師匠と弟子
最後の最後までお待たせして申し訳ありませんでした。
最終回です。
「ただいま」
「おかえりなさーい!」
「おっ、と」
玄関を開けるなり飛びついてきたハーシュを抱きとめる。彼女は嬉しそうに私の胸元に顔を埋め、すりすりと……すりすり、すりすり、すりすり……。
「……おい、いつまでやってる」
「やわらかい……いい匂いがする……」
「はい終了」
「やーん」
無理やり胸から引っ剥がすと、ハーシュの顔はだらしなくでれでれと蕩けていた。
「あ、ご飯できてますよー」
「……この流れで素直にありがとうと言いたくない私がいるんだが」
「そんな師匠も好きですよ」
「なんでもいいのかお前は」
「師匠なら全部好きです」
そこだけ真剣な目をするな。照れる。
あれから私とハーシュは毎日どちらかの家に揃って帰り、同じベッドで眠る生活をしている。学院の改革も始まって何かと忙しい私の方が帰りが遅くなりがちで、大抵はこうしてハーシュが出迎えてくれる。
ハーシュの後について我が家のリビングへ入ると、彼女の言葉どおり既に料理がテーブルに並んでいた。ハーシュの料理は旅の最中に覚えたというものがほとんどで、大雑把だが美味い。それにずっと王都に暮らしている私と違ってあちこちで色んな食材や料理を見てきているだけあり、見慣れない料理がテーブルに並ぶことも多い。
「どーですか、学院の方は。大変じゃないです? いつでもお手伝いしますよ」
向かい合って食事をとりながら、ハーシュに世間話を振られる。
「ありがたい話だが遠慮しておくよ。私が始めたことだし、学長も私を信用して任せてくれた。それに実際、仕事量はともかく、中身はそれほど苦労するようなものじゃない」
仕事量が多いから時間がかかっているだけで、既にあるものから無駄を省き簡略化するというのは魔術回路を編むのとよく似た作業だ。つまり、私の性に合っている。
体力的には少し厳しいが、精神的にはまったくキツさを感じていない。……まぁ、それについては家に帰ればこうして恋人が迎えてくれるというのも大きな理由だが。
「……ありがとな、ハーシュ」
「? どういたしましてー」
何のことか分かっていない顔でえへへと笑う彼女が可愛くて、思わずこちらの頬も緩む。
…………いま、か? いや、待て食事中だ。いやそもそも家でいいのか? こういう当たり前の場所ではなく、もっと特別な時と場を、いやしかし私にそんなものを用意させたところで何か不手際があったらどうすれば――。
「師匠?」
「お、おお、なんだ、どうした?」
「調子悪いですか? あんまり食べてないですけど」
「いや、すまない。少し考え事をな」
「お仕事ですか? 子どもたちのことを大事にするのもいいですけど、ちゃんとあたしのことも考えてくださいね」
「……お前のことしか考えられなくて困ってるんだ」
「なんです?」
「いや、なんでもない」
今はやめておこう。うん、食事を中断させるのはよくないしな。
雑念を振り払って食事に集中する。ハーシュはそんな私の言動に「何か」を感じ取ったようだが、しばらく不思議そうに私を見ただけですぐに食事に戻った。
……だから、彼女はそれほど気にしていない、と思ったのだが。
* * *
「師匠」
「なん、だ」
食事の片付けも終えて、書斎に引っ込んで少し仕事を片付けようとした私にハーシュが乗っかってきた。いや、その、文字通りである。
私が仕事をするために書斎に引っ込もうとするとハーシュがついてくるのはいつものことだ。だから気にしていなかったのだが、今日に限って彼女は私が椅子に腰を下ろすなりその上に向かい合う形で座ってきた。
「なに、考えてたんですか」
「何のことだ」
「ご飯の時、上の空でしたよね?」
「そんなことは」
「浮気ですか」
「そんな訳あるか!」
性質の悪い冗談はよせ、と思わず声を荒げる。しかしハーシュは怯むことなくじっとこちらを見つめてきた。
「……浮気は、あんまり疑ってないですけど」
「少しは疑ってるのか。心配しなくても、私が好きなのはお前だけだ」
「でも」
「私に、お前以上に大切な人間がいると思われるのは心外だな」
安心させるつもりでそう言ったのだが、ハーシュはむしろ泣きそうに顔を歪めた。
「ハーシュ?」
「……じゃないですか」
「なんだって?」
「わからないじゃないですか! 師匠は、あたしを好きでも、それでもあたしを遠ざけようとしたのに、それなのに好きってだけじゃ、わからないじゃないですか!」
「――――」
……そうか。気持ちが通じ合って、想いを伝えあって、身体を重ねて、私達は互いに信じ合い、結ばれたと思っていた。私にとっては疑う余地なく、私とハーシュはあの日からずっと恋人で、これからもずっと恋人だった。
でも、ハーシュにとっては違った。
気持ちが通じたというのは彼女にとって何の保証にもならない。そんな不安を、私自身があの告白の時に植え付けてしまった。私はハーシュが好きで、他の誰も彼女以上に好きにならない。でも確かに私は一度、大切だからこそ、愛しているからこそ彼女を遠ざけようとしたのだ。そうやって、彼女を傷つけたのだ。
だったら、私にできる彼女を安心させるための方法なんて、これしか思いつかない。迷っている場合じゃなかった。いますぐ、彼女に伝えなくてはいけない。
「……すまない、タイミングを窺うようなことなどせず、もっと早くこうするべきだったな」
「え?」
どうしようかいつしようか、そう思い悩んでいたそれを、躊躇うことなく差し出した。
それはいつ渡そうかと悩みながら、ここしばらく肌身離さず持ち歩いていたもの。渡し方にも悩んでいたから、大層な箱や包装もない、そのものそのままの状態で渡すことになってしまったけれど。
でも、一分でも、一秒でも早く、愛しい彼女の不安を取り除けるなら、私の見栄や意地なんて二の次だろう。
「師匠、それ――」
私の手の平の上に無造作に乗ったそれを見て、ハーシュが唇を震わせる。
言葉で、感情で、それらを通わせることで安心できないなら。
「ハーシュ、私と結婚してくれ」
誓約で、契約で、義務で、私達だけでなくこの国の誰もが認める形で、私達を結びつけてしまえばいい。
そっとハーシュの手を取る。びくりと怯えたように手を引きそうになったけれど、私の上に座ったままの彼女をじっと見上げれば、赤い顔でぎゅっと目を閉じて、それでも引きかけた手をゆっくりと差し出してくれた。
「……ありがとう」
彼女の指にそっと指輪を滑らせて、そして想いを込めて手の平に、顔を埋めるように深く口付けた。
「師匠、あたし」
「お前を傷つけて、信頼を裏切ったのは私だ。だからすぐに信じて欲しいとは言わない。けれどどうか、私と一緒に生きて、私の愛を受け取ってほしい。いつか、お前が迷わずに私を信じてくれる日まで、努力し続けると約束させて欲しい」
「……っ、っ」
ハーシュは喉を震わせて、何度も何度も頷いてくれる。喜びと安堵がこみ上げて、私は長い息を吐いた。
「はあぁー……よかった」
「最近、ずっとなにか考えてたの、これですか」
「告白が情けなかったからな、せめてプロポーズくらいはカッコつけたかったんだが、お前を不安にさせて、結局このザマだ」
「いえ、いいえ、嬉しいです。ちゃんと、師匠が、一緒にいたいって、思ってくれて」
「お前がそれを当然と思えるように、頑張るよ」
泣き出しそうな、というよりは涙こそ溢れていないけれど、目を潤ませて声を震わせて、ほとんど泣いているハーシュを抱き締めた。ハーシュからも、きつく、しがみつくように抱きついてくる。
「いつから、考えてたんですか」
「考えていたのは付き合ってすぐからだが、指輪を用意したのは最近だな」
「理由を、聞いてもいいですか」
「……誤魔化したくはないから言うが、情けない話なんだ。あまり笑わないでくれよ」
そう、ハーシュの不安を取り除きたくてこういう形になったが、恥ずかしながらついさっきまで彼女の不安には思い至らなかった私だ。もちろんハーシュのためでもあったが、行動に移した理由の大部分は自分のためだ。
結局、私が不安だったのだ。
ハーシュはこれからもっと大きな魔術師になる。その時、彼女の隣に自分の居場所があるのか、自分がそこにいてもいいのか、はっきりと自信が持てなかった。彼女の恋人として、互いの地位や立場など関係ないと思う私と、彼女の師として、才能を縛ってはいけないと思う私は未だに完全な決着をみていない。
わかるのは、もう私は彼女の隣を離れられない、離れたくない、誰にも渡したくないということだけで。
だから、彼女がどこでどんな風に才能を伸ばそうとも、彼女の隣には私の居場所があるんだという安心が欲しかった。
「この期に及んで臆病なのは、私の方だったんだ」
「師匠は心配症ですね。そんなことしなくても、あたしは師匠の隣にしかいたくないのに」
「私だって、二度とお前を離したりなんかするものか」
ハーシュはくすくすと小さく笑って、けれどその終わり際にため息をこぼす。
「心配することなんてなにもないはずなのに……それでもあたし、まだ不安です」
「そうだな、私達はきっと、ずっと不安に苛まれることになるのかもしれんな」
私も、ハーシュも、人を信じるには臆病になりすぎた。
けれど私はハーシュを愛しているし、彼女を信じたいし、信じて欲しいと思う。きっと彼女も同じであろうと、私は信じる。
「だから不安になったら、言ってくれ」
そうして何度も、愛を確かめよう。何度でも、何度でも、臆病な私達が、それでもいつか互いの愛を無条件で信じられるまで。それからもずっと、言葉で、身体で、愛を伝え合おう。
「不安だから、疑ってしまうから、そこに愛がないなんてことはない。私達はいま、きっと愛し合うから不安なんだ」
「……じゃあ」
「ん?」
ようやく、私にしがみついていたハーシュの腕がゆっくりと解かれ、彼女の真っ赤な顔と対面する。再会した頃より少し長くなった前髪をどけてやると、恥ずかしそうに微笑んだ彼女に唇を啄まれた。
「っは、それじゃあ、今から確かめさせてください。師匠が、ちゃんとあたしのこと好きだって、しっかり教えてください」
「……仕事があるんだが」
「ダメですか?」
「ダメな訳あるか」
「や、んんっ、ひゃっ――」
ちらりと寝室に目をやった彼女の誘惑に、抗えるはずもない。
私はハーシュの唇に吸いつきながら、彼女を抱いたまま立ち上がる。ドアまで運んでやると彼女が後ろ手にドアを開けて、キスしたまま、目を合わせたまま、言葉なんてなくても二人のやりたいことが繋がっていくのに揃って笑う。
寝室のベッドに彼女を降ろすと同時に覆いかぶさって、挿し込まれた舌を吸い上げた。
「じゅる、ちゅ、ぁむ、ぇろ」
「ぇあ、あ、ちゅむ、んん、っふ、っは」
長く深く、少し乱暴なキスをして、私達は顔を離す。どちらからともなく微笑み合って、今度は小さく触れるだけのキスをする。
「……明るいから、ちょっと恥ずかしいですね」
ハーシュがちらりと窓の外を見る。今夜は月が明るい。部屋に差し込む月明かりが、彼女の灰色の髪を白銀色にきらめかせる。その輝きは魅力的だったけれど、私が軽く指を振って口の中で二言ほど唱えると、カーテンがひとりでに閉じた。
「月も、空も、お前のそんな顔を見せるには勿体無い」
「あは、師匠って時々可愛いですよね」
「お前はいつも可愛い。ずるいくらいだ」
「師匠の弟子ですから」
「理由になってないぞ、ん」
ハーシュの方からキスされて、今度こそ目を閉じ、深く、深く唇を沈める。彼女の身体の中に頭から潜るように全身を沈めて、重なる身体が彼女に全身を包まれるように錯覚する。
呼吸のためにどちらかが唇を離せば、すぐにもう一方が追いかけて口をふさぐ。まるで息継ぎの瞬間こそが苦しくて、相手の口からしか息を吸えないみたいに。
……いや、「みたい」なんじゃなく、もしかしたら私達は「そう」なのかもしれない。
お互いの愛がなければ息ができないから、相手の愛を確かめたくて不安になる。私達はもう、どうしようもないくらい互いの愛に飢えていて、彼女の愛を感じている間だけ呼吸が許されたような気になる。
それならこれからも、私達は一緒に息をしよう。
唇で、全身で、互いに愛を吹き込んで呼吸しよう。
二人でなきゃ生きていけないなんて、そんなの――。
「――っは、最高だ、ハーシュ」
「夜はまだ長いですよ、師匠。んんっ」
暗闇の中で、感じるのは互いだけ。二人だけの夜が更け、二人だけの朝が来て、そして二人だけの人生が明日も続く。
一人では息苦しくて生きられない私達は、互いに愛を吹き込んで生きていく。
それでいい、それがいいと私達は溶け合って、そしていつかきっと。
二人で生きることを、当たり前と思える日がくればいい。そう願いながら、私はこの世で一番愛しい女に、彼女の甘さに溶けていく。
「っは、ししょー」
「なんだ」
「……あいしてます」
「あいしてる」
蕩けた舌で、言葉の合間すらも惜しむキスを繰り返して、私達の夜は更けていく。何度だってキスをして、何度だって愛を囁いて、そうやって私たちは、いつかきっとひとつになるのだから。
以上で『底辺魔術師な私ですが、英雄になった愛弟子に迫られて陥落しそうです…』は完結となります。長らくのお付き合い、ありがとうございました。
終盤の息苦しい展開を乗り越えて、それでもまだ少し臆病な二人。でも、お互いを求める気持ちがある限り、きっともうすれ違ったり、離れ離れにはならないと思います。情けなく曲がり道ばかり行く師弟でしたが、ここまで見守って頂いたあなたに最高の感謝を。
作者の前作をご存知の皆さんはお察しかもしれませんが、本作ももしかしたら番外編や後日談を書くかもしれません。書かないかもしれません。つまり現状なにも考えてないです。
もしも「こんなお話が読みたい!」等ありましたら感想やtwitterでご意見をいただければ参考にさせて頂きます。
最後まで読んでいただきまして、本当にありがとうございました。ご縁がありましたら、番外編や他の作品でまた会いましょう。
またね。




