第四十五話 親睦
僕がフィヨルディアに降り立ってから既に八年の月日が経過しているが、霊峰イスカルドの奥地に挑戦した回数は片手で足りるほどである。あまりに厳しい豪雪と寒波に僕は耐えることができず、早々に踏破を断念したからだ。霊峰イスカルドの威容は魔境と呼ぶに相応しく、立っていられないほどの猛吹雪が吹き荒れ、積雪により見えないクレバスがそこら中で牙を隠していた。少しでも足を踏み外せば死に繋がってしまうため、命が幾つあっても足りないと思えるほど厳しい環境だった。
しかし、セツナに帯同している今は光景がまるで違っていた。バグのような地形は相変わらずだが、空は眩しく晴れ渡り、一向に雪が降る気配がない。
銀の迷彩は暴かれ、地表の裂け目をはっきりと視認できる。雪渓の処女雪を踏むと、山肌が見えるほどに積雪が少なかった。
魔獣を見掛けることはあったが、セツナを見るなりそそくさと姿を消した。
霊峰イスカルドの長たるセツナの威光が生きているため、この時点で宝玉の無事は確定している。後はセツナが魔獣に対して宝玉を護らせる指示を出すだけだ。
「どうしてあの時……山頂で私を殺さなかったの?」
山頂へ向けて歩いていると、唐突にセツナが話し掛けてきた。
「俺はフィヨルディアの住人に手を掛けるつもりはない。聞いての通り、俺は異世界人だからな」
「エイタは私を人間扱いしてくれるのね。設定上は魔獣であり、AIなのよ? それとも神凪の言うように、この可憐な美貌に誑かされたのかしら?」
セツナは服の襟を捲り、胸元を見せつけて艶然と微笑んだ。
不意に挑発的なことを言ってくるので、返答に困ってしまう。
「ち、違う! ……いや、違わないかもしれない。君を見ていると、どう考えても魔獣だとは思えないんだ。それに、こうして心を通わせられるんだからさ」
「ふぅん……じゃあ、私を狩人から助けたのはどうして?」
「セツナが倒れたのは俺が原因だ。放っておけるわけがないだろう。それに、たまたま現れた者にとどめを刺されるのは不本意だ」
「あの時は本当に助かったわ。エイタ、ありがとう」
「助けられたのは俺のほうだ。セツナがアジールまで来てくれなければ全滅していた。アイもフウカもライハも、もうこの世にはいられなかっただろう」
「私は義理堅いの。これからも頼ってくれていいのよ」
セツナには毒気が抜けて、以前に戦った時とは表情も声音も異なっている。
嬉しいことに、僕を仲間として認めてくれたようだ。
「ありがとう。……そうだ、君の力について教えてくれないか? 君は山頂で戦った時に、『制限』だと言って倒れた。あれは強力な異能による反動か?」
「……見抜いていたのね。ゲームばっかりやっているだけのことはあるわ」
セツナは悔しそうに口唇を噛んだ後、自慢するように異能の説明を始めた。
「私は二つの異能を持っているの。《予知》、それから、《霊化》よ」
「《霊化》……それが実体を消失させる力の正体か」
「そうよ。私は身体を《霊化》させ、存在を消すことができるの。見ることも、触れることも、感じ取ることも不可能よ」
「《予知》によって致死の攻撃を察知して、《霊化》で回避……か。最強だな。攻撃の時に実体化する必要があるのは間違いないか?」
「慧眼ね。よく分析している。暗殺は得意よ。でも私は異能を継続して使うと、身体が動かなくなるの。意識を失うこともあるわ。あなたと戦った時のようにね」
あの時に山頂でセツナが倒れたのは、異能の過剰使用が原因であった。
これから共に戦うに当たって、異能の副作用を気に掛ける必要がある。
「毎日セツナが深夜に意識を失うのも、その異能が原因か……なるほど、合点がいったよ。強大な能力だけに反動は大きいようだな」
「それは……ええと……」
セツナは口籠り、恥ずかしそうに両手で頬を覆っている。
「それはただ……寝ていただけよ。夜更かしは苦手なの……」
「え……? そうか……何かごめん……」
昨日の夜を思い返すと、セツナは真っ先にグースカと鼾を掻いていた。夜に眠りに就く特性は強力な異能による反動ではなく、ただの睡眠過多だったようだ。
この可愛らしい性質は、戦闘時の鬼気迫る表情からは想像ができなかった。
◇
霊峰イスカルドの奥地を越え、僕達は山頂へと辿り着いた。
石造りの決闘場は至るところが欠けており、戦闘で負った傷痕がありのままの状態で残っている。直すことが面倒で放置しているのだと考えられるが、それが逆にフィヨルディアのリアルさを助長しているようにも感じられる。
僕は、ここでセツナと死闘を繰り広げたことを思い出していた。
自然と息が詰まり、ぐっと痛む胸を手で擦った。ゲーム上の仮初めの姿であり、鼓動のないはずの身体が動揺している。それほどまでにセツナとの戦いは厳しく、紙一重の一戦であった。もう絶対に味わいたくない。仲間を危機に曝したくない。
昨日のことではあるが、ずっと昔のことのようにも思えてくる。セツナを打倒してから現在に至るまで、筆舌に尽くし難い激動の日々だったのだ。
「……どうしたの? 何か気になることでもあるの?」
昨日の事変を回想していたことで、僕はしばらく惚けてしまっていたようだ。
気が付くと、セツナが僕の顔を覗き込んでいる。
「い、いや、何でもないよ」
「私はあなたの剣となり盾となる。私で力になれることがあったら何でも言ってね。助けてくれた恩は返すつもりよ」
「あ、ありがとうございます……」
「……どうして敬語なの? エイタって時々可笑しくなるわね」
昨日までは畏怖の対象であったセツナだが、今では優しく気に掛けてくれるようになった。その屈託のない笑顔に裏はなさそうだが、殺されかけたことを身体が覚えている。だが現在は仲間なのだ。徐々にでも慣れていくしかない。
気を取り直してかつての戦場を見渡すと、舞台の中央で握り拳ほどの球体を見付けた。地面に突起がなく、宝玉は完全に地中に埋まっている。目を凝らさないと見付かるはずもなく、元々存在していたのかさえ疑問だ。もし事前に用意されていた物であるならば、四天獣が裏切る可能性を予測されていたこととなる。
こうして宝玉の確認に来ていることでさえ、神凪の掌で踊らされている気分だ。
ガラス玉のようだが、素材は定かではない。その身に携える水色の光彩は重厚かつ厳然。仄かに輝く姿からは、妖しい魔力を感じさせられる。
「これが……霊峰イスカルドの宝玉か。こんなところに埋め込まれていたなんて知らなかったよ。地面に埋まっていて持ち運べそうにはないな。これを護るためにずっとここにいるわけにもいかないし、どうしたものか……」
「何を言っているの? ここでじっとしているのが、四天獣の本来あるべき姿よ」
「それもそうだな。人間の姿だから魔獣の王だということを忘れそうになるよ」
「ふふ、あの子達のせいで私もどうかしてしまったようね。山を下りましょう。私の異能があれば、アルンの中にも入れるわ。冒険者ギルドの様子を見ておいたほうがいいでしょう」
「仕方ない。宝玉は一旦置いておくか。破壊されないことを祈って――」
「――私を見縊らないことね」
セツナは錫杖を宝玉に突き立てた。特級魔術《氷封陣》――セツナの溢れんばかりの魔力により、山頂の舞台は瞬く間に氷の結界に包まれた。
「とりあえず、これで大丈夫でしょう。封印術は得意じゃないけれど、街の人に解かれるレベルではないわ」
不得手だと謙遜をしているが、これほどの規模の結界を張れるのは四天獣の他にいないだろう。プレイヤーが氷魔術スキルを極めても、こうはならない。
「封印術まで使えるのか……。神凪なら解きかねないが、とりあえず、これが今できる最大の防衛策だな」
「魔獣にも見張らせておくわ。うちの子は結構強いのよ」
雪が保護色となって気が付かなかったが、周囲には夥しい数の熊型魔獣が集まっていた。よく知らない種だが、風体を見たところ上級魔獣だろう。
魔獣を統率するセツナの恐ろしさを感じつつ、味方であることに安堵した。
「そういえば、セツナってあのデカい亀型魔獣の生まれ変わりなんだよな? 『亀』の要素ってどこにあるんだ? あいつらは猫耳やら翼やらが身体から生えてくるわけだが……。セツナにはそれらしい特徴が見当たらないよな」
「し、知らないわよ、そんなこと。これ以上はセクハラで訴えるわよ」
「……ごめんなさい。もう言いません」
僕が投げ掛けた何気ない疑問は一蹴され、セツナからは変態を見るような視線が向けられている。僕の言葉の何が気に入らなかったのかはわからないが、その拒絶反応には普通ではない嫌悪の情が感じられる。これ以上踏み込むべきではない。
「さぁ、下らないことを言っていないで下山しましょう」
「ああ、行こう!」
セツナの魔術で作った氷の橇に乗り、僕達は彗星のように山の斜面を滑り下りた。雪面を進む橇は急激に加速し、瞬く間に麓を越えてアルンが見えてきた。




