第六十話 追憶
――なんだか寒い。ここはどこだろうか。辺りが真っ暗で何も見えない。
そうだ、夜がきたのだ。わたしは与えられた役割を全うしなければならない。きっと今日もまた、あの人がわたしの宿屋に泊まりに来てくれるのだから――。
わたしの名前はアイ。アルンの外れにある旅寓アイアイの店主をしている。
一人の男性を部屋に案内して、わたしはほっと一息ついていた。今日の仕事はこれで終わり。泊まりに来る宿泊客は、いつも決まって一人であるからだ。
日没が近付くとお客様が来店するので、宿泊料を受け取って部屋の番号を伝える。朝になると、部屋から出てきた宿泊客に挨拶をする――。
このように、わたしは毎日同じ作業を繰り返している。受付台から動いたことは一度もなく、判で押したように酷く味気ない日々を送っていた。
旅寓アイアイ唯一のお客様は、毎日泊まりに来てくれる常連の男性だ。彼しか泊まりに来ないので、この世界には彼しかいないのではないかと錯覚してしまう。
彼はわたしに色々なことを話してくれた。わたしは彼の冒険譚を聞くことが好きで、彼が泊まりに来ることが日々の楽しみとなっていた。
彼が泊まりに来なければ、わたしの人生は退屈で仕方がなかったことだろう。
しかし――大好きだった彼の名前を、わたしはどうしても思い出せない。
彼はいつも濃緑色の袴を着て、腰には太刀を携えている。年齢はわたしよりも少し歳上だろうか、整った顔立ちだが目付きは悪く、笑顔はあまり見せない。
よく話をしてくれるが声が小さく、更には早口で聞き取り辛いこともある。
でも話している内に声量が増し、時折見せる笑顔が可愛らしいのだ。
なんと彼は――異世界から来たらしい。
◇
小鳥の囀りが耳に届き始める頃、闇夜が晴れてまた朝が始まる。
わたしは朝が好きだ。朝になれば彼に会えるから。彼は起き掛けなのに活気に満ちており、わたしに向かっていつも大きな声で挨拶をしてくれる。
しかし、宿泊しているはずの彼が部屋から出て来ない。しばらく待ったが、彼は一向に姿を現さない。早く会いたいのに、彼はまだ夢の中なのだろうか。
彼の顔を拝まなければ、わたしの一日は始まらない。わたしはこの一瞬のために、受付台の前で一晩を無為に過ごしてきたのだから。




