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失楽園  作者: 幽世
雲霞篇
2/7

二章 契は終わらぬ


 結論を言ってしまえば、紅玉の間で起きた事件は魔族による急襲だった。緋薔薇の女王(クインオブローゼ)の二つ名を持ち、エーデル帝国に隣接している魔王領エンデを統べる者。魔王レイシァの仕業だと、案外すぐに判明した。

 発覚した原因は、かのヴェッペルマンである。

 魔王と秘密裏に交易、軍人情報の漏洩をしていたらしく、同情の余地無しと速攻斬首したという。


「相変わらず出来物を潰すのが早いね」

「君にそう言われる日が来るとはな。アルテミス」


 表向きに、皇帝と剣聖は主従関係とされている。しかしその実態はというと、主従関係など言語道断な大法螺(おおぼら)。剣聖専用の、計五〇畳のアパート的空間に備えられているバルコニーで片方はワインを、もう一方はグラス入りの葡萄ジュースを飲むほどの仲なのだ。

 表向き主従関係の友人、という言葉が最も近いのだろう。


「酒は飲まないのか?」

「飲まないよ、まだ一六になったばかりだしね。あと四年間はおあずけ」


 皇帝の質問に対し、片手をひらひらと振って断りながら遠い道のりを提示するアルテミスの、九年という年齢差があったとしてもそう言うのならば、の話であるが。

 そもそも厳密に言えば、彼女は帝国政府には仕えていない。利害関係が一致したことにより居候、その引き換えとして"剣聖兼元帥として手伝い"をしているに過ぎないのだから。


「それは勿体ない…なら、二十歳を数えるまで気長に待つとするか」

「日頃前線に立っているわけだし、いつ死んでもおかしくないよ」


 豪胆で世間を通っている皇帝は半秒間、気が動転した。その発言に驚いたのではない──目の前で白鳩と戯れている少女が近いうちに、世界から消える予感がしたのである。

 彼は、自分の勘に絶対的な自信を持っていた。それ故の危惧だったのだろう。

 数羽の白鳩が何を感じ取ったのか、慌てて逃げるように飛び立つ。また、それを異常と感じた彼女も僅かに動揺を払拭しきれない表情を見せ、しかしすぐに、もとの人当たりのよい表情に転じた。


「流石に本気では言ってないだろうな」

「そうだね、何でもない」


 片方の手の中で、中身の入ったグラスのステムを支点に回しながら、鳩のいなくなったバルコニーの手摺に寄りかかり、皇帝の返事を待った。遠心力で紫色の液体をばら撒くはずである液体は中身が底にへばりついているように一切動かず、逆に不気味だ。

 だが、皇帝が真顔に戻って応えると、さも、想定内の回答すぎてつまらない、とでも言うかのような苦さと呆れを混合したような顔をしてグラスを縦に戻し、曖昧な返事を返す。

 それから、内包されている液体の半分ほどを飲み込んだ。


「あんまり自分だけで完結させたら駄目だよ」

「…余は、子供に気遣われるほど老い耄れてないぞ。それに」


 若き皇帝は、より若い剣聖に真面目の物質化とも見て取れる、真紅の眼光を向けながら言葉を継ぐ。


「そうするべきは、卿の方であろう?」


 皇帝の鋭い質問に、ソルは肩をはじけさせた。


「図星だな。さしずめ、例の赤装衣と遭遇したのだろうが」

「……まぁ、そう。明日、リヒュ爺に頼んで旅の用意を手伝って貰おうとしてた」


 意表を突かれたことで不機嫌になった彼女は小さく頬を膨らませ、不貞腐れたような口調で応える。


「リヒュ爺…ハハッ、リヒトのことか。老体に障ることをさせるなよ」

「言われなくても、そんな晩年の人をこき使いはしないよ」

「…バンネンとはなんだ?」


 自分の口から出た言葉に、彼女は自分の発言でありながら疑問に思った。晩年とは、一体何か?無意識間の言動と記憶のパラドックスが生じ、アルテミスの思考回路が疑問符の濁流で洪水を起こす。

 それは結果的にだが、乾いた口を今一度潤した。


「……私にも分からない」

「…そうか。ぜひ、今日中に思い出したら教えてくれ」


 まあ無理だろうがな、と皮肉っぽく付け加えられソルは若干腹を立てた。だが、何故か一瞬、彼の背中がとても小さく見えたからなのか、単に腹の虫が収まったからなのか、将又別の理由があったのか。

 それを彼女は終ぞ理解できなかった。だが、何か二択の片方を選択したかのように、彼女には思われた。


「…うん、心得ておくよ」

「明日は早く出発した方が良い。丁度、早朝にアウスコルド商会の馬車団が帝都を出る。それに乗せてもらえ」


 アウスコルド商会とは、西方諸国の経済を牛耳る大商会の名である。その情報網は、西方で起こったことの大半を、小さいもので言えば喧嘩や空き巣、大きなものだとクーデターまでを、大方正確に観測するものだと、嘯かれるほどに広く、細かい。

 もしアウスコルド商会が彼らと逢着したことを知っているならば、弱みを握られている、と考えるべきだろう。そう彼女も考えた。


「…赤装衣のことならば、心配は要らぬ。余もそのことについて追及を受けたが、「同格以上の相手と剣聖が判断した。加えて、疲弊した状態での戦闘続行は勝ち目のない戦いに赴くのと等しい、それが対話に切り替えた理由だろう」と、かの商会の情報をかき乱した」

「…私は口裏を合わせればいいのね…というより、そこまで読んで行動してるなんて、ちょっと想定外」


 ソルの質問に近い諒解と皮肉に「そうか」と、フリーゲルが応える。

 皇帝がグラスを掲げ、それに気付いた彼女もそれに倣った。


「旅の安全を祈って。プロスト!」

「…プロスト」


 扇情的な言い方である男に対し、銀髪の少女は静かに応えた。これは、これだけは国の風習でもなく、礼儀でもない、二人の性格を反映させた乾杯(プロスト)だった。

 真紅の液体を喉に通し、飲みほされたグラスを高々と掲げる。

 そして、それを地面に叩きつけ、光の微粒子を一瞬ながら数百数千、この世に顕現させた。


「じゃあ、また何時か」

「あぁ、また」


 二人は、短い挨拶を交わした。片方の人物が踵を返し、廊下へと、規則正しい歩調で体を動かす。それは自分の元君主に見せた、最初で最後の礼儀だったのかもしれない。

 皇帝はそれを見送り、風になびく銀色が世界から消え失せると、優美な所作で彼の肺から空気がなくなるのではないかと思う程度、大きく息を吐いた。

 しかし、外に行く者の胸中も、またさらでもその考えは、美麗な容姿や動作のそれとは別にあった。それが永劫なる別れだったとしても、互いに、続きがある、と、言わずにはいられない心情だったのだろう。例え何人を統べる皇帝であろうと、人という脆く弱い生物であることに変わりはないのだ。

 その点において、剣聖も例外ではない。

 大理石の床に赤い絨毯が敷かれ、二〇メートル舞にある小型のクリスタル・シャンデリアは黄金螺旋を描くように美しく、光彩魔水晶の輝きを、均等に反射している。そのような眩い光景の内、彼女の美貌は、物理的な原因は非ずともどこか霞んでいた。

 今彼女は何時も、着替え棚に備え付けられている引き出しの一つに大量に入れられた、武勲を物体で示す、彼女からすれば興味のない勲章のように、背負っている肩書を焼却炉に投げ込むため、自らの身を一番に思ってくれている相手の下へと、足を進めていた。

 しかし責任感なのからかその足取りは確実性を欠き、振る舞いに気をかける余裕すら喪失している。片腕のみを組み、組まなかったもう片方の腕の先にある手の象牙白色(アイボリー・ホワイト)より透き通った白く細い指と手に、霜雪の髪が無造作に垂れ下がる。そのような姿は自身ですら観測したことのない、奇妙な緊張感につつまれていた。

 同程度奇妙なことに、アドレナリンが分泌されることはなく、絶頂へとせり上がっていく不安感に潰れそうになっていた。目的地へ行く扉に辿り着く直前、彼女は深紅の粘体を、閉じられた唇から洩らす。


「──」


 まほろばに濁った蒼氷色(アイス・ブルー)の瞳が映す世界は、現実から足を踏み外して歪み、眼先にある扉が、目的地が先も見えぬほど遠い先にあるかのような錯覚を齎した。

 下手なステップで回った後のように三半規管が反逆の謳歌を合唱し、身体を大型の四足獣が内側から食い破ったような嘔吐感に倒れ込む。横隔膜が麻痺したのか、支離滅裂なリズ厶で咳をしていて、受け身を取れず倒れたため、呼吸すらできない。

 錯乱する意識の中で、誰かがぼやける視界に入りこんでいたことも気付かず、今にもはち切れそうな、感覚の細い糸を必至で守っている。

 何時しか片手分の気力だけでぶら下がっていた崖が崩れ、わずかな記憶の断片とともに無意識の急流を滑り落ちていった。



 眠っていた聴覚が刺激に跳ね起き、正午を知らせる鐘の音を不快に思う。脳が情報の流入を防ぐために回路を遮断した命令を取り消し、感覚神経の機能が回帰した途端に働き始める勤勉な五感とは対極にいるのでは、と思われるほど、彼女は緩慢に重いまぶたを持ち上げた。

 急な光の侵入によって網膜が漂白され、引かれたゴムが弾けるかのように反射的に、中途半端に開かれた目が再び閉じられる。光に数秒遅れ、レールと、それに吊られた物体とが摩擦した金属音が、ソルの耳に到達した。


「はい、もう眩しくないわよ〜」


 優しい声かけで色白を極めた表皮の瞼が開かれ、宝石の輝きを込められている筈の青氷色(アイス・ブルー)の目に映る光は弱々しく、尽きかけの生命で、態々より燃料を使う青い焔で燃やす恒星を彷彿とさせた。

 彼女を不本意な眠りの神(ヒュプノス)の抱擁から突き飛ばしたのは、くすんだ金髪と強気な緑色の目をしている、二十路に届くか否か程度の女性であった。

 白銀の髪で仰向けに横たわっている者をくすんだ金髪の女が眺めており、その顔の蒼白さを見ると合点がいったという風に目を閉じる。


「…その反応を見ると、やはり──」

「姉様。それはいけません」


 真剣な眼差しをした、彼の姉と同じ髪と瞳を色をしている少年が姉の発言を割り入って断ち截る。姉と違い()()のある黄金色の獅子の鬣のような髪が彼の顔ごと左右に揺らめいて、それは伝えるべきではない、とでも言うかのように動きで示した。


「──そうね。ありがとう、ヴェーヌス」


 姉の謝意に弟は午後の日差しのような微笑みで応えて翡翠色(ジェイド・グリーン)の視線を、もとの寒冷かつ熾烈な光を灯した碧色に向け、相手もそれに応じた。


「貴方達はアウスコルド商会の者、で合ってる?」


 アルテミスの視線は姉弟の姉を、直球な質問とともに投げかける。


「ええ、そうよ。私が──」

「姉様は少し落ち着いてください。そんなに大物ぶったって、相手も同格以上の大物なんですから空回りしますよ」


 調子に乗り、自慢気に語ろうとする姉を弟が制し、酷評の矢を幾本も放つ。アルテミスと同じ年頃と見える少年は、どうやら年上の相手をも黙らせる毒舌家であるようだ。


「まずは、軽く自己紹介を。

 僕はアウスコルド商会副会長サブ・フォアジッツェンデ、ヴェーヌス・アウスコルドと申します。

 そして、この姉が…アウスコルド商会会長(フォアジッツェンデ)のマリア・アウスコルドです。

 だらしない姉で、本当に申し訳ありません」


 自身の持つ毒牙に倒れた姉に軽い叱責を浴びせながら紹介し、自らの姉弟を当然のように"だらしない"と、悪態を──姉は弟と違い細かな装飾品が曲がり、服に小さなシワが寄っているため現実なのだろうが──口にした。

 既に白像と化したマリアと、それをさらに追い詰めるヴェーヌスをソルは交互に見て、内心焦りながらも対応する。


「しっかりしていますね」

「姉様がこうなので、必然かと」


 彼女は死した珊瑚へと変貌を遂げた彼の姉を救済しようとした筈だ。だが、良く言えば単刀直入に──悪く言えば歯に衣着せぬ弟の発言によって、断末魔に類する短いうめき声が、自尊心を実弟によって傷付けられたマリアからもれる。


「リヒト様から、既にお話は伺っております。明日の早朝には出発する予定ですので、お支度はなるべくお早めにお願いします。ほら行きますよ、姉様」


 金髪の少年がマリアの背中を優しく押すと、姉の意識は空虚から現実へと帰還した。

 木枯らしの去った寝室に一人残された剣聖は、一刻前は背中にかけてあった宝剣を、部屋の隅から見いだす。


「…終わらせないと」


 離床して宝剣を手に取った剣聖は、その幅広な剣の刃を確認した。

 金色の打紐が巻き上げられたものを模した鞘から抜かれた泡浅葱色の剣身は、カーテンの隙間を縫った斜陽を反射し、赤褐色の細い帯を描出している。

 広い樋には帝国の紋章である双頭の鷲が刻まれており、錆びも、血糊の一つもなく、海を覗いたかのような感覚に生起する刃からは、どれほど丁寧に扱われてきたのかが領得できるだろう。


「待て」


 宝剣を背中にさげて部屋を発とうとした銀髪の少女の前に、初老の男性が立ちはだかる。

 ダークブラウンの頭髪のかしこに白い筋があり、とても勇猛な戦士には感じられない。だが、歴戦の勇士であったことを示す鋭利なヘイゼルの双眼が一尺下にある青玉を見下ろし、大岩のような威圧感を放っていた。


「…なに、リヒュ爺」

「また無理をしたな」


 彼の覗き込んだ蒼い目は、先程からは想像もできないほど生気がほとばしっている。リヒトは近付いて、相手の目にかかるほどの影をつくった。

 そこで、違和感が生じた。通常暗くなることで大きくなるはずの瞳孔が、まったく変化していないのだ。


「能力を解除しなさ──」

「リヒュ爺」


 元宮廷魔術師長の覇気は、より濃密な威圧によって祓われる。その発生源に位置するのは銀色の髪をした少女であり、その目は人ならざる者に近づいていることを示すかのように、瞳の淵が滲んだ朱色をしていた。


「退いて」


 年齢に比さない小柄な身体からは想像を絶する複合エネルギーの余波があふれ、リヒトの老いぼれた肉体を突き飛ばそうとするかのような仮想質量となって衝突する。それと同じほど、柔らかな彼女の言葉の、深海のような深い威圧が鼓膜へ炸裂した。

 ソル・アルテミスという少女は、彼から見て、明らかな天才であった。通常、剣と魔法──その双方共の才に恵まれることはない。彼の教えた魔法は半刻も経たずして会得し、それだけでは留まらず、わずか三年間の間に城の全ての本の行使可能な魔法を習得した、類稀なる力と感性の持ち主だ。

 しかしその才能は、ときにその力の主にも負の効果を与える。

 先日の戦いで、剣聖は勝率の低い戦いに身を投じた。その行動は蛮勇でなく、事実として、主犯とは別の魔王からの差し金を撃退した。しかしその代償か、純粋な蒼氷色(アイス・ブルー)だった目は今や、ルビーが中央に混じっているサファイアに近くなっている。

 それは長い期間の療養で色が段々と抜けていくが、安静にするべき今旅に出れば、激動で両眼は紅に食い尽くされるだろう。その時どのようなことが起こるかは想像もつかないが、魔術師としての誇りが、それを放置することを拒否しているのだ。

 しかし、それが正しいのか?ふと、そんな迷いさえ浮かばざるを得ない。もし、目が赤に染まりきることで次へのステップを踏めるのなら、彼女のためになると、嬉々として成長の妨害をしていることとなる。

 脳回路の内部で未知の情報が流れては消え、また、光っては尽きてを繰り返す。過去には自身の大義と良好な結果が等号で結ばれることがなく、間違いを犯した彼は、一人で自らの愚かめしさを嘆いていた。そして今も、それが間違っていないという確証はない。彼女の瞳の変化は"戦う"という行動のなかで臨時的な限界を超えた際に起こる。あまつさえ彼女が戦場に身を置くことがなくなればすべて解決するのでは、と考えてすらいた。


「しかし、それは怠慢なのか……」


 寝室に残されたリヒトは他に誰もいない空間で一人、落ちかかる自嘲の陰を強めた。



 白い光点となって輝く太陽が放物線を描いて落ち始めたとき、誰が指示した訳でもなく大剣を背負う影がレオンハルトの冬の夕暮れ色の目に映る。

 その白い手には竹水筒が握られていて、彼がその姿を認識してから数秒もしないうちに水筒が投擲された。


「お疲れ様。飲みかけだけど、良ければね」

「あ、助かる……って、嘘だよな!?」

「うん、嘘だよ」


 たった今用意したからね、と近付いてからいたずらっぽく片目を瞑る銀髪の少女は、理想の剣聖像から遠く離れた存在だろう。

 それを継ぐように続けられた、地球という星が存在する世界で、日本人が気に掛けている、彼らの言葉で言うところの初接吻に対する概念(ファースト・キス)を虚仮にするたち(・・)の悪い冗談を真に受け、耳を真っ赤にする年上の後輩を見て微笑みを浮かべている姿は先輩らしくないが、それでも、上級大将から見た彼女には、一切の隙がなかった。


「お手合わせ願えるか」

「…珍しいね、しばらく拗ねるものかと考えていたけど」


 分かりやすく意外、という表情をして伝える。ソルは少しの間、わざとらしくどうするか考えてでもいるかのように淡いオレンジ色の双眼を眺めていた。しかしすぐに見つめていた目をまぶたを閉じることで遮断し、あっさりと了承した。


「ただ、一つ条件がある」

「なんだ?」

「お互いに真剣を使おう」


 この言葉には、さすがの大軍を率いる将軍でもたじろいだ。

 自分よりも遥かに華奢な人間が手袋を投げつけたからではない。彼女は、そういう危険な真似事を好まない性格だった筈なのである。

 まして、相手は腐っても剣聖。唯でさえ格上であるのに、相手が死なぬ様ほどほどに手加減するなど鬼畜の所業、言語道断も甚だしい暴挙だ。


「…それは、どういう風の吹き回しです?」

「どうもこうもないよ。君、木剣だと手加減するでしょ。勝てないのに」

「それは…」

「つまりね。君は足りない覚悟で私に挑んでるって事だよ」


 足りない覚悟は命の危機で補う。そう言われたのは、これが初めてではなかった。



「ちょっ、無理だって!」

「ダメだね、まだ助けない。君はまだ、逃げてばっかで剣を交えてすらしていないし」

「俺は狂戦士(バーサーカー)じゃねぇんだよ!!」


 彼がまだ少尉だった二年前、既に剣聖となっていた彼女はAランク魔物(モンスター)骸骨騎将スケルトンライダージェネラルと剣戟を繰り広げながら話しかけているが、二倍の年齢を重ねている彼は平凡な骸骨(アンデッド)一匹相手に手間取っていた。

 そもそもの原因はというと、剣聖率いる近衛騎士団の仕事であった。しかしそれと同時期、騎士団内で体調不良者が相次いだことにより、剣聖と一部の選抜騎士のみが派遣されたのである。

 むろん、レオンハルト・ラスティカもその選抜騎士の一人であった。


「うるせぇ!俺は褒められて伸びるタイプなんだよ!」

「へぇー、意外と簡単じゃん。そんなに言うんなら、相手譲ってあげるよ」


 突然恐ろしいことを言ったと思えばもうすでに巨大な骸骨と骨の馬が来襲し、その相手を放棄した剣聖は骸骨(アンデッド)の大軍を瞬きする間もなく壊滅させている。

 空中で体制を立て直した巨大骸骨が、彼の首目掛けて大剣を振りかざす。


「要らん世話を焼くんじゃねぇ!!」


 紙一重で剣戟を躱し、続く一閃を自身の刀で受け流しながら叫ぶ。そのまま自暴自棄になって剣を振り回し……



「なんだ、やればできるじゃん」


 気が付けば、格上であるはずの骸骨将軍(スケルトンジェネラル)は地に伏して動かなくなり、それの騎乗していた骸骨騎馬(スケルトンホース)も泥沼に半身を沈めていた。

 あまりにも愕然とした戦果と自身の負傷が一致せず、彼は混乱の只中にある。

 しかし中ではなにかの殻が割れたような音がして、それに続き、ある種の無敵感に抱擁された。


「俺が…やったのか?」

「そうだよ、君がやったんだ」

「……なんで」


 ふいに疑問をこぼした時、破裂音のようなものと同時に頭部に鈍器で叩かれたような痛みが走った。彼は咄嗟に頭を守る動作をしたが、時すでに遅しである。


「なんでもなにも、足りない覚悟は命の危機で補うんだよ。そのとき身体の制限(チェーン)が外れて、何時もの幾倍もの力を発揮できるからね」


 彼は万人が見て立場が逆ではないか、と思われる説教を叩かれた姿勢のまま聞いた。それが終わって、痛みを堪えながら顔を上げた瞬間目にした光景は、網膜と脳裏に灼きついて二度と忘れられないだろう。

 精霊ではないかと勘違いするほど美しい、新雪色の肌が覆う肢体をあどけない姿には似合わぬ流線型の軍服につつんだ、銀色の頭毛を持つ蒼い双眼の白虎の姿を。

 また、沼地という場に合わず、春の日差しのように柔らかく顔を綻ばせて巨大なハリセンを狭い肩に乗せていた蒼い瞳の少女の姿を。



 過去に思いを馳せて激痛とを思い返したレオンハルトは苦笑し、その様子を銀色の髪の剣聖は怪訝そうな顔をする。


「どうしたの、急に。気色悪いよ?」

「気色悪いわけないでしょうが!あのとき死んでいたら、俺は恥晒しだったんですよ!?」

「何が恥なの?」


 剣聖が腱膜を張り上げるレオンハルトの顔を覗き込むと、怒っているというより自嘲の色が濃い目が視界に飛び込んだ。

 それが信じられないのか目を見開く剣聖を置いて、レオンハルトは虚空に向かって叫び続ける。


「考えてもみてください、剣聖がいる中で死んだんですよ?」

「それは私の監督責任にもなるけど…」

「だから、それが厭なんですって!」


 その言葉に、剣聖は閉口する。彼女としても、彼の言いたいことは分からなくもない。そう認識していた。否でも、そのつもりであった可能性は十分あるだろう。

 しかし、彼と彼女にはそれなりに大きな、考えの隔たりがあった。


「もしそうなっていたら、貴方は門閥貴族共に嫌われているんです。どんな手段を使って消されるか、考えはしなかったのですか!?」

「…それは─」


 万が一にもあり得ないから。答えかけたその口は干上がって、次ぐ言葉になる予定で吐かれた空気から出た音は、自分にすら届かない。

 独善的思考で自らのみの地位を守り、他人を蹴落としたがる連中は、たった一つの国だけで余るほどいる。忌み嫌う剣聖が同行した兵士を戦死させたなどという報告を聞けば、彼らは歓喜のあまり無駄に飾られている高価な美術品や宝石類ひとつひとつに熱い口吻を施すだろう。

 皮肉ぽく考えているレオンハルトは、その後どうなるか知っていた。ただその一点に関して、年の功とやらがものを言うのだろうか。彼の目から言ってしまえば、レオンハルトが若き剣聖にはやや手の届かせたくない、悪辣な御伽噺の絵本でもあるだろう。あるいは彼女の視界が宮殿の綺羅びやかな柱に遮られ、そもそも見やることが敵わなかったか…


「他人に関してお節介なのに自分に対しては適当なんですから、もっと自分を大切にしてください!」


 化粧いらずの顔にある薄桃色の唇からひとつ息を吐き、諦めの悪い弟子を見るような目で彼を見た。夕焼け色の双眼は重く堅い決意を孕んで、昔何処かで読んでいたのかもしれない王道を極めた絵本に出てくる赤毛の"英雄"の姿と重なった。


「…なんていったかな」

「何の話ですか。それより──」

「分かってる。これ以降は気を付けるから」


 言い寄る彼に皮肉っぽく同意して引かせ、ふと、思い出したか、はたまた思いついた固有名詞を口に出そうとする。しかし何を思ったか開いた口を再び閉じ、左腕を虚空に突き出す。



 口角がわずかに上がった所作と同調するように、少し後方左の空間に紫色の罅が現れた。

 罅は刹那で拡大し、割れた空間は硝子の破片と化して光の粒子に還元される。 

 大人の頭が入る程度の空間が裂けた、と例えるべき小規模な次元の(ひずみ)より顕現した一振りの剣、その柄が彼女の伸ばした手に収まった。

 彼女が白い手で掴む行動と連携して罅は風に乗った灰のように崩れ去り、歪の内側にあったことによって見えなかった刃が何事もなかったかのように姿をのぞかせる。

 その刀は小柄な彼女が扱えるよう短けれども美しく、彼女の肌のような透明さと水晶の儚さとを伴う金剛石のような刃、基本的な形ながらも最高級の飴細工を思わせる菊桜の模様が施された黒曜石の鍔を持っていた。

 右手には金で装飾された黒曜石の鞘が握られており、刃を除けば黒一貫、としか言いようのない独特の雰囲気を放っている。


「それは…」

「始めるよ、準備はいい?」


 半ば口癖のように伝え、彼女は回答を得ぬまま姿を消す。

 …正確に言えば、刹那の寸分の一の間で背後に回り込み、透明な刃を彼の首へ滑らせていた。


 百戦錬磨である彼が攻撃を宣告されてから戦闘態勢に入る前のごく短時間に一撃を入れるのはほぼ不可能だ。

 大抵の相手ならば、それを知った瞬間敗北を悟るだろう。

 それを感じない残りは力もないのに最強を謳う世紀の自己陶酔主義者か、相応以上の実力がある者のみである。

 そしてもちろん、彼女は後者に位置していた。

 しかし本来頸を刎ねる手筈であった刃は、直前で別に刃によって止められる。

 音速の壁を易々と越えた刀に対抗したのは彼の短剣で、首に赤い筋ができているものの、致命傷にはなり得ていない。彼は咄嗟に起こった防御動作に混乱しているが、攻撃者は目を一瞬見開いた後わずかに細くするなど、忙しなく変化させていた。


「少し意外。正面からの方が戦いやすい」


 彼の振った剣は残像すら捉えられず、瞬間移動と勘違いする速さを持つ()()()()()が回避行動となり、剣聖の姿は半秒前いた場所に戻っている。

 更に機動性と装飾性の二つを兼ね備えた銀と黒の軍服はいつ着替えたのか、初雪の肌と透明に近い銀髪、透明な刀の刃が映える純黒のロングパーカーに移ろっていた。


「それは」

「──鈍い」


 瞬きをして開いた彼の視界は、ぼんやりと青く光る瞳で染まった。

 恐らく攻撃と同時にその言葉を発したのだろう。だが、超音速の一閃を受けたことで自らもその壁を越え、その鈴の音のような美しい高音で吐き捨てられた罵声が耳に届いたのは柱を、兵舎すらも紙切れのように突き破って、面積にして二平方キロメートルの敷地を持つ四季蓮城(ホーラー・サンスーシ)の外壁、距離にして四〇〇メートルほど障害物に当たりながら空中浮遊、九〇メートル間地面との摩擦と豪華な体験をして壁に大罅を造り、やっと止まった後である。


「全身の骨折、武器の破損、衝撃の緩和忘れ。これくらいは防げたよ」


 剣聖がレオンハルトのところへ行って見た光景は無残なもので、明らかに間違った場所で間違った方向に曲がっている手足や鉄の破片になった剣、左腰から右肩にかけて軍服が裂けてそこからは青紫色になった屈強であるはずの身体が除いている。

 彼は酷たらしい事態に抗議するよう発狂していた。しかし上位回復薬(ハイポーション)によって折れた骨や量産された内出血はひとまず高らかに激痛の鎮魂歌を唄う口を閉じた。


「無理に決まってるじゃないですか…それよりなんですか、あれ。速過ぎにも程がありますよ……」


 先程の行為とは対照的に、火事の山の中に生えている木の実を全て取ってこい、とでも言うような指摘をする剣聖に愚痴を洩らして、レオンハルトは頬をつねられた。元来の力が弱いため、その行為自体に大した殺傷能力は無い。

 だが、単純な"痛み"の観点から話をすれば極めて有効な攻撃となる。それを示すように、レオンハルトは激痛とは言えない痛みに四苦八苦していた。


「あぁ、さっきの。最短距離で斬り込んだ」


 それは置いておいて、と言葉を継ぐ彼女の説明の稚拙さに大いに呆れるのは生理現象として当然だ。彼女は嘘も間違いも言ってはいないのだが、言葉が足らないのか別の意味で捉えられることが屡々ある。

 曰く「再確認としての説明では十分だが、初見では理解できない」

 曰く「話すことの内容は難しくないが、常にそれまでの話を一語一句覚えていることが話の前提」

 曰く「技術で説明しきれない時は合っていることのみを短絡的に伝える」

 そんな情報を言語化して伝達する能力において絶無の才能を見せる彼女は戦闘するときを除いて人当たりのよい笑みを浮かべていたが、今は唯一の条件が否であるにも拘らず、中央が紅く染まった碧眼に笑顔の欠片も無かった。


「君はまだまだ伸び代があるからね」


 彼女は、刀を空間の罅から生まれた異次元『格納空間』に戻してから言った。

 本人は自覚していない残酷な仕打ちの連続に廃人となりかかっていたレオンハルトも急遽理性を取り戻し、未だ衝撃によって麻痺している体のうち上半身を何とか起こす。


「何れは、帝国随一の剣士になるかもよ?」

「いえ、俺には無理な話ですよ」


 諦観の笑みなのか、乾いた笑い声が彼女の鼓膜を揺さぶった。彼は未だ、その発言の真意を理解していないのだろう。


「そうだ」


 あ、と何かを思い出したように、その場を離れようとした彼女が振り返る。


「明日の正午、執務室に来て」


 理由を伴わない端的な請願に、彼は快く応じた。その理由(わけ)がネモフィラの芳香に惹かれたものなのか、別の意思が関与していたのか、その点では定かといかない。

 上級大将は、昨年の同時期彼女が口ずさんでいた文字列を、不意に記憶の本棚から取り出した。

 夏は夜、とは、よく言ったものだ。と、奇妙な感嘆の念を抱いて、夜闇を纏い、数万金貨を費やされて造られた大理石張りの床を歩く、人の形をした太陽を眺めやった。

 ……それが尽くを灼き尽くす劫火の蒼星だとしても、遠目から見る者には、鮮烈な印象を残す雄大な恒星に映るのだろう。

 彼女が来たときには持っていたはずの、聖剣を在り処を知るのは翌日、太陽が南へ進みきった後の話である。そして、また、彼女の告げた予言が目の前に差し掛かっていることも、その刹那に理解するだろうか。

 その将来(さき)を案ずる術を視認できる訳もなく、彼は、西へ落ち向き始める陽光を直に受けた。



 街を、次なる目的地に向けて歩んでいたソルの白い瞳孔は、肩ほどのライトブラウンを帯びた髪を靡かせる、銃士の女性を捉えた。そしてどうやら、そちらも存在に気付いたようである。

 見た目は完全に人と同化していたが、その身に纏う大量の魔素(エネルギー)の主成分が、陰性魔素であることで、人と上位魔人との区別がつく。

 しかし、ソルは即時に敵ではないと判断した。あくまで今のところは、だが。

 スバルから渡された文の袋には、手紙の他に、黒地に白い七芒星の刺繍が施されたワッペンが入れられていた。

 あくまで彼女の推測であるが、それは仲間であることの象徴(しるし)の働きをする。先日も、彼(彼女?)はダークレッドの外套の、左胸あたりにそれが金の糸で刺繍されていて、眼の前の者も、拳銃の持ち手に七芒星が刻まれている。

 さすがに半瞬間は、どこでもいる街娘の格好をしていたことから正体を掴めなかったが、それが何よりの証明であるというのは、あながち間違っていないのかもしれない。


「スイセイ様でしょうか?」


 ゆったりと、しかし、音一つ立てずに接近した女性に、ソルは不審ながらも、無言で頷く。


「色欲直属部隊、『茈喰集(アバレグイ)』末席の紫鳶(シエン)と申します。この度は不肖ながら、スイセイ様の護衛を務めさせて頂きます」


 つまり彼女は、上の下である。ソルは言動から、自然に読み取った。隊長より、成り立ちについて説明するよう言われておりますので。と紫鳶と名乗る女性は軽い説明を付け、教科書を音読しているかの無機質さで話し始めた。

 ソルは猛禽的な視線が伴っている茶褐色の眼を注視しつつ、彼女の話に耳を傾けた。

 主な内容はこうだ。彼女らの本拠地はネーベル大森林、その最奥の、蜃が支配し、蜃気楼に包まれた領域にある。そして、基地を置こうとした組織の頂点『罪神の塔(バベル・シン)』。うち一人がこの世に三柱のみ存在している竜種の『水霧竜(すいむりゅう)』蜃と対談し、結果として、異世界人の文化に興味を抱いていた水霧竜に別の一人が描いた漫画を見せたところ、あっさり居住を許可された。そして森の一角での霧が晴れ、秘密都市が建造されたという。

 いまいち、ソルには行動の動機が掴めなかったが、大雑把な顛末は、理解の領地に入っていた。


「なるほど、大体のことはわかった」


 でも、と、ソルは言葉を継ぐ。


「この地図ではガンタル、ワートゥル、エンブリア、エルサレムと道のりを往くって書いてあるけど、ワートゥルはエンブリアの反対方向だし、ガンタルからも数万キロ離れてる。相応しいとは到底思えない」

「その点につきましては、問題ございません。ワートゥルには既に相談済みであり、エンブリア行きの転送魔法陣を用意していただけるよう手配済みです」


 想定外の手際の良さに、ソルは感嘆で閉じていた気管から口へ息が通った。しかし、どうしても行動の尽くを先読みされているかのような厭味な感覚が脊髄をエレベーターで上下し、吐き気とも頭痛とも違う、奇怪な魔物が呼び寄せられた。


「ところで、どちらへ行く予定だったのですか?」

「買い物に。流石に、五年間も宮殿の中に居たから資源を調達しないと」

「それならば、誠に勝手ながら既に用意させていただきました」

「一か月分の食物と飲料水、毛布、短刀、仮設テント、その他一〇五品をご用意いたしました。下着や衣服は用意しておりませんので、どうかご容赦ください」

「充分だよ、ありがとう」


 そんなに必要なものあったか、などという無粋なことを考えつつ、手渡されたボストンバッグを受け取る。それには微弱な魔力反応があり、どうやらバッグ内の空間を拡張する刻印魔術を使用しているようだ。

 そう考えてから紫鳶と名乗る女性を見た。どうも、礼儀正しさとお転婆さを感受させる街娘の格好は相性がとことん悪く、見れば見るほどその者の感覚を狂わせる力を持ったようだ。


「さて、早いところ、アウスコルド商会の帝都本部に行こうかな。ヴェーヌス君は怒らせると怖そうだし」

「…承知いたしました」


 妙に確信めいた声を聞いて、ソルは若干の不可思議を受けたが、数マクロ程度口角の上がった彼女の顔を見るなり微笑み返した。


「いかがなさいましたか?」

「ううん、なんでもないよ。早く行こっか」

「はい」


 一方その頃、緋薔薇の女王(クインオブローゼ)の別名を持つ魔王、レイシァの居城では、幹部による会議が舞を踊っていた。


「レイシァ様よォ。あの人間、限度ってモンを越えてやがるぜェ」


 そう吠えるように主観を伝達した男は、半魚人の、ポアソンという名を持った最上位種である。

 全身が青、という印象を持たせるのは間違いないが、彼らは携帯機器で検索をかけて出るものとは大きく異なり、非常に人間に近い姿形をしていた。三叉の鉾を背中にかけている彼は特に、上位魔人の中でも圧倒的な強さを誇っていた。


「口を慎むべきですわ、ポアソン」


 食べ盛りの少年を諌めたのは、いわゆる"絶世の美女"だった。妖艶の限りを尽くした、と評せば良いだろうか。緑色の絹糸が頭髪として、存在し、八頭身を嘲弄するかの如く、その頭身数は、キリスト教で不吉な数字に達している。


「テメェには関係ないだろうがよォ、アルルーナ!」

「お黙りなさい。貴方の粗雑な態度が、結果的にレイシァ様の威光を損なうと知ると良いかしら」


 ああ言えばこう言う。まさにそれが再現された空間に、場違いに賑やかな音と声が響いた。


「ども〜、ウチが来ぃやったで〜」


 会議室の音扉から何事もないように入ってきた道化のような格好をした石怪鳥(コカトリス)獣人族(ライカンスロープ)の少女は、自身の胴体ほどの直径を誇るカラフルなボールに乗りつつ両腕をY字に掲げ、()()()、と気味の悪い笑みを浮かべた。二秒間の間に起きた出来事であった。


「聞いてくれよパヤッソ、アルルーナが俺を莫迦にしやがるんだぜ!?」

「ふぇー…にゃら、うんけぇおねじぇミスしてんかぃ?ポアはん」


 恐らく「へぇー…なら、何回同じミスしたんだい?」と言ったのだろうが、呂律が回らない、というより独特な口調で話されているため内容が非常に伝わりにくい。

 だが、アルルーナにはその意味が伝わったようである。


「これで一五六回目よ」

「それぁ、ポアはんがわりぃて」


 アッサリ見限られたポアソンは低く舌打ちした。高い実力を自負している彼は、どうやら弁舌でアルルーナには対応できても、ふざけた道化には敵わないようであった。ただ、推測のできる限りその原因はパヤッツの聞き取りづらい話し方にあり、彼が思考放棄をしたのではないか、という説が濃厚ではないか。そう軍の中でも議論されるのだが、依然として事実は闇の中である。


「まぁいいよ。ノエルの側近に計画を邪魔されたことは癪だけど。でもあたしとしては、あの()を帝国から引き剥がせたのみで、取り敢えずは充分」


 豪胆に言ってのけたのは、金細工の施された巨大な椅子に腰掛け、高く膝を組む魔王だった。桃色の長髪をサイドテールにし、みずみずしい人型の体にゴシックドレスを纏っている。

 丸い金色の目、白い肌と桃色の唇。一見すれば、人形のように愛くるしい女の子に見えたかもしれない。だが、目の下にある大きい()()と鋭い歯と、一対の牙が異様に引き上げられた口角によって三日月状に露わになっているその姿とが、非常に暗い雰囲気を与えていた。

 それが玉座らしきものにちょこん、と座っているのである。大量の妖気(オーラ)を撒き散らしながら。


「せやねぇ〜。ポアはんもぉ、女子(おなご)ぉお過ぎんつぅておそぅたらぁ、あかぁんでぇ?」

「何言ってるかァ、まるで分かんねぇよ!」

「つまりパヤッツは『そうだね。ポアソンも、女子が多すぎるからって襲ったりしたらいけないよ』だって。ダ〜メ、だよ?」

「誰がテメェらなんぞ襲うかよォ」


 一度燃え始めた炎は中々消えない。パヤッツが撒いた火種がポアソンでくすぶる、レイシァが余計な一言という乾燥した木の枝を添えてその火に投げ込み、さらにポアソンがあまりにあきれた声で返す、それが原因なのか何なのか知らないが腹のたったアルルーナが彼の頭を力のかぎり殴る。そして、自分から殴りつけておいて自らが痛がった彼女は逆上して乱闘が勃発する……

 レイシァ魔王軍でこの一部始終を体験していた者は、後にこう語った。


「いや〜、もうあれは地獄ですよ。蔦に刺し殺されかけるや、溺れ死にかけるや、本当によく、あんな喧嘩し続けて帝国と渡り合えてたな、と思います」


 …結局、大乱戦は朝方まで続き、レイシァ達は元剣聖及びアウスコルド商会の面子をみすみす見逃してしまうわけである。彼らは一団を発見し、命令を求めたのに聞こえてきたのが男女の怒号と戦闘音だったのだから、どうしようもない、というのは一理あるだろう。

 しかし結果的に、ソル達が今後、遭遇する脅威のひと機会が減ったのであった。

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