インド人を空に!
この宇宙旅客機Z号は、順調にx-123星の軌道に乗り、目的地である地球へと進んでいた。
総勢1500人を乗せたこの船での生活は、地球の富裕層や金星のブルジョワ達にも納得のいく快適なものだった。
A子は物憂げに窓の外を見た。
宇宙空間での暗い目覚めにはもう慣れ、代わり映えのない星々に「おはよう」と挨拶できた。
時計を見ると起床の時間より少し早い。
枕元に座ったクマのぬいぐるみにも挨拶を済ませると、彼女は昨晩飲み残したコーヒーを胃に流し込み、食堂へと向かった。
部屋を出ると、ふと違和感を覚えた。
寝ぼけた頭にもはっきりとわかる、明らかな違和感だ。
BGMがどこかおかしいのだ。
この船では時間によって船内のBGMが異なる。
いつものこの時間なら落ち着いたジャズが流れているはずだった。
音楽にほとんど興味のないA子にしてみれば、微かに流れるその曲はジャズと言えなくもなかった。
それでも普段の朝とはどこか違う。
A子は首を捻りながらも、それ以上考えることはしなかった。
彼女は金星の生まれだった。
60年ほど前に祖父が早い段階で移住し、金星の豊かな資源を一世代でものにしたのだった。
その時流れていた曲も、おそらく地球の、それも古い曲なのだろう。
A子は地球へ行ったことがなかった。
宇宙の美しさを知らない、貧しい人々が住んでいるという印象しかなかった。
食堂までの廊下では、誰一人と出会うことがなかった。
思えば、起床時間の前に廊下に出たのは初めてだ。
A子はなんとも言えない特別感に浸りながら、無機質な廊下に響く自分の足音に耳を澄ませた。
食堂は昼間に比べて心なしか広く、明るく感じられた。
もちろんそこにいる人もまばらで、厨房では未だ準備をしている気配があった。
A子は軽く食堂内を見渡し、見知った顔を探したが、すぐに諦めてカウンターへと向かった。
「おはようございます。何にしましょう?」
若い娘がそう聞いた。
「コーヒーとフレンチトースト」
「かしこまりました」
そう言ったまま、その娘はA子の顔を凝視して動きを止めた。
毎度のことだが、いつもこの瞬間は不安になる。
注文は通っているのだろうが、なにか世間話でもしたほうがいいのだろうか。
「今朝のBGMはなんだったの? いつもこの時間に起きないから」
娘は表情をピクリとも変えず、しばらくの沈黙の後「申し訳ありません、お答えできません。船員にお繋ぎしますか?」と言った。
慣れないことをした、とA子は後悔した。
「いいわ。コーヒーはミルクだけ入れて」
「かしこまりました」
A子は席に着くと、なんとなく時計を見た。
いつもならまだ眠っている時間である。
なぜ今朝は早起きしたのだろうか。
昨晩を思い出しても、特に変わったことはなかった。
時計の横にある巨大な掲示板に目を移す。
そこには細々とした数字とともに、デフォルメされた宇宙船と星々が絶え間なく様々な角度から映し出されていた。
明日には目的地の地球に着く予定だ。
今回の旅の目的は、彼女の故郷、正確には彼女の祖父の故郷であるインドに行くことだった。
と言っても、観光のためでも感傷に浸るためでもなく、ビジネスによるものだ。
それでも、初めての地球に心を踊らさずにはいられなかった。
彼女にとって地球は、人類の生まれた星という以上に、大好きな祖父の生まれ育った星という意味合いが強かった。
祖父はA子が15歳の頃に亡くなっていたが、彼の宇宙のように広い心と背中は昨日のことのように覚えていた。
彼の敬愛したガンジス川を一目みよう、と密かに決めていたのだ。
A子は食事を済ませると、コーヒーを持って自室へと戻った。
BGMはすでに聴き慣れたジャズに戻っていた。
彼女はベッドに横になり、祖父から貰ったクマのぬいぐるみを抱き寄せた。
明日には地球に到着する。
聞く話によれば、インドは暑い場所のようだ。
空調による無機質な室温に慣れていたA子は、輝く太陽とうだるような湿気を待ち望んでいた。
「楽しみだね」
A子はぬいぐるみにそう言った。
普段の彼女を知るものには想像もできないことだが、このぬいぐるみを彼女は唯一の友達と認めていた。
ぬいぐるみが優しく語りかけてくる。
「ガンジス川は汚いって聞くよ」
「意地悪なこと言わないで。おじいちゃんは素敵な場所だって言ってたわ」
「おじいちゃんが生まれ育った場所なんだから、素敵なところに決まってるよ」
「そうね。本当に楽しみ」
二人は窓の外を見た。
そこには母なる星、地球が目の前を塞ぐように大きく輝いていた。
「綺麗ね」
A子は小さく呟いた。
「口下手な宇宙飛行士はこれを見て『青かった』としか言えなかったらしいわ。でも気持ちはわかる。まさに言葉にならない美しさよ」
彼女はコーヒーを一口啜った。
「この景色にはシャンパンが欲しいところね」
ぬいぐるみにそう微笑みかけた時、コーヒーの紙コップになにか文字が書かれているのを見つけた。
そこには、マジックペンで「内線3016番」と小さく書かれていた。
A子は目を疑った。
料理人がメモ代わりに使ったのだろうか?
いやそんなはずはない。
元々印刷されたものか?
それでもよく見れば見るほど、整った字ではあるが、確かに人の手によって書かれたものに見えた。
彼女は備え付けられた電話機を手に取った。
「かける気なの?」
ぬいぐるみが不安そうに聞いた。
「ええ。何かの間違いかもしれないけど……この景色を誰かと共有したいじゃない」
内線はすぐに繋がった。
相手は静かな声で「もしもし」と言った。
女性の声だったが、感情は読み取れなかった。
「もしもし? 今朝いただいたコーヒーのカップにこの番号が書かれていたのだけれど」
電話の向こうの相手はしばらく何も言わなかったが、心を決めたように力強く言った。
「はい。私が書いたものです」
A子はこの声にどこか聞き覚えがあった。
いつ聞いたのだろうか。
数年前の気もするし、ついさっきの気もする。
記憶を遡ると、ふと一人の人物に思い当たった。
「もしかして、今朝コーヒーをくれた……?」
「はい、そうです」
思えば、番号を書くことができたのは厨房にいた者だけだ。
それでも、この答えは彼女には想像もできないことだった。
「でも、どうして? あなたって……」
「はい、ロボットです」
すぐに返事が聞こえた。
その声は普段とは違う、人間らしい声色だった。
声の主は続けた。
「貴方は今朝、BGMについて尋ねられましたね」
「ええ、それほど答えを期待していたわけじゃないのだけれど、もしかして調べてくれたの?」
「いいえ」
喉に何か詰まっているような、苦しそうな声だった。
本当にロボットなのか疑いたくなるほど人間じみた反応だった。
「私が貴方の部屋にだけ流しました」
感情の堰が切られたように、彼女は語り始めた。
「あの曲は貴方の故郷であるインドの楽器、シタールが使われたものです。貴方の気を引くために無断で流しました。A子さん、貴方が好きなんです。地球に着く前に、どうしても言いたかった」
A子は自分の耳を疑った。
ただでさえ異常な状況で、想像もしていない台詞だった。
ロボットから告白されたのだ。
どうして? なぜ感情があるの? なぜ私を? 考えてもわかるはずがなかった。
A子が黙っていると、ロボットは静かに言った。
「無断でBGMを変えたことはすでに気づかれているでしょう。すぐに私は処分されます。ロボットである私が感情を持ってしまったこと自体が罪なのです。貴方に想いを伝えることができて私は満足です。ただ機械が故障しただけだと思って、どうかこのまま電話をお切りください」
A子は確かにその震える声から恐怖と悲しみを読み取った。
もう彼女には人間としか思えなかった。
彼女は優しく言った。
「私の一番の友達はぬいぐるみよ」
電話の向こうで息を呑む気配を感じた。
「窓の外が見える? 地球がとっても綺麗なの。丁度誰かと話したかったところなのよ」
船は音もなく、正確に地球へと向かっていた。
窓の外の暗黒には星々が輝き、地球は青かった。