表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

その温もりの対価は、

 弓道で大切なのは、まず平心を保つことだ。


 落ち着いて、呼吸を整え、正しい構えから矢を手放す。正確に、誠実に。的を射るには、的を射るための道筋を辿らなければならない。即ち、条理。


 この1年、井上先輩には弓道の心を教わった。彼の教えは部活の範疇(はんちゅう)にとどまらず、私の生活すべてにしっかりと根付き、息衝いている。学校の勉強、アルバイトでの接客、新しくできた後輩たちとの結びつき。そして、それからーー。先輩の弓道が、今や私の真心となっている。


 葉桜の緑が目に痛く、すっきり晴れ渡った静かな朝に包まれて。私は深く息を吸い、蹲踞(そんきょ)の姿勢からゆっくりと立ち上がった。


 狙うべきは皆中(かいちゅう)……いや、邪念は捨て去らねばならない。


 再び集中しようとしたところで、ひとつの足音が耳を打った。厳かで、でも私にとっては優しい音だ。ふっと窓から曙光が差し、指先に血のめぐりを強く感じる。


「おはようございます。早いですね、井上先輩」


「おはよう。この頃は新入生の面倒ばかり見てきたから、たまには君の練習にも付き合わないと。上級生である僕にはその義務があるはずだ」


「でも、まだこの時間は冷えますよ」


「大丈夫。僕には強い味方がいる」


 そう言うと、道着の真っ白な懐から使い捨てカイロを取りだした。先輩にしては珍しいと私は思った。彼はあまり買い物をしない人だから。誰かに貰ったのだろうか。……誰に?


 何も言えず(いぶか)っていると、不意打ちのように井上先輩の声が耳元でして、それは私の中で何度も反響するのだった。


「安井ですね」


 安井は私の後輩で、当たり前のことだけど、井上先輩の後輩でもある。礼儀正しく器量のよい女の子だ。彼女と挨拶を交わすといつも、ああ、(はかま)姿が美しいな、と見惚れてしまう。


「安井はお嬢様なんだ」先輩が得意そうに言う。「温かいものならなんでも追究せずにはいられない、暖房器具メーカーの社長令嬢なんだ」


「使い捨てのカイロだけじゃなくて?」


「うん、使い捨てばかりが彼女じゃないよ」


 まるで安井本人の長所を挙げていくように、指を折りはじめる。


「充電式カイロはもちろん、オイルヒーター、セラミックヒーター、エアコン」


「湯たんぽも?」


「そう、湯たんぽも」


 たまらず胸が締め付けられる。私の呼吸は乱れ、すっかり冷えきっていた。


「彼女は蝶なんだ。暖かな春の日和を花から花へと飛び渡る蝶。彼女はどの花の蜜が甘いかよく知っている」


「でも、彼女が求める甘い蜜は先輩だけじゃないでしょ」


「親という蜜。それさえ彼女の魅力だよ。彼女は親という甘い蜜を吸う。だから彼女は甘い味がするんだ。そうそう、親から床暖房完備の部屋を与えられたそうだよ」


「床暖房完備!」


 先輩が耳元で囁く。彼の甘い声には抗えない。たちまち私はとろめいてしまう。


「親吸いですね」


 私の心は揺れていた。


「でも、今日君に紹介したいものは別にある。この着る毛布を君に……いや、ぜひ皆さんに」


「湯たんぽは?」


「湯たんぽも!」


 皆中。そして私は衝動のままに手を伸ばす。そういえばスマホはロッカーにある。そうだ、我が校の弓道場には固定電話があるじゃないか。


 私は叫びたかった。急げ、回線が混んでしまうぞ。衝動に抗えず急ぐ足があまりに惨めだった。


 着る毛布に湯たんぽが付く。お値段なんとーー!!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ