第六十八話 雪崩
「止まりなさい。ここは通行止めよ」
巨大な幽亀の前にセツナが立ち塞がった。
足元は水に浸かり、一帯が水場と化している。踏めば膝まで浸かってしまいそうなほどの水量だが、セツナは足元を凍らせて水面に立っている。
草原であったはずのエンマルクに、突如として現れた広大な湿地帯。この大量の水は、幽亀が下山と共に連れてきた雪が溶けてできたものである。
なんと幽亀は身体を橇にして、霊峰の斜面を高速で滑り下りてきたのだ。
そのままアルンに突っ込みそうな勢いであったが、セツナが氷の壁を展開して間一髪で幽亀の侵攻を堰き止めていた。
甲長十五メートルはあろう禍々しい亀の霊獣。氷で覆われている甲羅は氷山のように屹立しており、霊峰そのものと対峙しているような錯覚に陥ってしまう。
そんな巨体の驀進を止めたのは、セツナの両腕に顕現した氷の盾である。
特級魔術《冰甲盾》――幽亀を象徴する凍て付いた甲羅が、まるで籠手のようにセツナの前腕に巻き付いている。肘から手の甲にかけて氷の甲羅で覆い、如何なる攻撃をも寄せ付けない鉄壁の防御術だ。受ける技の威力や属性を完全に無効化する性質があり、敵方のレベルを問わず全ての攻撃に対して有効に機能する。
霊峰イスカルドの頂上で、エイタから嫌な言及をされていたことをセツナは思い出していた。自身を象徴する『亀』の要素についての質問を受け、セツナは取り乱して話を逸らせることに終始してしまっていた。
実を言うとあの時、まだセツナはこの異能について何も知らなかったのだ。
フウカ、ライハ、ホムラが前身の身体的特徴を一部継承する姿で戦う様子を見て、セツナにはある懸念が頭を過っていた。それは、セツナも同様に前身の特性を活かした身体の変化が現れるであろうということだ。
その妖怪変化が、とある異能の発動に起因するであろうという予測を立てた時から、セツナはその技に関する一切を封印していた。自身の前身が亀の姿であったことから、異能を発動させることで見窄らしい姿になってしまうのではないかと心の底から不安になっていたのだ。もし身体の一部が爬虫類を思わせる亀の甲羅に変化しようものなら、個人的に仲間と肩を並べることは憚られていたことだろう。
だが宝石の守護を目的に霊峰へと舞い戻り、都合よく独りになれたことでセツナはこっそりと当該魔術の発動を試みていた。そうして特級魔術《冰甲盾》の洗練された姿と、使い勝手の良さに気が付いたのである。氷に覆われた幽亀の甲羅は不格好とは程遠く、どう見ても『亀』という生物には結び付かない。
「ふうっ……」
セツナは幽亀の突進を止めるために翳していた腕を下ろし、氷の盾を解除した。
《冰甲盾》は特級魔術であるが故に、使用中はその場を動くことができない。更には特級の級位に相応しい量の体力を垂れ流してしまうため、要所では絶大な効果を発揮するが多用は禁物である。
これまで積み重ねてきた豊富な戦闘経験によって、セツナはこの危うい特性を瞬時に理解して上手く戦術に取り入れたのだった。
幽亀はセツナを敵性対象として認識し、すぐさま襲い掛かってきた。甲羅を覆う氷を鋭利な刃に変形させ、セツナに向かって勢いよく撒き散らせる。
セツナは幽亀の技を焦ることなく躱し、氷刃を飛ばして応戦する。
幽亀はそれを易々と撃ち落とし、同様の技をセツナに打ち返した。
それからしばらく技の応酬が続いたが、互いに攻撃を当てることができない。お見通しだと言わんばかりに、繰り出した技と同様の技で返されてしまう。
《霊化》で近付いて無防備な相手を刺すという、これまで猛威を振るってきたセツナの奇襲はどうやら通用しないようだ。幽亀も同様に異能《予知》をその身に宿しており、こちらの行動を全て先読みされていることが見て取れる。
当然ながら相手の行動を《予知》できることはセツナも同様であり、両者に同じく付与された異能《予知》が互いの攻撃を読み取っている。
《予知》を頼りに技の相殺を続け、《霊化》により致命傷を避け合った。このままではジリジリと体力を削られていき、戦況は一向に好転しないことだろう。
セツナの猛攻を歯牙にも掛けず、幽亀は着実に歩みを続けている。セツナの氷魔術では、巨大な幽亀の進撃を遅らせることができない。
「――――!」
セツナの《予知》が恐ろしい未来を視た。これから繰り出される幽亀の攻撃を。
突如として風の靡くエンマルクの緑叢が、まるで時が止まったように静止した。
徐々に視界が白くなり、地表に溜まっている湿地帯の水が凍り付いていく。
更には猛烈な突風が押し寄せ、類をみない豪雪が吹き荒れた。
四天獣にのみ許された――禁忌ともいえる天候操作の理力。
幽亀は霊峰のみならず、エンマルクの天候をも支配したのだ。
「ううっ!!」
著しく気温が下がり、耐性があるセツナでさえも凍えそうな寒さを感じていた。白皙の肌が凍て付き、冷えた空気に肺が焼かれ、呼吸することも儘ならない。
荒れ狂う吹雪が容赦なく体温を奪い、体内の水分が急激に冷やされていることが感じ取れる。体験したことのない苦しみが身体を駆け巡り、このまま動かなければ命が持たないことは明白であった。
セツナは《霊化》により、なんとかその場を凌いだ。しかし《霊化》を発動しても痛みが消えるわけではなく、セツナは胸を押さえて膝を突いてしまった。
途絶えそうになる意識を、繋ぎ止めておくことがやっとだった。




