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夢幻の灯火  作者: 辻 信二朗
【第一巻】

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序章 丹花の簪

 山深い(れい)(ほう)の奥地で、エイタは大きな崖に行く手を阻まれた。

 大地が断裂されたように、眼前には底の見えない奈落が口を開けている。対岸の崖まで目測で十メートルはあり、飛び越えることは不可能だ。


 霊峰の(おく)(ふところ)に広がる(けん)()な樹海には、整備された山道など存在しない。こうした障害に進路を阻まれる度に、エイタは迂回して異なる道を探していた。


 しかし、試行錯誤を繰り返した末に辿り着いたこの場所は、更に深奥へと進むための最後の希望だったのだ。


「ここまでか……」


 エイタは手詰まりになり、崖の前で佇立ちょりつしていた。諦めて引き返すか、一か八かで崖下に降りてみるか、取るべき選択肢を思い悩んでいる。


 ふと崖下を覗き込むと、絶壁に咲く小さな花と目が合った。朱色の花弁は殺風景なそわに似合わず、赤々と異彩を放っている。

 大きな危険を伴うが、無理をすれば花に手が届きそうだ。


 そう思い立ったエイタは、切り立った断崖の先端に手を掛ける。

 片手で身体を支えつつ、恐る恐るもう一方の手を花に向かって差し出した。


「もう少し……」


 そうしてなんとか、花の採取に成功した。

 根を離れた()(けい)は途端にボンッ――と小気味良い音と共に煙に包まれ、一枚の札に姿を変えた。確認すると、札には《エルスカーの花》と書かれている。


「エルスカー……? 変わった名前の花だ。アイへ贈ろう。喜んでくれるかな」


 花の採取を終えたエイタは、手に入れた札を懐に収めた。

 それから地上に目を向け、身軽な動きで崖を上がろうとした時だった――。


「え……?」


 手を掛けていた崖が抵抗を失い、ガラガラと不穏な音を立てて崩れ始めた。

 支えを失ったエイタの身体は、崖下へと真っ逆さまに落ちていく。


「あぁ……今日も儚い命だった……」


 こうなれば手立てはない。エイタは死を受け入れて目を閉じた。


    ◇


 ――数瞬の暗闇の後、エイタはゆっくりと(まぶた)を開いた。

 やはりというべきか、あの崖の高さでは助からなかったようだ。


 視界に映るのは、天井にぶら下がる小さなシャンデリア。中二階に色鮮やかなステンドグラスが彩られた、礼拝堂の裏手にある診療所の一室である。


 ベッドで布団に包まったまま、エイタは探索の反省を頭の中で巡らせていた。

 あの崖を突破するのに、何か良い方法はないものか。


「…………」


「…………ん?」


 視線を感じて振り返ると、教会の神父がじっとこちらを凝視していた。

 このようにして横になっている経緯を知らない神父にとって、エイタは突如として現れた不法侵入者だ。動かない表情からは推し量ることができないが、こうして立ち止まられた以上は驚きと不快感を持たれていることだろう。


 神父による無言の圧力に耐え切れず、エイタはそそくさと教会を飛び出した。




 外では眩しい日差しが燦々(さんさん)と照り付けている。


 寝るにはまだ早い時間だが、エイタはいつも投宿している宿屋へと足を運んだ。

 敷居を跨ぐと、店主の少女が受付台の前で呆然ぼうぜんと立っているのが目に入る。


「いらっしゃいませ。お泊りですか。一泊三十リオです」


 少女はいつもと同じ台詞を無感情に述べた。


「まだ時間があるから、霊峰の探索を続けるよ。夜になったら、また来る!」


 エイタは構うことなく、いつものように笑顔で少女に声を掛ける。


「…………」


 少女からの応答はない。表情にも変化はなく、虚ろな瞳には情緒を感じない。


 少女の挙措きょそを気に掛けることなく、エイタは懐から一枚の札を取り出した。

 すると札は光り輝き、《エルスカーの花》が具現化する。

 その朱色の花をかんざしとして、少女の結われた髪束に挿した。


「よく似合っているよ。気に入らなかったら外してくれて構わない」

「…………」

「では行ってくる。アイ、また後で」

「…………」


 エイタは再び懐をまさぐり、続いて複雑な術式が描かれた札を取り出した。

 その札を天に(かざ)すと、札の消失と共に緑色の魔法陣が足元に現れる。そうして魔法陣から発せられる光に照らされ、立ち上る風と共にエイタは姿を消した。


「…………」


 残された少女はエイタが消えた跡をじっと見詰めている。

 鼓動の音一つ聞こえない――シンと静まり返った建屋の中で、表情を変えることなく一点に視線が注がれている。


「…………」


 少しして、少女は髪に挿された花の簪にそっと手を添えた。

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