き払う青き業火に映ったのは、彼の受けた圧迫感から巡る錯覚だったのだろうか。


「──」

「良いか。貴様はアンデッド風情との一戦で少尉という立場にありながら、己の率いる小隊をむざむざ壊滅させた──違うか?」


 純白の軍帽の陰で表情は隠れたが、おそらく歯を食いしばって不快を押さえつけているのだろう。机に肘をつき、眼前で組んだ両手に力が籠もっている。


「──それとも、隊員(メンバー)に不足でもあったか?」

「──」


 またもや、彼は答えること叶わなかった。年端も行かぬ少女に大の大人が圧倒されるという光景は絵として面白いが、いざ現実になるとユーモアの欠如を疑う。──そう著した小説家も過去の人だが、これを見て何と言うやら。そんな下らない皮肉が精神の領域に巣くった。


「そうでないなら、一刻も早く身支度を整え、退去せよ。よいな」


 冷酷な低い声が、しかし、奇妙なほどに落ち着きはらった色をはらむ振動がレオンハルトの鼓膜に届き、自嘲の色を炙りだした。どうだ。一四にも満たない小娘に、己を失望させたのである。

 彼女の言葉は年に似合わず合理的で、尚且つ理性を欠くことがなかった。底が見えない、と、言うのだろうか。鈴の音を体現したような美声には、まるで心が込められていない。その口から放たれる語句に慈悲はなく、悪意もない。それは凪のような無風。

 水彩画のような、淡い感情の節々は彼も遠くから目にした事があるが、その本質とはいったい何であろうか? 答えを知る由もない。彼は今日より、その姿を見る機会を永遠に喪失するのだから。


「以上だ。下がって宜しい」


 冷淡な言葉が空を裂き、彼の身体を突き動かさせた。廊下に出たレオンハルトは、扉の閉じられると同時にそれを、無意識に発していた。


「銀髪の小娘が」


 目蓋を閉じ、無駄な時間を置いた後に開いた。

 白濁した視界が、半秒の中で鮮明になっていく。

 上級大将の目に照らし出されたのは、濃密な魔素に侵され潰れる灯りとそれによって生じる爆発。ズタズタに破られた真紅のカーペット、氷に覆い尽くされ青くなった広間。壁や天上に大穴が空き、巨神が落とした宝石の煌めきのような、帝都の夜景が貼り付けられていた。

 そして、中央に咲いている赤、青、銀の混じった花。真下から昇った氷の槍が小柄な体を背中から貫き、上方向に真紅の百合を花開かせている。生気と鋭気を喪失した虚ろな瞳が蒼い宝石と化し、銀の絹糸は宙に垂れ、オーロラの一欠片を切り抜いたようであった。

 それはいったい何か。赤に濡れ、機能を失っても尚、可憐という印象が取り憑いて止まない者など、そう多くは居ない。


「これは、包んでからノエル様に献上するべきね」


 青髪の悪魔がぽつり、と呟いた。その方向を見てから亡骸を見直し、そこで、初めて彼は気付くことになった。

 青い宝石の中の瞳孔が二つとも、こちらを向いたまま静止していたのだ。さらに、口は「許さない」とでも言うかのように軽く開き、止まっている。


「やめろ」


 勝手に紡がれた言葉に自分が驚きながら、一歩、後退る。氷が覆い始めていることにすら気付かず、同じ言葉を嘯き、耳を塞ぐ。しかし鋭く刺さる虚無の視線は、レオンハルトの神経回路を徐々に侵していく。


「──」


 恐怖の絶叫が、青髪の悪魔を不快がらせた。

 立つことすらままならなくなった彼は床に崩れ落ち、ヒステリックな喚声を轟かせて失禁。唾液まで垂らした彼は無様というのも生ぬるい、人間であるかすらも疑う、服を着た肉塊へと変貌していた。


「囀るな、汚らわしい」


 レオンハルトは、皮肉なことに、よほど人間らしい姿の悪魔の発した、人間・魔族双方の使う共通言語の罵詈雑言と同時に凍結し、次いで彼の真上から注がれた、氷の雨に穿たれ砕ける。

 その処置は、ある方面から見て「救い」だったのかもしれない。

 ──そしてまた、カイホウされた。



 彼は、ベッドから緩慢に起き上がった。何時ものように布団のシワを伸ばし、畳んで部屋を軽く掃除する。それから、食堂へと歩いた。そこでトーストやら目玉焼きやらを口に放り込み、その後一杯のコーヒーに口をつける。

 先刻来た道を戻り、軽装から軍服へと着替える。

 宿舎から出て、四〇〇フィート離れた訓練場に顔を出した。


「今日は早いね、レオン」


 長い銀髪を後頭部で結い、純白の軍服にみずみずしい肢体を包んだ元帥の、木剣から放たれた一閃の風とその破片が、彼を迎えた。


「──また木剣を破壊して回ってるんですか」

「⋯⋯希少級(レアモデル)未満でも何回か振るえるように、込める魔力を制限する練習だから」


 レオンハルトの無粋な質問に、半ば飽きれたように剣聖は応え、灰になった木剣の、柄の残りカスをはらった。

 有機無機は関係なく、物体の受けられる魔素には上限がある。そもそも魔法の原理は、空気中の魔素と物体内の魔素の間で陰魔子(いんまし)──魔素を形作っている微魔素構成物質として、プラスの魔力を帯びる陽魔子(ようまし)と、魔力を帯びない中性魔子(ちゅうせいまし)によって、魔素核(まそかく)が形成され、その外周を廻っている微物質が、マイナスの魔力を帯びる陰魔子である──を交換する際、プラスイオン状態にある体内の魔素から陰魔子が放出され、マイナスイオンとなっている空気中の魔素へと移動する。

 陰魔子とプラスの魔力を帯びた魔素が結合することで「魔法」が発生し、相応のエネルギーを放出した後魔素は微小なプラズマで分解され、陰魔子はその不足していて、かつマイナス八度以上の温度をもつ物体の中に、陽魔子や中性魔子は、元素と結びついて新たな物体や生命を築く。

 ──というのが正常な魔力の流れなのだが、この剣聖の場合は、魔素の扱いが極めて難しい故に、少しの水を出すつもりがバケツ一杯の水を出してしまう、という感覚であり、陰魔子の逆流が発生するのだ。

 まず、木剣に大量の陰魔子と命令式を、魔力回路を通じて流す。それが実行され、莫大な量の陰魔子が空気中へと放出される。ここまでは、正常であった。

 しかし、流される魔素の量と命令の規模が一致せず、というより多すぎる故、その分多量の陰魔子が行場を失う。そして、抵抗が高い物体中──この場合で言うなれば木剣──の内側にあるプラスの魔力を帯びた魔素と力技で結合し、魔法が暴発する──という訳なのだ。

 そしてもちろん、結合した魔素は全てプラズマによって分解されるため、暴発の媒体で灰でも残れば奇跡、などという有りうべからざる魔法発動に際しての暴走現象が起こったのである。本来、物体中で魔素の分解が発生しないのは物体全てがマイナスの魔力を帯びているためであり、死亡後に朽ち果てていくのは抵抗の低い、腐食している面で陰魔子を放出した魔素が別の陰魔子を受け取り、魔素分解が発生しているから。

 これは、非常に大きな問題だった。魔力耐性の高い、鍛え上げられた物体ならばそのような現象を起こしかけても問題なく行使できる。だが、行場を失った陰魔子はどこへ行くのか。本人に吸収されるのだ。

 この『吸収』が、身体的問題を引き起こしている事など知る由もなく、若き剣聖は制御の訓練と称してその危険行為を行っていた。

 しかし、前例のない行為の危険性など、誰が気付くのであろうか。そして、枷が外れたように、黒い芽が体の奥底に根を張り、成長していくのだ。

 その芽があることを知ってか本能が察知しているのか、はたまた、ただ便利だからという理由で行っているのか、剣聖は魔力制御の術を身に着けんと木剣を振るっていた。当然ながら、振り切ること敵わず、せっかくの木剣が、灰と化して散るのだが。

 元帥だけにとっての難題に挑む姿にレオンハルトは苦笑いかけ、ふと、違和感というものを覚えた。


「閣下」

「公の場じゃないときは名前で良いって言ったよ」


 剣聖の言葉は、それだけで終わらなかった。そしてまた、その目は、残酷なほどに暗く、毒をはらむ光を反射していた。


「それとも⋯⋯この刺客、届けてくれたの君?」


 ふたりの間の宙に罅が浮きあがり、次第にそれは空間を裂いて膨張していく。その割れ目の拡大とともに、彼の心拍数はせり上がっていった。

 それが直径一メートルに達した頃だろうか。白い袋が落ちてきた。気の抜けた蕪のようにも見えるそれは口が縄で固く結ばれ、その内側で何かが暴れているようだ。激しく揺れ動いている。


「──」

「開けるよ」


 冷たい汗が噴き出し、視線が剣聖の手元に集中している。見る方向を変える術はない。

 若き元帥が袋の口に手を翳すと、それに伴って縄が解けた。特殊な結界でも張られていたのか、微細な光の断片が、大気のステージで躍る。

 白く華奢な手がしきりに動かして袋を開き、その中身を蹴ってタイル張りの地面に捨てた。

 それは、人間の、女の形をしていた。猛獣のような殺気を隠した黒い目と黒く染められた髪、デザイン性はなく、機動力と変装の容易化だけに特化した純黒の服装、取り上げられた毒の染み込んだ糸やナイフ、これらがせんとしていた行為を物語っている。


「改めて質問するけど、これはどういう事かな。なんで、進入禁止の『光月の隠し部屋』に人──ひいては公爵様直属の暗殺者なんて居るのか。場所を唯一知っている、君なら答えられるよね」


 二つの衝撃が、遅ればせながら脳に到達した。ひとつは、記憶にない行動で問い詰められていることに対してのもの。

 そしてもう一つ。何故、自分は握った拳の中から人差し指を選んで伸ばしたのか。困惑の二重奏は、一瞬で終わりを告げた。


「──」


 空を切る音がして、剣聖の、首の付け根に小さな針が撃ち込まれた。彼女は素っ頓狂な声をあげた直後、一瞬痙攣し、それから、操り糸の切れた白磁の人形のように崩れ、深い眠りの領域に幽閉され──なかった。決死で抗い眠りの神(ヒュプノス)の大扉が閉まることを突き出した腕で防いだ結果、意識を保つことなどには成功した。


「捕まえましたわ。麗しき(さと)の、お嬢さん」

「⋯⋯なるべく会いたくなかったんだけど」


 後ろ手を薔薇の蔓で不要に縛られ、一三等身の持ち主の眼前まで吊り上げられた剣聖は、皮肉を口に出した。薔薇の棘が肉に食い込むかと思ったが、棘が丸いようで、そこまで血を無駄にはしない相手だと剣聖は判断した。


「改めて、魔王軍幹部『庭師(ガーデナー)』のアルルーナよ。短い間だけれど、よろしくお願いしますわ」


 そう言うが否や、大量の薔薇で剣聖を覆い隠させる。緑髪の女は薔薇の鞠に掌を向け、呪文のような文言を唱えた。

 薔薇の鞠はみるみるうちに変形し、十字架へと変貌した。剣聖は蔓で繋ぎ止められ、磔も同然の状態である。


「剣聖ソル・アルテミス⋯⋯若年にして無数の武勲を挙げ、その巧妙かつ堅実な陣形には我々も大変苦戦いたしましたわ」

「──」

「そこでですね。貴女の才覚を見込み、魔王軍に勧誘しようと思いまして」

「⋯⋯まさか、はい、と言うとでも?」


 危機的状況であるにも関わらず素敵に笑い、強気な態度を取るソルにアルルーナは反応して、首を横に振って応えた。


「まさか、それほど私達も莫迦ではないわよ」

「──」

「なら、ということで」


 女は手を軽く握りしめた。それと連動し、今まで丸かった薔薇の棘が、一寸程の針となってソルの四肢に刺さる。声にならないあえぎが小さく拡散され、数々の修羅場を潜って来た剣聖も、戦闘とは比にならない苦痛に顔をゆがめた。


「了承を頂けるまで、こうして辛い目に遭って貰うことにしたわ」

「悪趣味、だね⋯⋯」


 一部の針は、既に剣聖の手を貫通している。紅い流れが十字架の下に水溜りを作り、風が吹く度に激痛が電流となって脳回路に悲鳴を充満させた。


「ああ、余り動かない方が宜しくてよ。もがけばもがくほど、痛みが酷くなるから」

「──」


 最早、目を瞑り、痛みに耐えることしか手段を残されていないソルは対話の余裕すら無くなっていた。不敵な笑みも雲霞のごとく消え失せ、止まることなく、太く長くなっていく薔薇の棘は、腕をも通り抜け始めた。

 既に四肢は完全に赤い蛇に巻き付かれ染まり、食らいついた意識の淵は方解石も同然に崩れそうだった。棘によって注入された毒のおかげで気絶と感覚の麻痺が起こるリスクはなく、いよいよ手足は寿命を迎えて胴体と離別する。


「さて、どう? 入る気になったかしら?」

「──」


 生命維持に最低限必要な場所以外を失ったソルは、応えられなかった。目は焦点が合わず、理性を無くして二度と閉じられる事のない口からは、赤い滝がこぼれ落ちていた。


「あら、残念です。心能(こころ)が壊れてしまいましたか」


 生きた屍の胸を幹のように太い蔓の束が貫き、座り込んでいたレオンハルトの膝の上に拳大の物体が放り出される。それはまだ、微小ではあるものの拍動を続けていた。

 そして、顔をあげた彼の視線の先には蒼い眼を口に放り込む女の姿と、目が無く、血を流した顔でレオンハルトの方を覗く、磔にされた亡骸の姿がある。

 そして、その頸が水溜りに転がり落ちた。



 レオンハルトは、蒼い薔薇の花園だった場所で目を覚ました。ふと左側を見やると、『月光の棟』があるべき場所には、焼け跡の刻まれた更地だけが残っている。

 白昼夢でも見ていたような感覚を振り払い、僅かな灰を踏みしめた。すぐ横に寝かされていた宝剣バルムンクを持ち上げ、背中に担ぎ、歩く。

 地面の無彩色と雲一つない空の青さが、無機的なキャンバスを淡く彩っている。一万平米にのぼる広大な土地の薔薇は全て、地を這う粉へと姿を変えた。

 造られてから五年強の時を経て、美しさと防衛性、秘匿性の三点倒立をしていた『月光の棟』とその一帯は、美人薄命という言葉を振り切れず、倒れて、その短く輝かしい役目を終えた。

 レオンハルトは、灰色の世界に一点の緋を見いだした。外套に身を包んだ陰は、大盾のような高さや横幅と短剣の刃渡りに並ぶ厚みを持った、巨大な大理石を、線状の光とともに生み出す。その光の一端は、陰の持つ万年筆にあるようだった。

 陰は大理石が地面に固定されたことを揺らして確認し、ひとり頷くと、その広い面に何やら刻み始めた。

 レオンハルトは、いつまでもその光景を傍観していることは出来なかった。気配を消して接近し、刻み込むことに熱中している陰の首元に宝剣を突き付けた。

 流石に、陰も作業を中断せざるを得なかった。


「貴様、何者だ。ここで何をしている」

「──」


 陰は書き込んでいた正座の姿勢のまま体をねじらせて後ろ振り向く。物怖じがなく、落ち着いた若緑色の瞳がレオンハルトの目をのぞいた。

 しかし数秒後、再び石板の方を向き、刻みながら彼に質問を浴びせた。


「メイドさん達の名前は分かりますか?」


 質問の返却と、逆に送られた質問に彼は困惑したが、その質問に答えた。亜麻色の髪をした赤装衣の少女は、それを静かに聞きながら、万年筆の光で大理石を彫り続けていた。その姿に宝剣の切っ先が揺らぎ、鞘に収まった。


「リスト、フェルト、ルイナス⋯⋯これで全員ですね」

「──」


 少女は万年筆を腰のベルトに取り付けられた革のペンケースに戻し、そのスナップボタンをかみ合わせた。少女は大理石に向かって手を合わせ、黙祷をささげる。レオンハルトも混乱が収まらない中、それに倣った。

 短い沈黙の時間が終わりを迎え、少女は立ち上がった後、改めて彼の方を向いた。


「私は傲慢(アラゾニア)時雨椿(ツバキ・シグレ)です。あまり時間は無いので手短に」


 言葉を継いで紡ぐ。


「私は今ね、彼女たちのお墓を作っていた訳ですよ。黒蛆に侵され、辛い最期を迎えたのに弔わないのは恥も同然ですから」

「──」

「そういえばあの蛆虫で作られた人形がありましたけど、アレは決して貴方の知り合いではありませんよ。記憶からコピーされたのでしょう。そうでなければ、私は死んでましたから」


 とんでもない事を口にする、という考えを、敬愛する人の黒蛆汚染は存在しなかった、という事実に対しての歓喜が上回りかけ、何かが、心の底で詰まったような感覚がした。

 素直に喜べなかった。何故か。それは分からない。そして、あれが違うとするのならば一体、剣聖はどこに居るのだろう?

 口の中で独語した質問に答える者は、誰もいなかった。ツバキ、と名乗った少女はポシェットから緑色の線が描かれている絵具のラミネートチューブを取り出して、それを勢いつけて真下へ投げつける。

 ラミネートチューブの蓋がひとりでに開き、線の色と対応する緑の塊が、壺から出る蛇のように溢れ出した。


「体内の黒蛆は除去させて頂きましたが、胃腸が巨大化した黒蛆に喰い破られてますので絶対安静です。三ヶ月間は、大人しく療養してくださいね。剣聖レオンハルト・アドルフ・ウィンフリード殿」


 背を向けて歩き出す少女を囲うように絵具が取り巻き、青林檎の実の形になり数瞬、その姿は溶けて蒸発した絵具と同様に、いずこかへ消えてしまった。

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