第7話 KHM12 エルマとの出会い
13歳のあの日まで、俺が持っていたスキルの名前は《空間転移》だった。俺はいきたいとこならどこへでも行けた――というのは嘘だけれど、行ったことのある場所であれば何度だって飛ぶことができた。
父さんが連れて行ってくれた近くの街、山の頂上にある開けた星を観察するにはうってつけの場所。叱られたとき、毎日の農作業で気晴らしをしたいときにはいつでも飛ぶことができた。
ある日、俺は行ったことのない場所に転移しようとした。いや、転移せざるを得なかった。
7歳の夏、母親に叱られた俺は逃げ出すように家を飛び出し、転移した。大木が何本も生えた村にほど近い森で、大木の一つに洞があってそこに入り込むのが好きだった。俺にとって秘密基地のような場所だった。洞からの景色は季節によって天気によって表情を変えた。夏で、暑かったその日、洞のなかは涼しく俺はうとうとと居眠りを始めた。
雨の音に目を覚ました。草を鳴らし、滑り落ちた水滴が地面を濡らして、あたりは独特のにおいで満ちていた。雨は徐々に強くなる。大好きな水の音に俺ははしゃいで空ばかり見ていた。だから気づかなかったんだ。
空気に獣の脂のような血のようなにおいが混じる。俺ははっとして前を見る。
熊だった。やけに大きく感じた。おそらく魔物の類だったのだろうが今となってそれはわからない。大人二人分の肩幅を揺らして、熊が立ち上がった。空を背にして俺を見下ろしている。片方の目に傷があった。切り裂かれたようなそれは人間にやられたものかもしれない。この熊は人間に殺意を持っているのかもしれない。そんな想像をした。
巨大な爪がギラリと光った気がした。近くにある木には縄張りを示す傷跡がある。どれだけの力を入れればあれほど深くえぐれるのだろうか。
もしもあの爪に顔をえぐられたら? 背をえぐられたら?
俺はぞっとした。
熊は俺から視線をそらさず、四つ足を地面につけた。みがまえた。
瞬間、地面を蹴って、洞に向かって突進してきた。
俺は焦った。《空間転移》は移動する場所を思い浮かべる必要があったが、そのとき、俺はパニックになってどの場所も思い浮かべることができなかった。
できなかったが、どこかに移動しなければならない。巨体はありえぬ速度で迫ってくる。口から粘度の高い唾液をふりまいて、とがった牙を見せ、うなる。
焦りが膨張して、破裂した。
《空間転移》
スキルが発動した。
とんだ先は森のなかだったが風景がまるで違う。木は大きくないし、種類も違う。空を覆い隠すように葉が生い茂っていたのに、今は青い空が当たり前のように見える。けもの道がどこまでも続いていた。
雨が降っていない。
胃のなかがぐるぐるして、俺は嘔吐した。頭が揺れて痛い。初めてスキルを使って以来の症状だ。俺は近くの木の根元に座って、めまいが治まるのを待った。
ここはどこだろう。天気が違うからかなり遠い場所だろうけど。
しばらくするとめまいは治まって、吐き気もなくなった。
早く家に戻ろう。
スキルを使おうとした瞬間、歌が聞こえた。透きとおった美しい歌だった。声を頼りに森を進むと高い塔が見えてきた。入口がなく、はしごもない、ただ頂上に小さな窓があって、そこから女の子が身を乗り出すようにして外を眺めて歌っていた。
何をしているんだろう、どうしてあんな場所に?
そんなことを考えていると、腰を曲げた老婆と思しき者が塔の下へとやってきた。老婆はマントを頭からかぶり、顔はよく見えなかった。両手に革の手袋をつけていて、木のかごを持っている。
「ラプンツェル、はしごを下ろしてくれ」ラプンツェルと呼ばれた女の子は一度中へ戻り、太いロープでできたはしごを垂らして老婆を引き上げた。上っていく間、マントが頭から外れ、長い耳とくすんだ色の肌が見えた。
老婆は知能の高いハイゴブリンだった。
ハイゴブリンは塔に入り、しばらくして、はしごを伝って降りてきた。何を中でしていたのだろう。俺は気になって、やつがいなくなるのを木の陰でじっと待っていた。はしごはラプンツェルの手によって塔のなかに戻された。
俺は塔のなかに転移した。塔のなかは俺の家と同じくらいの広さがあって、ベッドと小さなテーブルがあった。先ほどハイゴブリンが持ってきたらしい木のかごに果実が入っていた。
俺が現れた瞬間、ラプンツェルは悲鳴を上げた。
「どこから入ってきたの!」
「ああ、いや、ええと」もごもご言っていると、彼女は顔を近づけた。
「あなたは……」
恐怖より好奇心が勝ったようで、ラプンツェルは手を伸ばし、俺の頬に触れた。
「私と同じ肌の色をしてる」
「同じ人間だからね」
「人間……」彼女は考え込むようにうつむいた。
「どうしてこんなところにいるの」俺は尋ねた。
「どうしてって、おばさんが外は危険だっていうから。外に出たらすぐに悪い生き物たちに食べられてしまうよって」
「お父さんとお母さんは?」
「わかんない。小さいころにいた気がするんだけど……」
どうも親以外の人間に会うのは初めてらしい。ペタペタと俺の顔を触り、それから、胸に耳を押し当て心臓の音を聞いている。
「ここから出たいと思わない?」
「でたい! けど、どこに行けばいいかわからない」
「お父さんとお母さんの所に行けばいい。あいつから聞き出すよ」
「……そんなことできる?」
「何とかやってみるよ」
俺たちは約束をして、その日は分かれた。
翌日。俺は塔の前でハイゴブリンがやってくるのを待っていた。同じ時間に奴は現れ、果実を置いて降りてきた。歩き方は醜く、長い爪が揺れて日の光を反射していた。
俺は奴の後を追った。俺にまったく気づかずにハイゴブリンはけもの道を進んでいく。
開けた場所に出る。
そこは奴の庭のようで鼻孔をくすぐる甘い匂いがそこら中に満ちていた。ハイゴブリンはぶら下がる果実を避けるように進んでいく。地面に落ちた果実ですら、飛び跳ねるようにして跨いでいく。まるで触れたくないかのように。
見たことのない果実に唾液があふれた。俺は魅了される。じっと見つめてしまう。果実の一つを摘み取って頬張った。じゅわっと甘いエキスが口にあふれ芳香が鼻を通り抜ける。いくつかもぎ取ってポケットに突っ込んだ。
はっと我に返ったときには姿が見えなくなっていた。
どこにいった。
俺は慌てて、身を低くしながら庭を進んだ。しかし、奴の姿を見つけることができないまま、壁につきあたる。
壁はずっと続いていた。出入口はないように見えた。仕方なく壁を上って外に出ると、そこには村があって人が生活していた。てっきりゴブリンの集落があるものだと思っていたが、俺の住む村と変わらず畑を耕して、牛や鶏を飼っていた。
ハイゴブリンは壁を越えていない。俺はそう判断してまた壁を上ろうとした。
「おい、君」
男に呼び止められた。30代くらいだろうか、髪は短く、たれ目で唇が薄い男だった。青い瞳をしていた。
「なんですか」俺は急いでいたので、壁に手をかけたまま振り返った。
「さっき壁の向こうから来なかったか」
「ええそうですけど」
その言葉を聞くと男は俺に駆け寄り、壁から引きはがしてふりむかせ、両肩をつかんだ。
「女の子を見なかったか? ブロンドの髪の女の子だ。ラプンツェルという名前のはずだ」
必死の形相で彼は言う。
「見ましたけど……」
「そうか……そうか……エルマ……」
男は表情を崩して、うつむくと泣き始めた。
「もしかして、彼女のお父さんですか」
「ああ、そうだ。ただある約束をしてしまって、あのハイゴブリンに娘を連れていかれたんだ。……私のせいなんだ」
「あの子を連れてきたら、ちゃんと守ってくれますか」
「ああ守る。守るさ。……連れてくることなんてできるのかい?」
「今連れてきますよ。待っててください」
俺はスキルを使って、塔へと戻った。
そこにハイゴブリンが待ち構えていた。