四章 暗晦の常夜燈
Ⅰ
彼の荒れた呼気が、虚しく宙で離散した。心拍数の上昇に伴って、嘔吐感と息切れも加速していた。棚に整理されていた書物らが地面に落ち、乱雑に破壊された形跡もある。そして知っている限り彼の上官は、このような野暮な行動をとらない。
ならば、等号で結ばれるものとは一体何なのか。
「侵入者か!」
そういえば、今日に限って専属のメイドを見ていない。いつもはしつこいほどに身元と持物の確認をするはずなのに、誰一人とも出くわさなかった。
それは何故か。
全員殺められていて、どこかの部屋に置かれていたとしたら。全ての術が見破られていたとしたら!
「元帥閣下、居るのならば返事をしてください!! 私です、レオンハルトです!!」
「──」
半瞬、彼は強い殺意を感じとった。否、噴出するアドレナリンを察知したのだ。彼は、はっ、とデスクの方を振り向き、そして瞬発的に左へ避けた。黒いらしい何かが通過した反動で起こった暴風が、彼の鼻先をかすめる。
その四足の生物をかえりみて、彼は喪失感と憤怒に包まれた。
姿形は人間。ポニーテールにされていた茶髪は乱れ、虚ろな眼球の白目は赤く染まり、急激に成長した犬歯をもつ口からは、レオンハルトを獲物とみているのか涎を垂らしている。その表情は険しいというより威嚇する獣らしく、四肢や破れ、赤黒く汚れたメイド服から見える肌には、二種類の赤黒い斑点と、脈動する動静脈が見受けられた。爪も長大化し、半尺ほどの刃渡りを持つ五対の両刃剣に近い。
「⋯⋯リストさん」
彼は、メイド長だった亜獣の名を呼ぶ。とうに脳は侵され、その声が、姿が届いたのは代わりに肉体を操っているものだろうが。
亜獣は咆哮し、今一度獲物の頸を噛みちぎらんと襲いかかり、その顎に、彼は上着を巻いた拳を叩きつけた。亜獣の体が、電撃が走ったように波打つ。
レオンハルトは亜獣が動きを止めたのを確認すると急いで体内の空気を押し出し、すかさず浄化の結界で自身の呼吸器官を覆う。
「なんだって、黒蛆がこんな場所に⋯⋯」
黒蛆。六大災害の一種であり、一〇分の一ミリメートルという体長の超小型魔蟲だ。『病の魔蟲』や『光喰の魔蟲』とも呼ばれ、肺炎球菌や黒死病菌などの細菌やウイルスなどを運ぶ害虫である。世界各地でかぞれ切れぬほど駆除されているはずなのだが、未だにそれらは世界を汚染し続けている。この棟に居るメイドは五人、そしてメイド長の豹変具合から、発症後六時間程度の刻が経っていると推察した。
「残り四人か。だが、さすがに武器無しだと分が悪いな」
そう言いかけ、デスクに立て掛けられていたであろう大剣が目にとまった。金で打紐を模した鞘から青金魔鋼の柄が生えていて、その大きさは三尺に達する。
「宝剣バルムンク⋯⋯?」
本来ならば剣聖が携帯を命じられている宝剣が今、執務室の地面に放り出されていた。しかし疑念を抱く余裕など一寸たりともなく、剣に手を伸ばした。否、伸ばしかけた手が宝剣から放たれる、雷撃に弾かれた。
「くっ!」
彼が己の左手を見ると、無残な姿に成り果てていた。手袋は当然のように使い物にならなくなり、皮膚は溶け、肉は焼け爛れて骨が露出している。不幸中の幸いというべきか、傷が炭化することはなかった。レオンハルトは宝剣に認められず、拒絶反応を起こされた。しかしそれは拒絶と同時に気遣いのようなもので、まだ適合する肉体と精神を体得していない彼が宝剣を使えばまず間違いなく力に耐えられない五体は分離し、汚い花火として弾け飛ぶ。
それを回避するために、宝剣バルムンクを打った鍛冶師はそのような細工を施したのだ。そう、剣聖が語っていた。
しかし、結果的にレオンハルトが痛手を負ったのもまた事実である。
「ここは、いち早く撤退すべきだな」
頭では分かっていても、それを実行するのは極めて難しいだろう。苦労時の感染経路は空気感染、接触感染、魔力感染など多岐に渡る。物質を汚染するうえにその分裂速度は世界中で数兆体毎秒を越え、面積に換算するならばこの惑星の地表の面積の凡そ九〇パーセント、体積で数えても小惑星程度の規模になるだろう。その一端がこの棟に巣食っているとなれば、焼き払うしか全滅させる手段はない。
例え全滅させたとしても、死骸や焼け跡から放出される瘴気が一匹につき五体の龍を殺す。人なら、さらに四〇倍の数値が死の床に伏すだろう。数十回は惑星中の生命の燈火を狩り尽くせる猛毒からも黒蛆の危険性が伝わるなど、これ以上迷惑な生物がいるだろうか。いない筈だ。
彼は歯を合わせ、顎に力を入れた。もどかしさで歯軋りをしたい気分だったが、それをする余裕などない。
感染していないうちに一刻も早く、五年半働き続けた健気な『月光の棟』からの脱出──もし脱出中に感染したら信号を遺して自分諸共棟を焼き尽くす──を皮切りに、その後の焼却処理に加えて避難誘導、小鳥による瘴気がないことの確認、街中に散らばり、核燃料デブリ以上の放射性物質を放つ個体化した瘴気の処理、被爆者の処理。他にも幾多の作業を行って都市から黒蛆とその残痕を追い出し、避難した住民の帰還とメンタルケアを必要とする⋯⋯
後処理において最も悪辣な六大災害は、人々の希望を奪う。それは上級大将のみに限らず、まともな人間ならば皆、同じ憤りを感じただろう。彼はその感情に臓腑を灼き、思案した行動に急ぎ移った。
まずは執務室に陽光を取り込む大きな窓から絶縁体のカーテンをもぎ取り、それを使って宝剣バルムンクを包装する。ただし、一口に包装といっても緊急であるために商品のような出来ではない。
雷を通さなくなった宝剣をかつての剣聖のように背中に担ぎ、入ってきた扉を抜けた。そこで、彼は目に飛び込んだ光景に息を飲む。
先刻までの整理整頓された書庫は見る影もなく、黒い塊が各所を支配している。恐らくレオンハルトの、黒く染まりきっていない魔素を感じたことで活発化したのだろう。
「冗談だろ」
書庫どころか棟全体に巡らされた空間拡張の術はところどころが喰われ、そのせいで急激な空圧差が発生したことで空風が発生し、一瞬でも油断すれば本棚の黒蛆和えに殴り飛ばされるような環境となっていた。
その中で、下から跳躍して迫る二つの影があった。レオンハルトが駆け降りた隠し階段を二体の亜獣は突き破り、天井に着地する。
肘に鎌のようなものが生えた黒髪の一方はフェルト、口が人ひとり飲み込めそうなまでに巨大化し、長く鋭利な舌をもつ桃色の髪をしたもう一方はルイナスという名のメイドだった。その生命を弄び、それでも飽き足らぬ災害にレオンハルトは、今日幾度目かも知れぬ怒気を炸裂させた。
肘に生えた、手羽先に近い姿形の刃物で斬り殺しにかかる鎌の亜獣の腹部を膝で蹴り上げ、直後、いま一体の飛来した長舌を中途で掴み、書庫の地面に叩き落とそうとした。
しかし空風の影響もあってか舌の亜獣は数層下の足場に落下し、一〇〇冊近い蔵書本を宙へ撒き散らすために本棚へ飛び込んだ。
その隙に鎌の魔獣が肉薄し、再びレオンハルトの喉笛を掻き斬ろうとする。刃は宙を空振りして軍靴での鋭い蹴りが亜獣の腹を蹴り、鎌の亜獣は扉を突き破って執務室に送られた。
そこで舌の亜獣が床板を突き破って彼の足に鋼鉄の舌を絡みつかせ、同じ層へ叩き落とそうとした。空風にあおられたレオンハルトは本棚にへばりつきそうになる度、黒蛆の居ない場所に身をよじって脚を下ろし、跳躍して風圧圏を抜ける。
そこかしこへと叩きつけようとする舌の激動を凌ぎ、空中で体を三回転ほどさせて舌の拘束を解く。その舌を掴み引くと、執務室から飛び込んできた鎌の亜獣の胴体が舌の真上に来た瞬間にそれを放す。
舌は勢いよく巻き取られていき、軌道上に居た鎌の亜獣を巻き込んで舌の亜獣の舌は口に帰ってきた。しかし鎌の亜獣も口に入れてしまったため、舌に拘束された亜獣が脱出しようと暴れ、その鎌が変形した頭蓋ごと、脳を貫通した。
舌の亜獣が活動を停止したとしてもその舌と大口は健在であり、逃れようと暴れたせいで余計に舌が絡まり、胴体を圧迫してしまっている鎌の亜獣は舌の亜獣の黒い血を浴び、己もその血を口から吐いた。
その殺し、自滅する光景を見て彼は途方もない嘔吐感に見舞われた。しかし、足を止めてはならない。
今彼のすべきことは一番に「黒蛆が拡散しないよう、亜獣を殲滅する」こと、二番に「『月光の棟』から脱出する」こと、三番に「黒蛆に感染していないかの確認をし続ける」こと。そしてもし三番の確認で陽性を確認した場合は四番「早急な自決を行う」という悲劇的な手段をとる。
活動している黒蛆の潜伏期間は一〇秒間であり、否であるそれの二万分の一と非常に短い。初期症状として黒い血の吐血、充血、幻覚、幻聴、嘔吐、皮膚炎、肝臓の致命的破損、肺炎などがある。発症から五分が経つとそれに全身の痛み、骨折、筋肉の引きちぎれ、めまい、神経伝達物質の過剰分泌、全ての粘膜から起こる灼熱感などが加わる。
そして発症から一時間で死または人間性を喪失する。「人間性の喪失」は具体的に言うと牙が生えるなどの症状で理性を失うわけではなく、肉体の構造が遺伝子ごと変更されていく段階を現している。
五時間程度で究極的な飢餓感に苛まれ自傷を始めるようになり、六時間も経過すれば理性と情をベッドに置き忘れてきた、完璧な夢遊病患者的殺戮尖兵が生まれてしまう。
そのような悲劇を避けるためにレオンハルトもまた、己を死地に追いやる必要があった。
Ⅱ
書庫を抜けたレオンハルトを迎えうったのは両手が禍々しい刃に変貌した、赤毛の亜獣である。レオンハルトが廊下に出たその瞬間、彼の頭と胴を泣き別れに処さんとばかりに亜獣の左手が壁や扉を巻き込んで切り裂く。偶然、存在に気付かなかったレオンハルトが宝剣バルムンクを背負い、背後を取られていたからこそその鋼すら斬り伏せる一撃を「刃物での一閃」から「強力な殴打」に書き換えることができた。
しかし結局のところ即死の一撃が瀕死の一撃になっただけであり、脊椎が砕けるほどの攻撃を受けたは遠く離れた廊下の角まで吹き飛んで複雑骨折、そして死亡となる。
が、それはあくまで凡人の話だ。彼はその激烈な一閃のエネルギーを「攻撃を受けた直後」から受け流し、打撲程度の威力に軽減させた。
さらに、大の字に飛翔する体を気力で動かす。手足を空気抵抗がなるべく生じないよう胴に近づけ、身体の向きが落下面と垂直になるよう回転する。脚は伸ばしておいて落下時の衝撃をなるべく緩和するよう心掛け、両腕を可能な限り広げて空気抵抗を大きくし、物理法則の許す分だけ飛ぶ速度を落とす。
「なんて人を師に持ったものだか」
そう口の中で皮肉を呟きつつ、彼は着壁を成功させた。間髪を容れずに上下感覚が反転したままの姿勢から跳ぶ。錯乱の術は既に食われ焼き切れているため、方向を間違えるということはありえない。宝剣の峰で亜獣を勢いのまま突き飛ばし、感性を亜獣に移した彼はまだ赤いカーペットの上に足を下ろした。
だが、赤毛の亜獣は他の個体と違い、侵食の速度が著しく速かったようだ。それか、二日か三日ほど前から否活発期の黒蛆が病原体だった彼女の体内に巣食っており、それがこの館に入り、多量の魔素を感知したことで活発化した結果、この惨劇を生み出したのかもしれない。
彼は巡り巡る思考を頭を振ることで脳から隔絶させた。そのような事など気にしている暇はない。今にも亜獣──否、屍は起き上がり、刃を脳髄に突き立てんとしている。
四足獣を思わせる動作で肉薄する屍に宝剣を振るい、鋭く重い刃の一閃を跳ね返した。屍は隙のできた胴に詰まった内臓の取り出しにかかるが、今度は下からの蹴り上げで左腕の刃が硝子のように砕けた。
「やはりな。切れ味が良いぶん脆い」
これもやはり、師からの教えであった。剣は縦の力には強いが、横から与えられる力には無力。つまり、容易く折れてしまう。剣には力を一直線に乗せること。剣の向きと込める力の向きは完全な平行である必要がある。これは振るう速度速ければ速いほど、込める力が強ければ強いほど、その正確性が天秤にかけられる。
それをほぼ毎日、剣が折れる度に叩き込まれていた彼はその性質を利用し、最も速度と力の双方が乗った、折れやすい瞬間に横からの一撃を加えたのだ。
三尺を優に越していた大太刀の破片が、大方黒く染まった棟を乱舞した。それに合わせるかのように屍は後ろへ下がるステップを披露し、憤怒で低い唸り声をあげる。
屍は素早く強いが知性が低いため行動が単調であり、学習せずに猪突猛進を決めた。レオンハルトはいくら知性があるとはいえこれと言った武器がなく、さらに宝剣バルムンクが足枷となっていた。
レオンハルトの脳内地図によれば先の廊下を戻ってから出入り口までおよそ六〇〇メートル、曲がり角は階段含め七つのみである。
となれば、二〇〇メートル、二階の階段までで最低でも手剣の屍を殺し、一階にて残りの屍か亜獣を撃破するという手法が組み立てられた。
「いい加減嫁を迎えたら? もう三十路でしょ」
「ちょっと黙っててくださいね!! こっちはそれどころじゃないんですよ!!!」
頭の中で反響したソルの言葉を怒号で追い出し、絶縁体カーテンを巻いたことで鈍器と化した宝剣バルムンクにて、飛来する屍の脳を弾けさせた。
「次から次に⋯⋯でも、これで終わりだろ」
「卿を新たな上級大将として任命する。その手腕を振るい帝国を守る盾となり、剣となれ⋯⋯キャハッ」
天井からにじり寄ってきた屍を、レオンハルトは憤慨の意を込めて睨みつけた。新たな屍は薬物中毒者のような狂気の笑みを浮かべ、両目から黒い血を垂れ流している。血は髪を引きちぎったような頭髪の数本しか残っていない頭を流れ、落下したものはカーペットと床材を瞬く間に溶かし、腐らせる。
「アソボ、アソボ? ゲヘヘッ」
耳を塞ぎたくなるような叫び声を上げながら屍が天井から落下し、溶解の血を頒布する。六本の脚にある四つの関節を駆使して気色の悪い起き上がる姿を見せつけると、昆虫のような動きと素早さでレオンハルトに接近した。
屍は六足歩行の姿勢のまま彼の上四寸辺りまで跳ね上がった。そして突然、鍬形の顎のような一対の牙が目のあった場所から生える。その器官にてレオンハルトの胴を袈裟状で喰らいつきかけて逃げられ、そして捕食する直後に隙ができる腹に、宝剣の一薙を真正面から受けた。
しかし屍は皮膜らしきものを出して威力を軽減。それだけでなく縮まったバネが伸びるように畳まれた脚がもとの長さの二倍ほどになり、硬い鋏脚でカーペットと床を破りながら失速させた。
「ギャハハハハ、オイデ! オイデ!」
木の葉のようにひらひらと舞い、屍は交戦を続けずに一階の方面──つまり新手の屍が来た方向──へ六本の足で器用に走っていく。
「まずいな、屍が街に出れば本格的にただではすまない」
レオンハルトは屍を追いながら呟いた。不思議なほどに彼は冷静だった。それとも、冷徹というのだろうか。黒蛆の濃縮体とも例える事が可能な屍はその呼気を吸うだけでも猛毒に侵され、二四時間以内に全身が青紫色をしたグズグズの発疹に覆われて死に至る。直に触れた者は運が良ければ毒で即死、八割の確率で第二第三の亜獣や屍になる未来が待ち受けている。どちらにせよ黒蛆は死体をも操り、己らが形成した脳核が破壊されない限り永遠に死することのない兵隊を生み出すのだが。彼はなぜか、それすらも甘ったる感じるような何かを感じ取っていた。
黒蛆の沼を跳び越し、一階へと続く広間の階段を見たレオンハルトは思わず目を見開き、手で口を覆った。
「なんてこと、してやがる」
捻り出した言葉に反応した屍は、狼狽する彼を見て嘲笑した。しかしそんなものなど目に入らず、彼は、それなどより悍ましい光景を目に焼き付けさせられていた。
「閣下⋯⋯!」
絶叫混じりの肯定が、棟内にこだました。彼の脳細胞の尽くが『衝撃と絶望協奏曲』の第一楽章の演奏にかかる。
広間に大量の糸で足場を作り、ぶら下がっている楕円球。黒交じりの黄色をした半透明の分厚い膜と、それと同系色の液体に幽閉された、見覚えのある人間の姿をした生命体。銀髪は侵食による急成長のためか身長と同じ程度の長さ、顔に残るあどけなさは消え去り、大人びた印象をもたせる。蒼い目に光はなく、瞳孔は柔らかい円状から殺意に満ちた、猫のそれのような形へと変貌していた。
「⋯⋯巫山戯るなよ、お前」
「キシシッ、言われなくともね」
奥歯の砕ける音がした。彼の尊敬する剣聖を、非力なくせに余裕で勝てるフリをし無理をし続けて、命の灯火を人一倍燃やしていた人を、部下を信頼して決して死なせず、凄まじい戦略で敵を撃砕してのけた元帥を。その鈴の声を模倣し、言葉を模倣し、性格を狂わせ、意図しない相手を傷つけさせ、その人を尊敬する者の心を踏み躙る悪行に、彼は憤怒を抑えきれなくなった。先刻の冷静など刹那にして吹き飛び、真紅の電流が神経回路を掌握した。
「死ね、このゲスが」
吐き出された単調な語群には、抑えきれない多種多様な負の感情が乗り、絶縁体のカーテンにくるまれていた宝剣バルムンクを黒い防御膜から解き放つ。
宝剣は拒絶しなかった。それは、渦巻く負の感情の中に「これからは自分がやらなければならない」という僅かな理性の欠片が残っていたからかも知れなかった。
海王星のような青い剣身を抜き放ち、激情により加速された理力の覇気が夕焼け色の焔となって彼の肉体を覆う。彼の足が床を蹴り割った。
それはまるで、闇夜を駆ける不知火のよう。レオンハルトの体とバルムンクの橙色の剣とが屍に吸い寄せられるかのように肉薄し、一瞬の間にその首を灼き焦がした。収まらぬ怒りに反応している理力の炎は屍のそれぞれを囲い、業火のうちに葬り去る。
「早く⋯⋯まだ、間に合うはず」
しかし独語した彼が振り向いたときにはもう、膜は破られていた。
Ⅲ
時は少し遡り、夜の帷が上がらんとする刻。
霞は帝都を取り込み、しっとりとした白龍の息が銀色の髪と蒼い瞳を濡らした。
ほのかな熱をはらんだ呼気が宙を飛んだ。それらは数尺数瞬の旅の中途で離散し、大気に溶け込んでいく。
魔王エインフリーからの情報によると白鯨は今日の朝早く、帝都から八マイルほど離れた西の街道を通過する。ガンタルまでは約二七三五マイルであるから、三四二分の一程度の箇所で幼鯨と交戦することを避けるためにも白鯨の通過する午前七時前には街道と移動経路の交点を通過したいところだった。
「午前五時半、刻限はあと四〇分程度」
そのハズだったんだけど。ソルは表情を変えないままに異空間から細剣の一振りを引き抜く。刃渡り七〇センチ、剣幅二センチのそれはサーベルに近しく、ほぼ銀色に統一された剣の柄部分にあるラベンダーを象った装飾も、機能性を妨げない程度に造形されている。
帝都の中央に位置する四季蓮城を見やると、巨大な光の塊が微弱な霧を突き破って登っていっていた。
「『雲海に乗って舞い降りるは白き厄災なり』」
剣の随所に嵌め込まれたアメジストが美しく煌めき、雲から零れ落ちる紫色の雨のようであった。霧は一段と濃くなり、闇が帝都に落ちかかる。
「『朧夜に虚ろな燈火の陰在れば大いなる天空の乗り手が消しに来たる』」
そよ風が強風へと変わり、開きかけた夜の帷は再び閉ざされた。風向きすらも転じ、南風が北の冷たいものに圧倒された。
「『その御姿光に紛れ、光を食らう王者の水は生命を啜る』」
暗雲が立ち込め、数メートル先が見えない視界が重ねて悪化する。
彼女はフードを被った。雨だれが地を穿ち、逃げ惑う小虫や小動物の生命を吸う。次々に命の気配が失われ、あとには何ひとつ残らない。
ただ残酷に、命が刈られていく情景はまるで風景画のようだった。
「『雲に乗りて忍び寄り、霧に紛れ襲い来る顎』」
彼女は振り向き、細剣の剣先を霧の先に突きつける。鼓膜に届く唄声と濡れた路面を嬲る足音が、全身の細胞に警鐘を鳴らさせていた。
「『世を闇に染めし大いなる遺産の名は』」
唄はそこで止まった。黒いロリータ傘を差し、類似したデザインのドレスを着こなす五尺強ほどの身長の持ち主の背中は、黒く長い髪に隠されていた。
彼女は凶々しい妖気に圧倒され、剣を構えたまま一歩も動けずにいた。視線はぼんやりと光る紫色の目に吸い寄せられ瞬きすら赦されず、全身を白磁の像のように硬直させられている。
「白、鯨⋯⋯」
その答えを聞き、女は兇悪な笑みで応えた。女は、未だ動けずにいるソルの頬を片手で包みこむ。それだけの動作で、ソルは崩れ落ちた。
体中の力を抜かれ、物理的な抵抗すらできずにいる彼女を一本の手で支える女はその体を抱き寄せ、敵意と無力感と恐怖を混合させた感情をたたえる宝石のような目を見て唇の両端を引き上げる。
「良く出来ました。ご褒美に⋯⋯」
両手で彼女の頬を口元に寄せ、互いの唇を接触させた。赤い蛇のような舌が女から派遣され、体を微塵たりとも動かせずにいるソルの口内に侵入させる。
蒼い瞳が衝撃と悲哀と絶望を受信し、到底卑屈ではない彼女は内接的な死の足音にひとみを狭めた。
(ボクの相棒に気安く触れるんじゃないよ、魔女風情が)
突然、ソルの纏う妖気が鋭利な槍となって女に逆襲した。
女は一時的に諦めたか飛び退き、運動神経が回帰したソルは女の舌が気管にまで侵入したため、激しく咳き込む。
「ありがとう、アン」
「しょうがないよ、スイ。対魔女の初陣にしては頑張ってる。精神まで取り込まれなかったのはえらいよ」
翠星の隣に立ち、彼女が体内に侵入を許してしまった黒蛆の殲滅を掌から放出される理力によって手助けするのは、ほとんど同じ容姿の者。全く同じ身長に同じ髪の色、瓜二つの顔にはそれぞれ蒼色の宝石と金色の宝石が一対ずつあった。
「お洒落に仕切り直しといこうか、魔女」
金色の瞳の方が微笑み、改めての宣戦布告をする。蒼い瞳の方は立ち上がった後死骸の塊を吐き出し、口元を拭う。こちらの方はやや後方にいた。
「『魔女』、だなんて⋯⋯」
女は困ったように首をかしげ、妖艶な笑みを浮かべた。ふたりは女から放たれる誘惑と威圧の妖気に抵抗しながら指文字で作戦を共有している。
「ワタシは憂鬱の聖女カタリナ。まぁ、貴方達の言葉で言うと『憂鬱の魔女』なる者よ」
話している魔女の瞳がぼんやりと光り、翠星が視線を逸らす。どうやら、この魔女は会話中にすら魔法を行使し絆さんとするらしい。
「お前の相手はこのボクだよ、憂鬱の痴女」
ふたりの組んだ作戦は、以下のようなものだ。
一。アンことアンラ・マンユが憂鬱の魔女を引き付け、その間に翠星が白性と陰性の光魔法を行使し白鯨の軌道を逸らす。
二。立場を入れ替え、翠星が憂鬱の魔女と戦い消耗させる間にアンラ・マンユが白鯨の残滓である幼鯨数千匹を撃破する。
三。合流して波状攻撃を行い帝都の外または開けた場所に追い詰め、高威力の一撃によって討伐ないし撤退の強制を行う。
四。万が一失敗した場合、空間転移で退避する。
「痴女ですって?」
翠星は意識がアンラ・マンユに傾いた刹那を見逃さず、高速で駆け出す。しかし悪天候であることが起因し、その脚は亜音速に届かなかった。
それでも超伝導リニアに匹敵する足の速さを発揮して、蒼い流星の如き標的は白い天の川に向かって飛翔する。
それを妨げんとする紫色の鞭が獲物を狙う蛇のように肉迫しかけたが、半音速には追い付けず虚しく夜霧の中を蠢いていた。
「その通り! ご褒美に一つだけ、無理のない質問になら答えてあげるわよ?」
「なら訊くけどお前、結界張ってるよな? 相当上位のやつ」
天を指さし、無言のうちに嘲笑う銀髪の者の質問に、魔女は重い威圧感で応えた。
「⋯⋯憂鬱ね、ユウウツだわ。最悪かしら、サイアクよ」
「やっと化けの皮がはがれたか、陰湿なくせに姉さんぶりやがって。スイの兄妹はこのボク、アンラ・マンユだけだっての」
「その独占欲、本当に苦いわ⋯⋯踏み躙りたい、取り立てたい⋯⋯。お願いだから、ワタシが鬱を抱える前に詫びて亡くなりなさい」
街中の影という影から紫の鎖が音もなく生え、それらはゆらゆらと蝋燭の火のようにゆらめく。魔女の手には鎖と同じ色をした鞭が握られ、先刻翠星を襲ったのはそれであるとアンラ・マンユは理解した。
「生憎だけどボクは詫びの品なんて持ち合わせてなくてね。お前の死を詫びとして受け取らせてもらうよ」
「嗚呼。腹立たしいのよ、五臓六腑が煮えくり返る思いをしているわ、鬱ね、ウツなのよ、鬱なのかしら、ユウウツよ⋯⋯やっとの思いで新しい贄を見つけたと思ったのにそれを邪魔するなんて、テーブルマナーを知らないにもほどがあるわ⋯⋯ワタシが獲ろうとした子を逃がしてしまうなんて! 厭だわ、イヤになった。暗くなっちゃうわ、クラいのよ、哀しいかしら、カナしいのね、陰気、インキなんだわ⋯⋯」
発言の進行に応じて魔女の動きも変化し、纏う圧も地を割ったようなより重いものへと変質していく。濃密な覇気によって建物の窓が震え、不敵なアンラ・マンユすらもその様には震撼した。
「貴方その命をもって、償って頂こうかしら。ワタシの目的のためにも」
アンラ・マンユは、魔女が目的など関係ない感情論を話していたような気がしたが、考えている場合ではないと判断、気を引き締めた。
Ⅳ
蒼銀の箒星が霧中を駆け、濃霧に紛れる巨体を斬りつける。真紅の尾をひいた星は天の川の腹を刻み付け、直径数十メートルの空間へ生温い雨の届け物をした。
「タフだね。これくらい斬れば墜ちると思ったんだけど」
判明している限り白鯨の体躯は大凡三〇〇メートルであり、その大口は何万もの魂を啜ってきた。そして白鯨の細胞は、魔力耐性が極めて高いことが判明している。つまり、魔法攻撃は殆ど通用しない。
そうでなければ白鯨は今、地に叩きつけられていたことだろう。
彼女の使用した細剣は持ち主の魔素消費量と斬撃の威力を二乗にする特殊級の武器。途轍もない高威力の一閃を閃かす代償に体内の魔素を無条件に貪り食らう危険な代物なのだが、ほぼ無制限に魔素を行使できる翠星が用いることでそのデメリットを打ち消せてしまう。
本来ならば鬼に金棒、如何なる装甲や結界も一撃で斬り貫く特異の一撃も白鯨に対しては「多少斬りやすい」程度の効果しか発揮せず、その証拠に斬ることが出来たのは皮膚と柔らかい脂肪分のみ。金剛の数十倍は硬いであろう筋肉には小さな切り傷程度しか負傷を与えられなかった。
そもそも白鯨の巨体にとってその程度の攻撃など擦り傷に等しく、纏わりつく虫でも払うかのように雷鎚を振るった。
「六マイルは離さないと」
連続して降りかかる落雷を幼鯨を足場にすることで躱し、墜落していく焦げた鯨を見やりながら白鯨の前側へ駆けていく。
仲間を踏みつけられて怒り狂う幼鯨を真二つに斬り落とし、死体の赤身を一口大の大きさで千切りながらその巨体を振り回して他の幼鯨の攻撃を遠ざけ、鯨肉の盾を捨てながら夜食の代わりと言わんばかりに魔素が豊富な幼鯨の肉を摂取する。
「うえぇ、おいしくない⋯⋯」
発言が目的とは直接的な関係を持たないが、年も年である故に美食を求めるのだろう。不満気な表情を見せつつも喰らっていく様は、一条スバルと名乗る者が言っていたように暴食そのもののようであった。
現在、白鯨は南西の方角から帝都に肉薄している。距離にして三マイルであり、時速二〇〇キロで浮遊している質量爆弾が帝都を平らに均すのは時間の問題だ。
「あの光魔法を消さないとダメだね」
あざとい戦略が脳裏に閃いてはいたが、それを実行する決断をするには少々時間を要する。
五秒ほどの思慮の後、翠星は幼鯨の一匹に跳び乗り魔素で轡と手綱を構築した。暴れて咆哮した幼鯨の口に巨大な轡を嵌め、それから生えた幾つもの針が口と轡とを完全に固定させる。
悲鳴をあげられない幼鯨の軌道を手綱で修正した途端、暴れた幼鯨に振り落とされかけた。即席の大縄で幼鯨を自分諸共縛りつけ、うつ伏せになる形ではあれども幼鯨の移動方向を完全に掌握した。
幼鯨と翠星は鯨の群れを追い越して帝都の上空を飛翔した。そしてそれに感づいた街に樹立する無数の鎖が追い縋り、一本が目の前に現れて彼女をひやりとさせた。急旋回で退路を塞ぐように網を敷く鎖の群れをかい潜りかけて、急激に行われた無理な動きに幼鯨が耐えきれず、血肉の花火を飛散させた。
「こんな時に」
本来は、愚痴をこぼす余裕などない。翠星の視界は砕け散る赤と彼女ただ一人を貪欲な胃袋に収めんとする鎖の大網と地上よりは薄い霧に染まっていた。
そのはずだが何処かで、一面の海碧色を瞳は映していた。
衝撃と圧迫感が浮遊感に続いた。気の抜けた風船のように縮んだ網は絶対的な牢獄と化し、網に捕らえられた翠星は己の骨が砕ける音を聞いた。
次いで、体が機能を失っていく。やられた、と、翠星は血の塊を吐いて己の甘さを憎んだ。
翠星は殺される可能性を考慮していたが、まさか脊髄を砕き生け捕りにするとは考えもしなかった。下半身からの情報を受け取れなくなり、まだ使える腕も鎖に雁字搦めにされ、殆ど動かせない。
「ちょっと、間に合わないかもね」
高度を勢いよく落としていた鎖の球は霧にもまれ、その姿を隠した。
少し時は巻き戻り、アンラ・マンユは効きの悪い視界の中で、憂鬱の魔女を相手に奮戦していた。
鞭が濃霧を綿菓子のように千切りアンラ・マンユに襲いかかった。それを紙一重で躱し、反撃に持ち込もうとして剣が鎖に弾かれる。それの連続。
「特殊結界『暗晦』だったか。暗澹海の性質を模倣した結界で、海洋の魔物を活発にする効果がある。闇黒魔法の応用技で、上位魔人の中でも才能に富んでいないと造れないほどの大結界」
「それがどうしたの? ワタシは憂鬱かしら、ユウウツなのね。だから簡単に他人の技術を漏洩する輩は大嫌いですわ、ダイキライよ」
影から這い寄る鎖がアンラ・マンユに肉薄した。それらは無秩序に空を切り地面を叩きつけ、統制の欠片もなく暴れ狂う。
「煩いな。お前が呪いで寝かしつけたイビキ名人でも、もう少し静かに寝てるぜ」
「煩いのは貴方の口でしょう、この蛆虫が」
「黒蛆もお前だけには言われたくないだろうな」
悪態の応酬が相次ぎ、その度に鞭か剣が空を滑る音が奏でられた。憂鬱の魔女が感情に任せた適当な攻撃を行っていたとしても、その一撃を食らえば致命的な傷を負うことが約束されている。
鎖も魔女の影響を受け動きが退化していき、絡め取ろうとする動作も潰え、ただのよくしなる鉄の棒と化していた。
受け流された鞭が地に鉄槌を下す。舗装されたタイルの道がうねり、円状に石片を撒いた。アンラ・マンユはその一つを掴み取ると投擲、プロ野球選手に匹敵する速度で飛ぶ平たい石は鞭によってさらに小さな破片となった。
魔女が目を配ると、生意気な銀髪の姿は濃霧に隠れていた。鈍い青緑色の霧が視界を包み、魔女は奥歯を噛みしめる。
「この程度の小細工を弄したとして、ワタシに勝てるとでも?」
帰ってきた返答は、魔女を閉口させた。
「勝つ?何言ってんだ、お前。ボクはお前に勝ちたいんじゃなくて、お前を殺したいんだよ。スイに格好いい所見せないと、相棒として信用してもらえなくなるからな」
「それは可哀想ねぇ、カワイソウなのよ。貴方の愛しい恋人は今宵黒く染まる運命かしら、ウンメイなのです」
建物の影から話を聞いてやっていたアンラ・マンユはさも可笑しそうに哄笑する。ただ、その目は負の感情がとぐろを巻いて怪しく反射していた。
「出来るものなら殺ってみろ。少なくとも、六大災害程度じゃ本物のスイには敵わない」
感触を感じた魔女が薄気味悪くせせら笑い、己の勝利を感心したかのような恍惚を双瞳にたたえた。
十数メートルにまで伸びていた鞭が掃除機のコードが本体に引き込まれるように短くなる。
「王手よ。たった今、ワタシの得物が小さな星を鳥籠の中に捕らえたわ」
アンラ・マンユはさして衝撃を受けなかった。彼が驚いたのはただ一点。そしてその一点は、すぐに結果として反映された。
闇が迫るなか、翠星は奇妙な余裕のカーテンに包まれていた。真下では彼女の異空間に近しいであろう大穴が開き、それに触れれば刹那で取り込まれてしまいそうですらあるというのに、それが事実として起こることはあり得ないように感じられたのだ。
「食らえ、『悪食者』」
闇は翠星を取り込むことが敵わなかった。否、取り込まれた。華奢な身体の骨を砕いた鎖も触れた瞬間に食い尽くされ、異空間の中で半秒も経たないうちに魔素へと還元される。彼女は仰向けの姿勢から宙返りで立ち上がりかけ、空腹で蹌踉めき座り込んでしまった。
固有能力『悪食者』は表裏一体の能力であった。そもそも悪食とは「悪い食生活」という意味であり、プレデターの意味は捕食者である。つまり、『悪食者』とは「食べるのに相応しくないものを捕食する事が出来る」能力なのだ。
そんな能力の厄介な性質として、「発動中は発動部分の表面積と発動時間に比例して空腹になる」というものがあった。原理は単純明快、『悪食者』を発動するためのエネルギー源が「満腹感」なのだから、当然である。
しかし、この能力の本当の危険性はまだ翠星自身も把握していなかった。それが後日、災厄の種になるとも知らずに⋯⋯
Ⅴ
上空から、数匹の幼鯨が翠星に襲いかかった。恐らく、敵はもう動く余力を残していないと勘違いしたのだろう。次の瞬間にはもう彼らはおろされ、数千枚の鯨の刺し身となり宙を舞った。それらを彼女は一枚一枚どこから取り出したかも知れぬ箸でつかみ取り、口に放り込む。幼鯨の骨と内臓が地面に落下するときには、こしらえた刺し身の全てを食べ尽くしていた。
「うん、不味い」
先刻とほぼ同じ感想を述べた後、生気とみずみずしさが復活した頬を軽く叩いて気を入れ直す。また、当然のように黒樺の箸は異空間に投げ捨てられていた。
残り時間は三〇秒弱、鯨のタクシーを呼んでいるようでは間に合わないだろう。故に、翠星は亜音速で街を駆け抜けた。愚鈍な紫色の鎖など障害物競走の障害物にすらなり得ず、通過し十数メートル離れた後でようやく動き出している。むろん、追いつける訳が無い。
風圧に耐えきれず被っていたフードが取れ、命を啜る豪雨が直に打ちつける。一瞬不測の事態にあえぎ転びかけたが、すぐに防御結界を頭上に張り、それが破壊されるまでの僅かな刻で被り、持ち直した。
四季蓮城の三〇メートル超の城壁を軽々と跳び越し、壁や天井を駆使して複雑な道や階段を最短距離で跳んでいく。その様はまるで、黒く素早い小型獣が螺旋状に駆けていくようであった。
幾つもの曲がり角を光も驚く速さで曲がり抜け、巨大な光魔法が発動されていた青い薔薇の花園に到着する。その到着時間は午前五時四六分二一秒、白鯨の到達より一四秒ほど早く、その平均的な秒速は二九六メートルであった。
「足がちょっとばかしキツいなぁ⋯⋯」
内外の出血によって赤く染まった両足で立ち、魔力の酷使で瞳は半分以上が紅色に成り代わっていた。片手を膝につけ前傾姿勢を取りながらも右手に魔素を集め起こした純白の極光が姿となって現れ、その煌めきを帝都に投げかけている。
その腕を目的地の直前でひるむ白鯨の反対側、白鯨を寄せる光に向けて突き出し、反対の手でその上腕部を支えた。
「誘蛾灯には消えてもらうよ」
烈光巨砲!!!
白い光の槍が撃ち放たれ、既にあった光魔法を消し飛ばす。その間に発生した虹色の光は魔素の共食い現象であり、圧倒的な数を持つ翠星の光がそれを突き破った瞬間に直径一〇〇メートルを目前に控える光線は霧を、雨を、雲を圧倒的な熱量でかき消した。
「転じて、烈光双砲」
彼女は歌うように唱えた。白鯨を避けるように、直径数十メートルの光条が夜を切り裂く。それが二本、左右から進路を無くすかのように白鯨に肉薄し、数多の幼鯨を魔素に還元させる。六大災害の嫌う精霊系の魔力で構成された極太のレーザーによって、白鯨は進むことができなくなった。
翠星は苦々しく微笑んで強烈な魔法を解除し、右手の形だけを指鉄砲のように変えて黒い光を起こす。
それは白鯨の真上を通過して帝都とは反対方向へ飛び、鮟鱇の提燈のように白鯨を元の進路へ誘導させる。
「私が遅れたら意味ないね」
取り敢えずの最後の力を振り絞り、青い薔薇の園から白鯨の背中に跳び移った。
白鯨の白い皮の上に立った瞬間、翠星は疲労からか倒れ込み、半日以上前に祓ったはずの眠りの神が再び彼女に近付いてきた。
「まだ、眠ったら⋯⋯」
朦朧とする意識を奮い立たせ、翠星は固有能力『光学迷彩』で己の姿を隠した。
更に造った太陽光を浴びることで副交感神経軍に白旗を上げそうな交感神経の活性化を促し、落ちかけた意識を段階を置いて復活させていった。
大きな伸びを一つしてから、足を伸ばして座る。多量の血管や筋肉に重大な破損がある両足に礼を言い、手をかざす。
数秒のうちにもう動かないはずだった両足の血管や筋肉はもちろん、骨、流出した血液、神経、その他全てが何事も無かったかのように正常な姿へと回帰した。
「これ、最後まで体が保つかな?」
冗談にならない自嘲を口にして、明るくなった視界に一瞬目を細める。
夜が晴れた。結界を抜けたのだ。半分ほどしか昇っていない太陽の光を眺めつつ、雨風に冷えた体が熱を帯びていく心地よい感覚に抱擁された。
白鯨がその姿を隠し始める。白鯨は夜の魔獣、昼間は少しの幼鯨を軌道上に撒くだけであり、大した害はない。
一人と一匹が光に紛れ、その姿を不可視のものとする。それは二個体が同じ能力を保有している証明であり、また、その巨体を昼に見かけることが出来ない理由の説明にもなった。
ある程度回復した翠星は、その姿を隠せない幼鯨を容赦なく斬りつけつつ白鯨の背から降りた。幼鯨の背に着地してそれ含めた数十体を刻むと、他の個体に跳び移る。それの繰り返しで数百体の幼鯨を死神の懐に投げ込み、幼鯨の影が無くなったところで地に足をつけた。
帝都から誘い出した白鯨に背を向け、翠星は結界の方へ歩いていった。
アンラ・マンユは、苦戦を強いられていた。止め処なく波状攻撃で打ちつける鎖を斬り、流し、躱し、幾つもの技法で攻撃を捌いているが、集中力も時を増すごとに減退し、掠る攻撃も増え始めた。
「早く倒れた方がお互いに楽よ、観念なさい」
鎖のひとつがアンラ・マンユの剣に巻き付き、その時生じた大きな隙につけ込んだ鎖が翠星に瓜二つの体の自由を奪う。
アンラ・マンユは拘束を破ろうとしたが、何重にも巻き付けられた紫色の鎖は、「凡人よりかなり強い」程度の力で打ち勝てる甘い産物ではない。
身をよじれば、余計に鎖の身体を押さえつける力が強くなるだけだ。
「⋯⋯これじゃ、倒れようもないんだけど」
アンラ・マンユの皮肉を聞いた魔女は、静かに嘲笑った。なんという醜態であろう。文字通り手も足も出ない姿になっていながら、それでもまだ口は達者に動くのだ。
魔女はくつくつと込み上げる笑気を制し、鋭利な眼光を放っている金色の目をした者の前に歩む。
縛り付ける鎖が宙に浮き上がり、それに伴ってアンラ・マンユ自身も魔女と目が合う高さに持ち上げられた。
紫色の目がぼんやりと光り、アンラ・マンユは目を合わせないよう目蓋を閉じる。しかし暗い紫色に発光する青白い手がその頬に触れると、本人の意志とは無関係に閉じられていたまぶたが開けられ、虚ろな金色の瞳が紫色の目と視線を交差させた。
「貴方は憂鬱に苛まれる」
魔女の妖艶な声が傀儡の鼓膜を震わせ、傀儡は意識を失ったかのように重力に服従した。鎖が解かれ、銀髪の傀儡は地に崩れ落ちる。
「貴方はワタシの忠実なる下僕」
途端、傀儡が片膝をついて魔女に行動で敬意を示す。当然の事だが、その動作に意思はない。ただ催眠術にかかったように淡々と、魔女の言動のままに肉体が、心が動いているのだ。
「この鎧をあげましょう」
魔女が指を鳴らし、闇から現れたのは随所に闇黒魔法の発動を促す紫色の魔晶石が嵌め込まれた黒い魔鉱石のフルプレートメイル。それらは浮遊して、微動だにしない傀儡に装備されていった。
傀儡は魔女の差し出した黒い剣を恭しく受け取り立ち上がると、現着した人影の方向を向く。
「随分、悪趣味なことをしてくれる」
銀色の長髪が圧倒的な量感を持つ妖気で揺らめき、見た目の幼さに似つかない軍服を纏う肌は、新雪のような白さをはらんでいた。両手に小太刀を握り、それを持ったまま下げている手は油断しているように感じられる。しかし双瞳に「躊躇」の単語はなく、それのみで巨象ですら殺しうる殺意が顕著に現れていた。
「貴方を待ってたわ、ソル。さぁ、ワタシの胸に飛び込んで来てちょうだい」
黒い傘を投げ捨て、偽りの聖母のような微笑みをたたえる女を見た。両手の小太刀は取り落とされ、莫大な殺意など半瞬のうちに消え去った。
その情景は、無垢な子供が母に駆け寄るそれに近かった。ただ一つ違ったのはそれが、敵同士であったということだ。
ふわり、と音を立てるようであった。小さな身体を黒い服の女が抱擁し、兇悪な笑みを作った。女の長い舌が小柄な白磁のような身体を縛り、敵を母と錯覚した目は驚愕と恐怖に染まる。
軽々と持ち上げた身体は小刻みに震えており、直面する「死」に怯えているようだった。そして、その殆ど赤い目は虚ろで⋯⋯
「残念、見間違えてしまったのでした」
怯える影が一瞬にして消え失せ、その双眼には知性と策謀の光が宿っていた。未だ身体の自由が利かないはずでは無かったか、と魔女が今更焦っても遅い。
捕らえていた舌は根元で切り落とされ、翠星は体の自由をそれなりに邪魔する舌を、異空間から引き出したサバイバルナイフで切り刻んだ。
「何故⋯⋯ナゼ?」
混迷の濁流に思考が流された魔女は、頭一つ分身長の低い脅威がなにゆえ、己の催眠にかからなかったのかが理解できなかった。
「この奇計、分かるといいね」
翠星は可憐さを保ちながら不敵な笑みを浮かべ、ナイフを順手から逆手へと変更した。