その温もりの対価は、
弓道で大切なのは、まず平心を保つことだ。
落ち着いて、呼吸を整え、正しい構えから矢を手放す。正確に、誠実に。的を射るには、的を射るための道筋を辿らなければならない。即ち、条理。
この1年、井上先輩には弓道の心を教わった。彼の教えは部活の範疇にとどまらず、私の生活すべてにしっかりと根付き、息衝いている。学校の勉強、アルバイトでの接客、新しくできた後輩たちとの結びつき。そして、それからーー。先輩の弓道が、今や私の真心となっている。
葉桜の緑が目に痛く、すっきり晴れ渡った静かな朝に包まれて。私は深く息を吸い、蹲踞の姿勢からゆっくりと立ち上がった。
狙うべきは皆中……いや、邪念は捨て去らねばならない。
再び集中しようとしたところで、ひとつの足音が耳を打った。厳かで、でも私にとっては優しい音だ。ふっと窓から曙光が差し、指先に血のめぐりを強く感じる。
「おはようございます。早いですね、井上先輩」
「おはよう。この頃は新入生の面倒ばかり見てきたから、たまには君の練習にも付き合わないと。上級生である僕にはその義務があるはずだ」
「でも、まだこの時間は冷えますよ」
「大丈夫。僕には強い味方がいる」
そう言うと、道着の真っ白な懐から使い捨てカイロを取りだした。先輩にしては珍しいと私は思った。彼はあまり買い物をしない人だから。誰かに貰ったのだろうか。……誰に?
何も言えず訝っていると、不意打ちのように井上先輩の声が耳元でして、それは私の中で何度も反響するのだった。
「安井ですね」
安井は私の後輩で、当たり前のことだけど、井上先輩の後輩でもある。礼儀正しく器量のよい女の子だ。彼女と挨拶を交わすといつも、ああ、袴姿が美しいな、と見惚れてしまう。
「安井はお嬢様なんだ」先輩が得意そうに言う。「温かいものならなんでも追究せずにはいられない、暖房器具メーカーの社長令嬢なんだ」
「使い捨てのカイロだけじゃなくて?」
「うん、使い捨てばかりが彼女じゃないよ」
まるで安井本人の長所を挙げていくように、指を折りはじめる。
「充電式カイロはもちろん、オイルヒーター、セラミックヒーター、エアコン」
「湯たんぽも?」
「そう、湯たんぽも」
たまらず胸が締め付けられる。私の呼吸は乱れ、すっかり冷えきっていた。
「彼女は蝶なんだ。暖かな春の日和を花から花へと飛び渡る蝶。彼女はどの花の蜜が甘いかよく知っている」
「でも、彼女が求める甘い蜜は先輩だけじゃないでしょ」
「親という蜜。それさえ彼女の魅力だよ。彼女は親という甘い蜜を吸う。だから彼女は甘い味がするんだ。そうそう、親から床暖房完備の部屋を与えられたそうだよ」
「床暖房完備!」
先輩が耳元で囁く。彼の甘い声には抗えない。たちまち私はとろめいてしまう。
「親吸いですね」
私の心は揺れていた。
「でも、今日君に紹介したいものは別にある。この着る毛布を君に……いや、ぜひ皆さんに」
「湯たんぽは?」
「湯たんぽも!」
皆中。そして私は衝動のままに手を伸ばす。そういえばスマホはロッカーにある。そうだ、我が校の弓道場には固定電話があるじゃないか。
私は叫びたかった。急げ、回線が混んでしまうぞ。衝動に抗えず急ぐ足があまりに惨めだった。
着る毛布に湯たんぽが付く。お値段なんとーー!!