三章 取り残された者
Ⅰ
近隣の魔王領で何が起きているかも知らず、ソルは、元剣聖行きつけのカフェ・アンド・バーで遅めの昼食を摂ることにした。至極当然、護衛として派遣された紫鳶も同行している。
この店は『カフェ・ランテ』といい、表向きは喫茶店、裏では情報屋としても動いているチェーン店だ。
「店主、新しい珈琲豆はある?」
「はい、とびっきりのが」
この喫茶店で情報を手に入れるには、いくつかの手段を要する。まず、各店舗で決められた合言葉を唱える。次に決まった注文をするが、この時、他に頼みたいものがある場合は一旦、注文を区切るのが鉄則だという。
「じゃあ、それとラテのミルク二と砂糖一、ティラ・ミスを一つ」
「承りました。では、お客様。こちらへ」
眼鏡をかけ、ウェイターユニフォームをぴしっと着こなしている白髪の老人は、枯れ枝のように痩せた手で奥の個室へと誘導した。
そこは、いささか無粋な空間と言われても、反論の余地がないだろう。日光に差し込む明るい世界から一点、永遠の夜闇の世界に来てしまったかのような不和感と冷感を刺激した。
老店主の双眼も同様に、穏和な瞳から、悪意に満たされた眼球へと変貌する。しかし、彼に害意はないようだった。
「何をご所望ですかな、元剣聖殿」
「っ!」
"元"となったのは今日という日の話で、紫鳶からすれば寝耳に水だったろう。彼女は椅子を倒しながら八尺ほど退き、ベルトに鞘の付いている短刀を抜いた。
紫色の七芒星と濤乱刃の和的な優美さを詰め込んだ一振りの刀は老店主を捉えていた。
しかし老店主とソルは動じるでもなく、当然のような顔もちで居る。
「落ち着いて、手順をひとつ間違えれば、裏社会の全てを敵にすることになるよ」
薄明かりに照らされた銀髪がわずかに揺れ、カウンター席に座って待ちぼうけていた彼女のもとに温かい、ダークブラウンの液体が出された。
「して、ご要件は?」
「白鯨の、ここから一ヶ月間の移動経路を教えて」
今日は紫鳶にとって厄日かもしれない。またもや彼女は大きく反応し、さっき飛び退いたばかりなのに、さらに後退するから壁に頭をぶつけて、突然の衝撃と痛みに対して、頭をかかえているという手法をとった。ただ一つ問題なのは、それがまるで意味を成さないということだ。
「白鯨、光彩の災害魔獣ですか」
老店主は、無意識か意識的にか、表情を暗くした。
白鯨。六大災害と呼ばれる、推定特S級、『災害級』の超大型魔獣であり、この世界に産まれてから二〇〇〇年超、未だに討伐されていない悪夢の権化だ。
冒険者ギルドでは冒険者、モンスターともに級というものが定められていて、冒険者はF級から特A級。魔物もF級から特A級なのだが、稀に『厄災』指定される元素龍上位種超えの魔物や魔王がS級、"S+級"、特S級の三段階で分類される。
その中で頂点に君臨する魔獣、通称"六大災害"こと白鯨、極天蜘蛛、烏賊大王、冥神棺桶、黒蛆、空亡は一匹でも魔王五人に匹敵し、それぞれの手法で世界を荒廃させ、脅かす、混沌と虚無に創られた暴食の異端児なのだ。
そして一部例外はあるものの、それぞれの属性魔力に引き寄せられる性質があり、順に光彩属性、風響属性、水氷属性、炎雷属性、陰黒属性、空間属性を得意属性としている。また、地鉱属性を得意とする"第七の六大災害"も存在するとされているが、それは過去に観測された事例がなく、ただの嘯きとして無視されていた。
とにかく、覚醒した異世界人すらも塵芥虫のように殺せる"本物の怪物"が六大災害であり、白鯨はその中でも商人に恐れられる巨獣なのである。故に、万一にも白鯨と遭遇しないため、白鯨の移動経路に対してある程度の法則を認知している彼らに話を聞く。そう、ソルは判断した。
「ここ一月の間、高威力の光魔法による干渉が無ければ白鯨は虚構大陸を通過しますよ」
「ありがとうね、店主エインフリー」
その瞬間、コーヒーカップがソルの両手を巻き添えに凍りつく。老人はみるみる若返り、というより別に人物に取って代わり、青い髪と目の女性の姿になる。
「まさか別の魔王の従者を名乗って、いや、違うかな。劣化分身に悪魔を宿らせて、それに魔王ノエルの従者であると暗示した⋯ってところで合ってる?」
「正解よ。あと、下手に動かないことね。無理やり動けば貴方な綺麗な手が失われるから」
「ふぅん、それは一大事だね」
ソルが適当に警告を了解した後、蒼氷色と瑠璃色の瞳がそれぞれ視界に赤い一点を見いだした。それはコーヒーカップの上で揺らぎ、数秒後に、音を立てず沈火した。
「無駄なことよ。今度はあんな傀儡じゃなくて、本物の八人の魔王達であり、『冬将軍』の二つ名を持つ私だもの。仙人の成り損ない程度に、その氷は溶かせないわ」
「はいはい、ご忠告どうも」
感謝など一ミクロンもこもっていない謝意を両手を拘束している対象に述べた。
「『切断紙』」
彼女の銀色をした、長い後ろ髪が蠢き、彼女自身の手首を切断する。鮮血が噴き出る──それ以前に、髪で腕を斬れるものなのか。
応えは否である。通常、『切断紙』は紙を鉄すらも斬り裂くエクストラスキルであり、髪は密度が低く、魔力伝導率が圧倒的に悪いため大して意味を持たない。
ただ、昔から魔力を込める訓練をしておけば、話は別だ。生まれたての乳児には、魔力回路が一切存在しない。しかし年月とともに外界の魔素に触れ、それを利用するために、また、自らを魔素放射線で滅ぼさぬようにも自然に魔力を貯蔵・排出する器官である"魔力回路"が作られていく。
要するに、それと同じ事をソルは頭髪でも行えた。
頭髪中のメラニンが少ないことによっても魔力抵抗はさらに低くなり、紙と同程度に昇華させられたのだろう。
生まれつきの偶然と緩まぬ練習によって『切断紙』ならぬ『切断髪』によって、腕の切断が可能になったのだ。
彼女は四割秒、自傷によって起こった百匹の蜈蚣が背中を這い上がるような不快感が、雷に灼かれた感覚を伴った来訪に顔を歪めたが、高速での切断によって筋肉が収縮し、出血を抑えていることをゆっくりと確認した。
黒いパーカーの袖はところどころ紅く染まり、のぞく手首の断面は骨と肉と血管とが形そのまま露出している。血管から血がじわじわと溢れ、太い血管からは小さな噴水のように赤い液体が飛び出た。
「あなた、死ぬわよ?」
優しく、しかし冷酷に問いかける魔王に対して仙人のなりそこないの瞳は相変わらず苦痛をはらみ、白い肌からは冷や汗がにじんでいる。
しかし、自信を保持していることを指し示す眼光が、まだ強く光を反射していた。
彼女の口がわずかに動き、何かを嚥下した。直後、通常ならばあり得ない事象が起こった。
その行動を待っていた。と言わんばかりに、両手が急速に再生を始めたのである。ソルがほんのりとした緑の光に覆われ、その光に誘導されるかのように血が止まり、手の骨が植物の育つ様子を早送りにしたような動きで再生。後を追うように肉と血管が絡みつき、それを皮膚と爪が覆う。
身体の主に見放された元両手は取り残されたまま、氷の塊に潰されかけていた。
「さて。用事は済んだろうし、もう出ていいよね?」
席から立ち、表側に出ようとするソルに紫鳶が慌てて付いて行く。
「ええ、もういいわ。あなたの手の一つが知れた訳だしね」
「そう」
ダークオークの扉に手をかけ、ノブは無視して扉を開いた。案の定、金属製のノブには水氷の刻印魔術が施されている。
油断も隙もない。と、蒼氷色の双瞳は閉じられ、呼気が放出された。
そもそも裏側に入ったとき、店主がノブに触れず扉を開けた事自体、異常なのだ。そこから何らかの罠が仕掛けられていると踏んでいたが、やはり、というのが感想だろう。
剣聖となってから約六年間、一日たりとも帝都の壁の外を見ていない。未知に対して、普通ならば好奇心や恐怖などの感情が錯綜するのだろうが、彼女は感情を寝台に置いてきてしまったのだろうか。さして関心を持たなかった。
Ⅱ
エーデル帝国帝都オルゾラーム西区、門寄りに位置する泉の広場から南へ三分ほど歩いた高級住宅街の一角に、アウスコルド商会の帝都拠点はある。
帝国は大陸の東を主に占有しているのだが、他国に"東極の都市"と呼ばれる程度には、帝都も東側に位置していた。
魔王レイシァの領域は、大陸東から北。
大陸の東側に位置する二つの大国。二つの方向からかちあう炎が、互いを呑み込まんとしている姿を彷彿とさせる勢力図となっていた。北門は主に、冒険者や軍隊が出る場所とされている。
東側には広大な農地が広がり、大陸を南北に二分する山脈の辺りでは豊かな鉱山がいくつも発見されている。故に東門は、農作業に従事する者達が特に多く出入りする。
南には暗澹海に繋がるカリブ湾沿岸が著名な観光スポットだったが、暗澹海には六大災害がひとつ『烏賊大王』がよく通り、『暗晦大蛇』に船がさらわれる事件が頻発。さらには頻繁に黒い壊毒が流れ、飛行船が飛ぼうとすれば嵐が起こり、墜ち尽きる…今や荒廃した村落が点在している場所だ。
ガンタルも南海沿岸に属する大都市だが、廃観光都市シーサイドと異なり、冒険者や商人の溢れる商業都市として栄えていた。
アウスコルド商会の移動経路は、まず西門から出て商人路を通り、ガンタルへと十日かけて移動する。到着したら水と馬の飼料の補給をし、三日ほどの休息を行ってから、系二万キロを超える道程を、一月かけて水上都市ワートゥルに移動。ここでソルや紫鳶と別れた後、南回り経路を通りいくつかの魔王領を通過した後、西方諸国連合に移動するという。
「ということは、半年近くかけて大陸を横断するの?」
「ええ、そうよ。最短ルートだから一〇万キロで収まってしまうけれど、本来なら十四万キロはくだらないわ」
世界最大の商会あっぱれだ。
本来ならとは文字通り、普通ならば、それほどの距離を動くことになる、という意味。
そもそも、この世界の陸地の六割を占めているブリタニア大陸は東西に長く、比喩を行使するならば「東京都をとにかく大きくした」ような形状をとっている。それを一匹の背中をそらした珍獣とすると、頭にレイシァの魔王領があり、閉じられた口から首元までが帝国。背骨の大部分にかけて広大な魔境の森が広がっていて、その中腹までの下腹を五人分の魔王領が占め、先に人類国家が広がっている。
並大抵の商人ならば魔王領とネーベル大森林の中間にある山脈を越え、一年近くかけてやっと大陸の反対側に辿り着く。距離が増えるどころか激しい高低差が当然のように移動を妨害し、迷った挙げ句大森林に入ってしまい、魔獣に追われて命からがら魔王領に逃げて行く者も少なくない。特に、若者においては。
その点、アウスコルド商会は魔王領を堂々と通過し、厳しい山越えや冬越しもせず、比較的楽に交易を行える環境を整備しており、それ故に大陸随一の大商会へと上り詰めたのだ。
それを実行するために巡らせられた思案や計算の数々は旅のお供二人の理解力を、余裕の煌めきを見せながら越えている。
「──って、弟が考えてくれたの」
「⋯その虚構にまみれた言葉で一気に場が冷める、ということを考えはしなかったのですか。最近、どんどんと思考能力が下落していっていますよ、姉様」
姉の弟自慢を本人はさらりと躱し、反撃とばかりに鋭い"言葉"ならぬ言刃の一閃を浴びせかけた。
その光景を初めて見た紫鳶は飛び出るのではないかと思うほど目を見開き、立ち会うのが二回目のソルは、諦観の意を以て放置していた。
彼女は紅茶を喉に流し込んで潤すと、白銀色の髪を揺らしながら質問を投げかけた。
「それはそうと、嵐とか魔女に遭遇したときの対処方法とかはあるの?」
前者はともかく、後者は冗談だろう。
神話に度々出てくるのが八人の魔女⋯どうやら、この世界は属性だとか、魔王だとか、とにかく八という数が好きらしい。憤怒、嫉妬、強欲、怠惰、色欲、暴食、傲慢、憂鬱⋯とある神話では、遥か昔には超魔導文明が存在し、これらの先代として『虚飾の魔女』が居たという旨の話があるが、その根拠は一切なく、ただの罪の数合わせとしか言いようがない。どちらにせよ、八人なら八人で、九人なら九人で面倒なことだ。そして、彼女らがまだ五人も生きているのだから、各地の冒険者ギルドや政府は近郊で魔女の出没情報や被害が出た場合、少なくとも一週間は、大量の被害の後処理やでろくに眠ることすらできない。というのは笑い話に過ぎないが、自分がその場に居合わせたとき、理性を保てるかは本人次第のはずだ。
それを、役人ならば愚かにも小便を垂れ、己は勇敢に闘うと言う者のなんと多いことか。勝算あっての勇気か蛮勇か、大半は後者であるというのに。
つまり、「魔女への対処方法はあるか」という質問は、「万が一への対策は万全か」という、顧客が行う確認作業でよく使われる隠語なのだ。
「はい、もちろん。嵐に関しては、火の上位精霊がいるから大丈夫ですよ」
「ヴェルちゃん、あちゃは火じゃなくて火炎の上位精霊よ!」
金髪の少年に、毛先が焔のように赤い、殆ど同じ容姿の少女が反論した。金糸と緑色の宝石を宿した白磁人形のような見た目の割に、辛辣かつ苛烈な暴言を丁寧に浴びせるヴェーヌス。この方は朱金混合した髪色と銀朱色の瞳を持ち、若干火照っているような赤みを白い肌にたたえていたずらっぽい表情をする少女。こちらはチャイナドレスを身に纏っていた。
「あの、そちらは?」
「あちゃはアケチよ、精霊にも名前持ちは中々居ないんだから、あちゃは実質火炎の最上位精霊と言っても過言ではないわ!!」
そう言って、大きく胸を逸らす。しかし残念なことに、銀髪の来客が質問したのは、彼女にではなかった。彼女が指を差した大陸地図には一五本程度のピンが刺されていて、それぞれ天井を向く方向には、コルクで安全なように加工されていた。さらに、それらを繋ぐように赤い糸が巡らされている。
指されたのは、ガンタルの位置を示す二番目のピンとワートゥルを示す五番目のピンを直線で結んだとき、その中点にあたり、三番目のピンと四番目のピンの経路の後半にある大河だ。
「見ての通り、エノルム大河よ。ここにはかなり巨大な中州があるから、そこにかかっている橋を使って対岸へと渡るの」
「確かに、そうすれば迂回せずに馬車が渡れる⋯」
「アケチ。自慢したい気持ちは僕にも分かりませんが、今は大事な会議中ですので」
「はあっ!?そこは『僕にも分かりますが』でしょうが!あと、あちゃを子供扱いするな、何度言えば判る!」
「あと八〇〇年程度経てば判りますよ」
「その時は既に死んでるじゃろうが!」
だらしない姉と元剣聖が互いに、気さくに話しながらもまじめな会話を繰り広げ続け、精霊術師の頼れる弟と頭の螺子が吹っ飛んだボーイッシュな精霊とが漫才を繰り広げ、ドームツアー中のアイドル達が控室で立ち回りを確認しているような様子と、意図的なボケと天然のツッコミで暴風を吹き荒らすコメディ漫画の二気団に挟まれた紫鳶は、低気圧で天に召される、何とも言えない気分だった。
ひとつ確実に言えることがあるとするならば、それは絶対に、働かない幸運への祈りに繋がるものだ。
Ⅲ
何やら長々しかった打ち合わせも終わり、日も暮れ、茜色のカーテンが空にかけられた。街行く人も仕事帰りの影響で増加してきた。
新人は、一週間の働きで起きた筋肉痛、己の未熟さと充実感の双方を体感しながら心地よい疲労感と空腹に誘われて家に帰る。仕事に慣れてきた者は、さらに長い間居る先輩に誘われて呑み屋に寄るも良し、愛する家族のために急ぎ帰るも良し、また、ために貯めた金貨銀貨で指輪を購入するものも居る。それは恐らく、己が恋した女に、真っ直ぐな想いを伝えるために。
街中で万人万様の意思が錯綜すれば、ときには、街の裏に潜む悪事をも揉み消してしまうことすらある。
そして今、アウスコルド商会程度拠点にて、ささやかな悪だくみが練られようとしていた。
「ふふふ⋯準備はいいかしら?ヴェーヌスちゃん」
「良くない、と言っても姉様は勝手に始めるでしょう?」
厨房には金髪の姉弟が立っており、姉は柱に括り付けられ、弟は片手に包丁を軽く握っていた。
彼は棚から複数の野菜、鶏卵等々を次々と取り出し、寒水石──大理石の一種──の台上に置く。
「これでいいんですか、姉様」
「ええ、しっかりとソルちゃんの胃袋を掴みなさい!」
「ゲスな考えが目に見えてます。というより、折角の情報網を、食事の好みの見定めなんかに使って⋯」
あきれ返った。という言葉がおこがましいほどに、姉の後に産まれた少年は冷たい視線を突きつけた。その様子はまるで、神を否定する科学者のようなものであった。
「だって、貴方も何時までも子供のままでは居られないでしょう?ちゃんと、結婚のこととかも考えなくちゃ⋯」
「⋯誰のせいでしょうね」
明らかに、齢一〇になったばかりの弟にする話ではない。世界標準でも成人年齢は一八歳であるため、まだ『成人への道マラソン』の、折り返し地点に差し掛かった程度の年月しか経っていないのだ。
それをどうだ、この姉とやらは一三も下の弟に親から引き継いだ商業を無責任にも任せ、そのくせ料理も掃除もまともに出来ない。弟はその真逆であった。てきぱきと仕事を的確な対処と共に片付け、洗濯物を洗おうとして井戸に落ちた姉を引き上げ、姉が料理をしようとして炭になりかけた食パンを救出し、物置小屋の掃除をしていたのか、そちらの方から轟音が聞こえて駆け付けたところ、埃と木屑と泥にまみれた姉と倒れた古い家具達を見てため息をつく。
まず家具を外に出して埃を落とし、壊れた部分は可能ならば修繕し、腐っていたら炎で焼却処理。骨董品や鏡を磨いて宝石を新しい宝石箱にしまい、一通りの作業を終えた後に「健康的な生活の敵」である姉を風呂に入れさせる。
そして姉が上がるまでに晩御飯を作っておき、上がってきた姉の髪が乾かされていないと熱風乾燥を、そもそもちゃんと洗えていないともう一度風呂に入れさせ、今度は自らの手でしっかりと髪に纏わりついた泥やら皮脂やらを落とす。そしてそのまま勝手に着させると着崩すので、「早く着せろ」と言わんばかりの傲慢な役立たずに寝巻きを着させる。
このとき彼はよく「これ、僕完全に姉様の『お母さん』になってないかな」と考える。当然ながらその発言の根拠は十二分あり、朝は起きられない、夜には夜更かしする、ジュースは飲み過ぎるしお金の管理も杜撰⋯悪い想像ばかりしてそれを振り払い、食事をとった後に歯を磨かせ、ソファで寝落ちしているところを発見すると彼女のベッドまで運ぶ。
三時間毎に赴いてその度に蹴落された布団をかけ直し、それ以外の夜はただひたすら書類作業を熟し続ける⋯⋯
これほど有能な弟を使い潰すのは最早、姉マリアの才覚だろう。愛想は姉の方が良いが、それだけだ。
弟もそれを是としている。それを指摘すると、本人は「僕が居なくなったら誰が姉様の面倒を見るんですか。あなたがするなら、まず一日につき二分の睡眠で完全回復できるようにしてください」と言う。
まったく、上が駄目であればある程下は器用になるのだろうか。
「姉様は大人しく仮眠を取って来てください。明日寝坊したら置いていきますからね」
彼の手にする包丁がひらめき、縄が斬れ落ちた。薄汚い野良犬を追い返すかのようにヴェーヌスが手を動かすと、その姉マリアは渋々自身の寝室へと歩いていく⋯⋯
姉が視界の外側に出たことを確認した弟は、事前に寝かしていた生地のボウルの密封魔法を解除した。
一方、帝国の丨貴丨族丨ど《・》丨も《・》は額を集め、忙しく頭を働かせていた。この日の功労者は誰か、と訊かれれば、それは彼らなのかもしれない。
揃いも揃って腐肉を好み喰らう食屍鬼とほぼ同じ、とソルが評する連中は彼女を銀髪の小娘と忌み嫌う。しかし、表だって行動しようとはしない。
五年ほど前、まだ反抗期であった幼きソル・フェルティーアを目につけた貴族が居た。彼の名はロマン・イェーケン、伯爵家の息子であった。
日本の法律では、あまりふざけた事をすると"法律"によって罰せられるのだが、もちろんこちらで同じルールが通用するはずもない。
長い銀髪を持て余していたソルがそれを使いこなせるようになった頃より少し前、彼は「雪色の天使」と呼んで背後をつけ続け、ついには一人前のストーカーになった。
ある日、ついに欲望を抑えきれなくなったイェーケンが書類作業をしていたフェルティーアの執務室に「無許可」かつ「ノックなし」で侵入。その態度にむっ、としたフェルティーアを床に押し倒そうとして逆に紙飛行機の矢を喰らった。
齢八、九の身で「剣鬼」などと仰々しい名を付けられていた時点でさらりと回避されるのは当たり前。髪の一筋も捉えられず、彼は飛行機の刺さった額から血を流して執務室の床に倒れた。
それでも尚執拗に、血を流しながら脚に抱き着こうとするイェーケンにフェルティーアは嫌悪、もし蹴り飛ばされた先が柔らかい雪の上であったから、植物状態になってもいまだ生の淵にしがみつき続けている、という、一般ならば涙を誘う状態なのだが、原因が原因なので、女性の立ち入りを安全のために禁じられた隔離病棟で愚かな夢を見続けていた。ましてや、一二にもなっていない子供を襲うような痴漢である。誰が同情するというのだろう。
その一件から物理的に熱烈な変態行為をして来る奴は居なくなったのだが、代わりに貴族連中──正確に言うならば、高級貴族の高い地位を狙う息子達は強い権力を持つイェーケンが居なくなった事にこれ幸いと、皇帝補佐であるフェルティーアの借金を捏造し、それを肩代わりするから、と言って様々な恩を売りつけようとする者や、婚約を強要する者が姿を見せた。
「あぁ、それならもう返したので結構です」
行動的には良いのだが、これが問題だった。反ソル派閥はつまるところ、逆恨みを根源に集まった変態事務所。そもそも彼女の性別すら判らないのに外見から女性だと決め込んで、一夜を調教に使ってしまえば従順な奴隷になると思い込む莫迦共、皇帝補佐の権益を貪ろうとした権力の亡者達、あとは皇帝崇拝貴族の過激派で構成されている。
本人が聞いたとしたら「迷惑」の二字熟語で片付けるに違いない。事実迷惑行為ばかりするのだが、犯人らはそれを「正義の執行」だとかで意味のない正当化を行っていた。憶測で物事を言ってはならないが、そうやって「俺が正義だ、銀色の悪魔は靴を舐めてやがれ」などと騒ぎ立てている連中は、恐らく自己陶酔の極地にあるのだろう。
そして遂には「フェルティーア」の姓を持つ帝国臣民の家を燃やし始めた。フェルティーアという姓は、人数的に少なくないものだった。しかし惨状に耐えかねたソルが姓を、世界に存在しない新しい「アルテミス」に変えたところ、あっさりその焼き打ちは鎮静化していった。
だが、フェルティーアという名字の所為で家を失った者達は、同じ被害者であるはずの剣聖を迫害した。お前のせいで俺達の家は焼かれた、お前が身勝手だから私達は不幸になる、真に身勝手なのは過激派と、上の人物への責任転嫁を好む臣民であろうに⋯⋯
そして、「身勝手で莫迦な者達」に朗報が齎された。彼らの伝導性が悪そうな思考回路に電流が走り、衝動に任せ、集会を開催するに至ったのである。
Ⅳ
彼らに伝えられた報告は、「彼女が魔王ノエルの幹部と交戦し、勝利を収めた」という表向きのものではなく、「その後、何者かと遭遇した」というものであった。
一条の性を持っていた、または持っている二人に「こそこそ隠れて会話する」という部類の意思は精神回路になんら関与していなかったが、「わざわざ公表してやる必要もない」と、非常な程の消極的判断をとった。ただ、公表はせずとも、仮でも臣下である以上、ソルも皇帝に事の顛末を報告しなくてはならない。
結果、皇帝の意向により剣聖ソル・アルテミスの引退及び出国を決して華々しく彩ることをしないとした。発想を逆転させれば、「帝国の守護剣が座を退いて国を離れ、どこの国の手先かも識れぬ組織の拠点へと単独で赴き、対話に応じる」との趣旨の公表を受けた臣民は、どのような反応をするか。
裏切られた、と思う者が大半だろう。
ただ、その考えはほぼ事実に等しい。帝国の法律上重鎮の裏切り行為は、一つの例外もなく斬首に処す、と綴られている。
それをすり抜けるのが契約の正体であった。契約上主従関係にあったとしても、その戸籍は帝国領外、暗黒大陸に設定されている。つまり元剣聖は臣民でなく、単なる食客として居た、と言えるだろう。
しかし、それを秘密裏に行うことは出来ても、公開するのは威厳の観点からして不可能であった。そもそも、なぜ「隷属」ではなく契約による「平等」という疑問が生じるのだが、それは六年前の大遠征──歴史家が言うところの『暗黒大陸侵攻』と呼ばれる大規模対魔王領攻撃──を語らなくてはならない。
端的に片付けると「幼女を剣聖にするための帝国の譲歩物語」を知らない者共が、剣聖が「生まれつきの臣民」「帝国の剣と盾とになるために志願した」と思い込み、それを「怪しい人間と親しげに話していた」という行為で違えたから、裏切りとして処刑すべきだ。と、そう嘯かんとしているのだ。
そもそも、普通の目が見れば真面目な対話も、色のついた眼鏡を通せば視界がその色に染まり、歪んだ眼鏡を通せば像も歪んで見えるものである。
「これについて、どう思う」
カーテンで窓から入る斜陽が遮られた、陰湿な空気がべっとりと張り付く空間で、議長らしい人物が声を発した。スーツを着た蛙が、カエル語ではなく人語を話し、蛙から見て右側、手前から三席目の正方形がそれに応じた。
「どうもこうも無いだろう、紛うことなき裏切りだ。その程度のことも分からんのか」
この発言は蛙の眉を潜ませた。もし蛙に眉があれば、の話だが。
半人半蛙のこの男の名はフロッシュ・フォン・トード。子孫が脂蛙の割には先祖代々剣聖の一族で、もともと蛙男の先祖の姓はシュヴェルトだった。だが、彼の祖父にあたる代で娘しか産まれず、その高い剣技を継承が不可となり、廃れた一族として笑い話の種になっている。
彼からすれば、どこの貴族の令嬢でもない村娘──本当にそうなのかは定かではない──が栄光ある──そうかどうかは本人が決めることであるが──剣聖の座を、自分がなれないという理由でナイガシロにしている、と喚いている小心者だ。
「なんだと。伯爵の分際で、分を⋯⋯」
「おやや?おっかぁしぃねぇ〜、このぉ場ではぁ?みぃんなぁたいとぉうなハズゥなんっだけぇどにゃぁ」
曖昧な語調と可愛らしい声とが醜い蛙男を制した。その声の主は砥粉色の髪を揺らし、顔を隠している、薄ら笑みを浮かべた面からは、その表情に似つかない淡紫色の双眼がのぞいていた。
「パ⋯パヤッツ殿、誤解であります!」
「これは、一種の礼儀でして⋯」
帝国の議論では轟々と騒ぎ立てて忍耐能力に訴えかけ、己の議案を、邪魔となる者を排除してまで成立させようとする、栄光の欠片もない門閥貴族どもが脂汗をまき散らしつつ弁明戦を繰り広げた。火炎魔法と水氷魔法によって室温が二三度に調節されたこの空間で、普通は汗をかくはずがないのだが⋯⋯
「もうっちぃろんわぁかっとぉるでぇ〜、みなはんなぁ、おなかぁがよろしぇよぅで」
彼女は人当たりの良い笑顔──顔は見えないが──で応じ、醜い豚や蛙の眷属を、心から軽蔑した。
その豚や蛙は脂ぎった舌を蛞蝓のような気色の悪い動かし方をし、とにかく必死におだての言葉を紡いでいる。目上の相手には手揉みをしてへつらい、その裏で濡れ衣など、見え透いた悪行の餡を練っているのだ。
それをお得意の舌の皮で大福にするのだろう。ただ、彼らにとってのそれなど、他から見るなら存在するか誰一人として知らない『砂の餅』に等しい。恐らく蹴落とすことに快感を覚えた中毒者には甘美なのだろうが、世間一般からすれば砂利の食感とヘドロの味がするゲテモノの烙印を押され、後世の学生達の頭痛の種になるのだ。メイワクな事この上ない。
「そ、それなら良いのです。ええ」
上から目線の言葉に愛想笑いし、その内心で、嫌悪とも悍しさともとれない不快感が神経回路を貫いた。ただ、その中でも「軽蔑されている」と彼女が認識できたのは、これらの蛆蝿共が脂ぎった、悪意の視線を投げつけていたからである。
「それより、どうするかね。物的証拠がないが」
「なに。その程度のこと、気にするまでもないわ。過去三〇〇年間の帝国史にリンチの一〇回や二〇回はある。それが、たったの一回加わるだけだ」
発言したちょび髭の中年男性がどす黒い笑みを散布して、心に悪影響を及ぼすウイルスを室内に充満させた。どうやら低位かつ陰湿な会議をしていたためか、害のあるものが拡散しやすい環境になっていたらしい。
「人員はどれほど集められるか?」
「愛国団の者ならば、二〇〇名ほど」
蛙男は部下の答えを聞くと、薄気味悪い笑みを浮かべる。濁りきった目に策謀がよぎり、勝利を確信したのか高笑いをし始めた。
それが一段落すると、
「よかろう。直ちにそれらを動員し、銀髪の小娘を私のもとに連れてこい!」
と喚く。
「少し待ちなさい」
奇妙に落ち着いた声が、攻撃本能に駆られる蛙を留めた。
「逆賊だろうと、相手は六年前、我ら旧第二騎士団をたったひとりで壊滅させた娘じゃ。無策で挑めば、その時の再来となるだろう。貴殿はそれを望むのか?」
フロッシュ公爵は返答に困った。
机に肘をつき、手を組む初老の男性。薄灰色の長髪が揺れて、醜い公爵蛙を見すえる緑の双眼には今も尚、洗練された鋭気が宿っている。
彼の名はケーニヒス・シュヴァルツ。旧第二騎士団長であり、蒼い太陽と呼ばれていた時代のソルを知る数少ない記憶保持者のひとり。また、歴史上たった一人、彼女を戦闘維持能力の限界まで追い込んだ戦士なのだ。
その発言には、途轍もない重みがあった。
「なら、どうするのだ」
潔く諦めれば良いものを、この男は己の手柄にするため、ひいては趣味である拷問を彼女にし、可憐と認めざるを得ない美顔を涙と絶望に染まらせるために、蛙は問う。
「あの時は消耗戦だった。故に、お互い元気いっぱいの時に闘いたかったのじゃよ。そちらとしても、丁度良かろう?」
何も言い返せなかった。カエル一匹程度を縮こまらせるために、シュヴァルツから発せられる威圧感は十分すぎたのである。
重厚な足取りが去っていった後、次々と靴音が扉方面へと向かっていった。左右両翼で一〇あった席が空となって、坐しているのはカエル男ただひとりとなる。彼は握り拳をつくり、それを机に打ち付けた。歯ぎしりの不快な音が彼の他に誰も居なくなった会議室に吸い込まれて消える。それはまるで、彼自身の愚かさを象徴しているようであった。
「まぁいい⋯銀髪の小娘め、いまに見てろ。お前の苦痛にあえぐ声を、晩食の肴にしてやるからな」
かん高い叫び声で泣きわめき、助けを乞う銀髪の少女の姿が彼の脳内で投影される。その細い身体を鞭打ち、長くて邪魔くさい長髪を切り、恐怖と羞恥と絶望に塗れさせ、従順な隷属者に仕立て上げる妄想をしているのだった。
場所は移り、アウスコルド商会帝都拠点では食事時。姉弟と元剣聖と組織の特殊部隊の末席は、机を共にしていた。樫のテーブルの上には玉子とほうれん草のキッシュ、ブラウチーズ──青カビで発酵させたチーズのこと──、フィッシュアンドチップス、豆のスープ、そしてかご入りの果物がある。
「これは⋯⋯」
ソルは、それらの意味するところを瞬間的に理解した。全て一度は食べたことがある食材、それもそれなりに高評価を出したものを多く使った料理が殆どなのだ。気付かない方が無理という話である。
「ヴェーヌスちゃん⋯私のワインは?」
「今日は、というか、これから一〇日間は飲酒厳禁です、姉様。お酒、好きなくせに弱いんですから⋯」
ふとソルが横を見ると、紫鳶が緊張の透明衣を纏い、両手をわずかに振動させていた。
「⋯大丈夫?」
「は、はい。あの、全て、私の好物でして⋯」
人と会話するのに慣れていないな、とソルは感じた。自分が、ではない。むしろ、社交性にあふれているだろう。
しかし、この紫鳶という茶髪の少女は違った。なにかが原因なのか、本心での対話を恐れているようなのだ。ゆえに、初対面のときも堅い話し方で、今もどこか緊張だか恐慌だかしているのか。と、彼女は憶測と言うより、むしろ、確信めいたものを感じていた。
どうやら、六年間宮殿で貴族の態度から心情を察しつつ暮らしていたのが、主な原因らしい。
「そう。じゃあ一緒だね」
そう言って、微笑んでみせる。蒼氷色の双眼に、同調と好意の光が仮設された。赤い環の内側にある瞳から、虚構のそれが現れている事など一ミクロンも察しえない紫鳶は、それを純粋な好意と受け取った。
「は、はい!」
「タメ口でいいよ。これから、長い旅になるだろうしね」
彼女を絆したその口は、とうに乾ききっていた。
Ⅴ
翌日、各々がそれぞれの時間に起きあがった。
レオンハルトは宿舎のベッドから跳ね起き、布団を畳んだ後に食堂にて朝食を摂る。食後に一杯のコーヒーをあけて戻ると、次は着替えた。黒と銀を基調とした機能的な軍服に強靭な肉体をつつむ。
次の行動に取り掛からんとしたとき、開いた窓から一羽の鳩が飛び込んできた。正確には織鳩という魔獣なのだが、そもそもがどこにでも居る鳩の突然変異体であるために、割と人類にも友好的な存在であった。
「文章鳩か」
織鳩の足に括り付けられた紙片を取ると、運び主は白い翼を広けて晴天の空へと帰っていく。それを見送った後、彼は手に収まっている紙に視線を向けた。
それには、
「至急、紫水晶の間へ参上せよ」
とだけ綴られている。差出人は門閥貴族の中でも著名《・》な蛙頭人ことフロッシュ・フォン・トードであった。
その名前を見ただけで、レオンハルトは背筋が凍る感覚をもよおす。
この男が「至急」という単語を行使するときには大抵ふざけた三文芝居のときだ。と、彼は偏見している。しかしそれは的を射っており、主にソルを非難する根拠もない論説だったり、中には相手が剣聖だと忘れて集団私刑にしようとし、返り討ちに遭ったいた例もある。形式はともかく、ろくでもない会であることは間違いなかった。
「行くしかないだろうな。あのバカどもと同じ空気を吸うのは嫌だが」
そして案の定、彼は辟易も極まった。
「つまり、銀髪の小娘は敵国のスパイだったのだ!!」
蛙男が唾を飛ばしながら小汚く罵る。そもそも、物的証拠もなしに決定しようなど、無謀も甚だしい。皇帝はかなりの合理主義者である上に、彼女を大切にしていた。
宮殿でも特に優秀なメイドを五人ほどつけ──本人が全力で拒否したが──身の回りの世話をさせていたし、逆に他の従者は近づけなかった。他のメイドがいた場合、その可憐さに嫉妬し暴行、ひいては殺害を行う危険があったからである。
また、専用の棟を設計し、そこへは皇帝含め、彼女の認めるもの以外の侵入を許さない、強力な防護結界を張らせた。現状入ることができるのは剣聖、お付きの侍女、そして皇帝とレオンハルトだけだ。
そこには彼女の要望で大量の書物が蔵書され、その対価として外出制限が設けられた。過保護、というべきだろう。皇帝フリーゲルも、やはり人間だ。
つまり外に情報を漏出させるのは実質不可能なのだが、それを知らない輩は元気に吠えている。否、知っているならそれで問題が発生するのだが、ともかく、有り得べからざる今の話をするカエルは剣聖の地位を奪い、彼女の未来を恐怖と闇に染めようとしているだけの変人。問題はそれだけで十分だ。
「あの悪魔を野放しにするな!」
「銀髪の悪魔が情報を魔王に渡したから、戦争が続いてるんだ、早く殺せ!!」
ひとりが叫び、もう一人が。それがいつの間にか、非難のお祭り騒ぎになっている。こうなると、最早ただの狂乱集団の集まりだ。
ため息をつく気力すら喪失した上級大将は呼ばれる時間になったことを体内時計で察し、密かに抜け出し、五年半前に新設された月光の棟へと歩んでいく。
四季蓮城はそもそもが広いうえに、迷路のように入り組んでいるため未だ、全ての道を把握した者は居ない。その中でも、特に複雑な東に位置し、さらにひっそりと佇んでいる月光の棟の前で立ち止まるのはほぼ不可能だ。
何故なら八〇近くある分岐点を間違いなく通過し、青い薔薇の花園に隠れている二重の超大型魔法陣を頼りに、見えない月光の棟を探る必要があるからだ。
外側の魔法陣には「陣に触れている者に内側の陣の中にあるものに触れられるようにする」術式が、内側の魔法陣には「外側から見えなくなり、外側の陣に触れている者、または既に内側の物体に触れている者のみ触れることが可能になる」術式が描かれている。
そして、彼女がよく出入りを許されている時間帯──日没後から暁闇──だけその白亜の洋館が無条件にその姿を見せることから、『月光の棟』という愛称で八人に親しまれてきた。
彼はいくつも分岐している道を正しく進み、青薔薇の園の途中で立ち止まる。まず、少しだけ色が薄いばらの隙間をぬって足を下ろし、次いで一歩前に進む。すると、途中で靴底が何かに接触し、それ以上降りなくなった。
階段のようで、もう一段、さらに一段。手探りならぬあし探りで寒水石の階段を登り、これ以上登らなくなったあたりで、一気に視界が狭まる。白亜の建造物が眼前に現れたのだ。
彼が大扉の前に立つと、それが音ひとつなく開く。
閃緑岩のタイルの上に敷かれた赤いカーペットを渡り、長い廊下を、一定間隔にある窓に沿って歩いた。黒樫の階段を登り、方向感覚を狂わせる罠が敷設されている渡り廊下を「導きの石」──ソル曰く「磁石」──の向きが常に同一になるよう通り抜け、彼女の入り浸る書庫に入った。
木造の螺旋階段を登り、古文書一冊分が空になっている下から六二段目の本棚がある階層で階段を抜け、細い道を渡り、手摺が途切れている場所で、陳列されている緑色の本たちより若干分厚い本の四五六頁を開く。
その本は魔力定理の論文が綴られているものの七二九九巻だが、何故かその頁だけ複雑な魔法陣が刻まれている。
お気づきの方も居るだろうが、この建物に仕込まれている、透過の術、消音の術、錯乱の術、空間拡張の術、そして今彼が開いた頁に存在する元素再編集の術⋯これらは全て、皇帝の発案によって造られた刻印魔術で行われている。
刻印魔術とは、事前に魔法陣などを物体に刻み、それに魔素を持った物体が接触することで発動する魔法の一つだ。刻印魔術の陣を作るにはまず、魔素を芳醇に含んだもので陣を描く必要がある。
つまり、ただの落書きで魔法は発動しないのだ。
次に、陣に保護魔法をかけて刻印の風化を防ぐ。魔素を芳醇に含むということはそれだけ魔素濃度が異なり、結果的に魔素が逃げてしまうからである。
さらに極めて保護魔法は一度張ると、放置しておいても外気の魔素を吸収して展開し続けるため、半永久機関となるのだ。
これらの条件を満たしたとき、刻印魔術は極めて強い効果を発揮する。
そして、複雑な魔法にはより魔素を使用する。そとため、レオンハルトは本の陣に触れた途端、真冬に風邪をこじらせたかのような寒気を感じた。
悪寒に耐えながら反対側を向くと、階段と橋を合体させたようなものが勢いよく生成されている。
腕の長さほどの橋が二メートルになり、一九角柱型の書庫の中央を通過──高さ的には五メートルほど上昇し──して、足場のない本棚群に接触した。
すると今度は本たちが本棚ごとぐにゃり、と歪んだかと思えばそれらは薄れていき、厳重に隠されていた木製の扉が出現する。これと同じ手法で、本棟の私室と執務室はつながれている。
彼は階段を上がり、三回のノックを行う。堅くも優しい音が、室内外に波紋となって広がった。
「失礼します」
執務室に繋がれている扉のノブを捻った。カチャリ、と金属特有の澄んだ音が響く。
金具の擦れあう振動が、書庫に満ちるカビの匂いと分泌されたアドレナリンとを化合させ、それが鼻腔に届いた。
「よく来てくれたね。取り敢えず、紅茶でも飲むかな?」
彼の記憶回路には、例え山積みの書類に囲まれていても、一週間連続で徹夜し、極限の眠気に襲われているその翌日だとしても、それを全く感じさせない人。気さくさで堅苦しい形式を破るような、そんな声が扉を開け放った二・三秒後に⋯⋯
⋯⋯⋯訪れることは、なかった。