月桂
桜に暗示されたことを読み取るような人物が、ましてや本当に桜かのような咲き方をするような人物が、そう多く生まれるはずはない。
けれど平和な世の中に偶然生まれてしまったときには、拒まれ処断されるばかりでなく、生かされるということもあるものなのだ。
生かされていたらば、直接的に桜のメッセージを読み取れなくとも、所謂桜の化身を理解されることはある。
もしかしたら、桜が理解されるときがあったら、それこそ乱世の終わりというものなのかもしれない。
平和が描かれていたとしても、暫く続いていたとしても、欲に溺れて人々が再び芸術を理解する心を失ったらば、そこでまた乱世が再開される。
そういった仕組みで動いているのかもしれなかった。
そのことにいつか気付いたなら、何かが変わるのだろうか。何が変わるのだろうか。
いつかその日がやってきたとき、一体、桜はどうなるというのだろう。
言葉を持たずただの芸術品として、愛でられるためだけに意味さえ持たず咲くことになるのだろうか。
それとも、その魅力を理解されるようになった途端に、花を咲かせることを止めてしまうようなことであろうか。
いつかはまだどこにも見えないから、いつかの訪れを夢にも思わない人間たちはそのことを考えることすらなかった。
今日明日に夢中で、見えてたったの数年なのだ。
乱世に生きているからにはそれだけで限界というものである。
桜は知らない。桜は走らない。
未来のことを見せてくれようともしない。
乱世を表し咲く花は、治世に咲いたことはない。
穏やかな世が作られたことがないのだから、毎年のごとく、欲と罪に塗れた人間たちの遥か上空で咲いているばかりであった。
それならまだ見ぬ平和の中ではどうするのか。
その姿を遂に人々の前に見せてくれるのか、だれの目の届かないところからすら、すっと消え去ってしまうのか。
朧に揺れる月明かりの中で、今年も桜は花びらを散らす。
ひらりひらり、ひらりひらりと、だれも見ていなくても花を咲かせて、月影の中で散らせ散らす。
月の桂を夢見ながら、欲花桜が咲いているのだから、未だにここは乱世でしかない。
生きている人間は世を作っておきながら、被害者面をして桜を仰ぐ。
人の世など見はせずに、桜は独自の世界で咲いては散ってを繰り返す。
人間を嘲笑い、勘違いさせることを目的としているかのように、誇らしく咲いている。
本当は自らも月と勘違いして美しいそれは天にあるのに。
だからこそ桜は暗示を抱えていた。愚かにも、明るく、派手に、哀しく。
桜の花びらは舞い落ちた。