第4話 プリンセスキス
意識が飛ぶ。
別の日か? あれから何日経った?
俺は雑用をしている。便所の糞尿をくみ取っている。
意識が飛ぶ。
数人に蹴られて俺は脚を守るように体を丸めている。エリオットの笑い声が聞こえる。
「いい気味だなクソガエル」
意識が飛ぶ。
「エリオット様申し訳ありません」
石造りの地面にこすりつけるように頭を下げている。
意識が飛ぶ。
意識が……。
俺は手を止めた。
俺の振った剣が女の首元で止まる。女は少女を抱え、すべてを覚悟したように目を閉じていた。少女が泣き叫んでいる。
ここはどこだ?
俺は何をしている?
家の外で悲鳴が聞こえる。
俺は、両親が殺されたあの日を思い出す。
父さんが死に物狂いでブロンドの兵士に鍬を振り下ろしたこと。
兵士が父さんの首をつかみ、縊り殺したこと。
母さんが兵士にしがみついて叫んでいたこと。
逃げようとした母さんは、躊躇し、一瞬視線が俺のほうを向きかけて、兵士に殴り殺されたこと。
俺は少女を見下ろした。腕には黒い腕輪がついていた。
俺は村人を襲っていたのか?
どこの村かはわからない。ただ俺がやっているのはあの日の再現だ。
俺は自分の姿を見た。アイアンプレートの鎧を着ている。右脚は膝あてだけがついていて、わずかに飛び出たすねが滑稽に見える。木の棒が相変わらず義足の代わりについている。脚の痛みはとうに消えていた。
鎧にも剣にも血痕はない。俺はまだ誰も殺していない。
安堵のため息を吐いた。
女が目を開けて俺を見上げた。表情は恐怖に濡れていた。
俺がしゃがみ込むと、少女が悲鳴をあげる。女は強く少女を抱えて後ずさった。
俺は頭を振って、それから剣を鞘に戻すと両手を上げる。
「ここから逃がしてやる。ついてこい」
女は俺の顔をみて、その変化に気づいたようだったが、おそらく信じてはいないだろう。
俺は蹴破った扉から外を眺めた。ドレークがローブを着て、杖を握り、指示を出していた。13歳のあの日、村を襲撃した左目に傷跡を持つ司祭を思い出す。
俺たちには背を向けている。どうやらそちらに村の中心があるようで、ドレークは馬を走らせ、離れていった。
俺は振り返る。女はまだ俺を見上げていた。少女はすでに泣き止んで女と同じように俺を見上げている。
「馬はあるか?」
女はうなずいて、立ち上がった。
「家の後ろにつないでいます」
「よし、その子を連れて逃げろ」
女はまだ躊躇していた。少女を見下ろして、また俺を見た。
「早くしろ。死にたいのか」
女は覚悟を決めて、俺とともに外に出た。
俺は地形を思い出していた。近くにある村は……だめだ、別の隊が襲撃している。
森を抜ければ街があるはずだ。
家の裏にある馬小屋に一頭馬がつながれていた。馬の強奪は任務にない。いなくなったところで誰も気づかないだろう。
女と少女が馬に乗ると、俺は言った。
「近くの村に逃げるのはだめだ。襲撃されている。森を抜けろ」
「わかりました。……あの……、ありがとう」
二人は森のほうへ駆けて行った。
「ゴミガエル! どういうつもりだ!」
俺が村の中心に向かおうと家の前に出ると、いつの間にかドレークが俺のほうを見ていた。女と少女が乗った馬が遠く走っていく。ドレークはそれを見て、杖を振り回し、近くにいる兵士を探した。エリオットが村人の一人を切り殺したところだった。
「おい! ネズミ! 追え」
「わかりました! ドレーク様!」エリオットは馬に乗った女を見ると馬に駆け寄り、乗って走り出した。
向かってくるエリオットに俺は相対した。剣を構える。
体をひねる。右足を軸に回転する。切り上げる。
剣は馬の左足に入り、そのまま骨を断ち、通り抜けた。左足を失った馬はひどく高い声を上げ、無様に倒れこんだ。
馬の下敷きになったエリオットがはい出てくる。暴れまわる馬に蹴られないよう距離をとると、俺をにらんだ。
「殺されてぇのか、クソガエル!」
出っ歯をなめると剣を引き抜いた。
俺は剣を振るい、馬の血を飛ばす。
にやりと笑って、剣を構えた。
「うるせぇ、ハゲネズミがよ」
エリオットの顔が醜く崩れた。眉間にしわが寄り、鼻の穴が開く。
「エリオット様だろうが!!!」
エリオットが駆け出し、飛ぶ。動きすらネズミみたいだ。奴の振りかざした剣が光を反射する。俺は防御の姿勢をとる。
斬撃がぶつかる。
右脚の棒切れが地面に埋まる。性根が腐っていようが、長年訓練を生き抜いてきただけのことはある。奴の斬撃は重くするどい。
激しく、刃が交わる。互いの心に容赦の概念はない。
殺す。
奴の切っ先が首の皮を削ぐ。
俺の剣が奴の頬を切る。
再び、斬撃がぶつかる。
静止する。音が消える。
どれくらいの時間そうしていたのか、互いに出方を推測して、身動きが取れずにいた。
俺は膝を落とし、持ち上げるようにして、エリオットを押した。
奴は飛び、距離をとる。肩で息をしている。怒りの表情に驚きが混じっている。
構える。
エリオットが走り出す。奴の口元がゆがみ、にやける。
俺は左足に重心を乗せる、何を狙ってるのかはわかっている。
奴は身を低くして剣を振る。俺の義足もどきを狙っていた。木の棒は付け根ぎりぎりで切り落とされ、飛んでいく。
俺は右脚を切られた衝撃に任せ、左脚を軸に体をひねって、エリオットの振り切った腕を切った。
エリオットが叫ぶ。斬撃は浅いが、剣が飛び、やつは腕を押さえて俺の脚元に倒れこんだ。
「俺の腕が……くそ……クソガエルがあああぁぁぁぁ!!!」
俺は左足だけで立ち、剣を振り上げた。
「じゃあな、ドブネズミ」
――――背中から衝撃。俺の右肩から剣が突き出す。
「え?」
背中から突き刺された剣の先から血が滴っている。
振りかぶっていた剣が足元に落ちる。
「おいゴミガエル、お前、何のつもりだ? あ?」
ドレークの声が降ってくる。振り返ると、奴は馬に乗っていた。
「さんざん調教してやったのに、まだ足りないってか?」
刺さった剣がひねられる。俺は絶叫する。
エリオットがその隙に立ち上がり、自分の剣を持ち上げた。
剣が右肩から引き抜かれ、俺は膝をついた。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が乱れる。肩が熱い。脈打つたびに紅が服に染みていく。
後ろでドレークが馬から降りる音がする。エリオットが俺の髪をつかみ、俺に顔を上げさせる。奴の構えた剣の切っ先が目の前で揺れている。
「間抜けなカエルだ」
ザクリ。
真っ暗になる、涙があふれる。
きっと真っ赤な涙だ。
「あああああああ!!!!!」
横一線に目を切り裂かれた。
両目がはじけて萎み、瞼が奥に引っ込んだように感じる。とめどなく液体が流れる。
右肩と目に苦痛が渦巻く、肥大する。血液の流れる音が聞こえてくる。暖かい流れが頬を伝って、とめどなく顎から落ちていく。
「おいおい、目をつぶしたら使い物にならないじゃないか」ドレークのあざ笑うような声が聞こえる。
「すいません」くつくつと笑いながらエリオットが答える。
「処分ですか?」
「ああ」
「こいつむかつくんで俺が処分していいですか?」
「ああ、かまわない」
俺は左手で地面をさすった。剣を探していた。確かこの辺りに落としたはずだ。
俺の血で固まった砂に触れる。血の泥が手につく感触。
指先が柄に触れる。
「おっとぉ」エリオットの声。
鉄が地面にこすれる音。
柄の感触がなくなる。
「まだ反抗しようってのか。くくく、健気だねぇ」エリオットの声が耳のすぐそばで聞こえる。また、髪をつかまれる。頭の皮膚がはがされるんじゃないかって程の痛み。
右肩を何かでえぐられる。
「ぐああああぁぁぁぁ!」
激痛に視界が真っ赤に染まる。エリオットの笑い声が聞こえる。
「おい、遊んでないで早く処分しろ」ドレークの声。
「わかりました、ドレーク様」
エリオットはどこか不満げにそう言った。
何も見えない。何も……。
俺はどこを刺されて殺される?
どこを切り裂かれる?
……嫌だ。
恐怖が突然波のように襲ってきて、俺はもがいた。
「じゃあ、さよならだな。かわいいカエル君」
その時、
「おい、なんだあれは!」
ドレークの焦る声が聞こえた。
叫び声。金属が地面に撥ねる音。剣を落としたらしい。
「くそ! 目があぁぁ。おい暴れるな! やめろ!」
馬のいななき。蹄の音だが、不規則だ。暴れているのか?
ドレークが地面に転げ落ちたようだ。どさりと音がする。
「ごふっ」
エリオットがつぶされたような声を出した。鈍い骨が折れる音。馬に踏みつぶされたらしい。
馬が走り去る音がする。
遠くで叫ぶ若者の声。悲鳴。
「閃光魔法で奴らの目が見えないうちに討ち取れ!」若い女の声がした。
戦闘する音が聞こえる。いや、これは惨殺?
閃光魔法で目をつぶされたとあっては、訓練された奴隷兵士であれ、どうすることもできない。
音は徐々に近づいてくる。
「なんだ! 何が起きてる! 何も見えない! エリオット! どこだ! このネズミやろう!」ドレークの声がそばで聞こえる。
「馬に……馬にふみつぶされ……」エリオットの声がかすれている。
誰かの足音が近づいてくる。
「この使えねぇネズ……」
溺れるような声になる。肉に剣が突き刺さる音。骨をなでる金属の音。
この音は聞いたことがある。村から連れ去られたあの日、馬車のなかで少女の首に剣が突き立てられた時と同じ音だ。
ドレークが誰かに首を刺されたのか。
だとしたらすぐにでも俺が殺されるじゃねぇか!
今度はネズミの叫び声が聞こえた。
俺は地面を這うようにして声から逃げるように進んでいく。
剣だ。剣があれば……クソ! ドブネズミ! どこまで飛ばしやがっ――
――首に冷たい感触。剣の感触だ。
背中を踏まれ、俺は絞り出すように息を漏らす。
身を硬くする。
まずい、これまでか……。俺は死を覚悟した。
「待って!」女の声がする。駆け寄ってくる足音。俺の前で立ち止まる。
「エルマ様! こいつらは村を襲ったんですよ? 殺さないと」
エルマ? どこかで聞いた名だ。
「その人を殺さないで!」少女の声だ。
「私たちを助けてくれた人です! 殺さないでください。彼はこの村では誰も殺していません!」俺は驚愕した。さっき逃がしたはずの女の声だった。
金属の感触が消える。俺は身を硬くしたまま下を向いていた。
顎をつかまれて上を向く。
「ああ……そんな……」
エルマの声が涙にぬれる。
頬が両手で包まれたように暖かくなる。
唇にやわらかいものが当たる。
甘い匂いがする。
遠く昔、嗅いだことのある匂いだ。
「エルマ様! 何を」男が驚いた声を上げる。
苦痛が消えていく。肩の痛みも、両目の痛みもなくなる。
目が開く。
やわらかい感触が離れて、同時に彼女の顔が離れていく。
徐々に目が慣れる。
美しい顔をしていた。
「ヘンリー……」俺に触れていた唇が動いた。
その名を久しぶりに聞いた。
ああ、俺の名前か……。