化身
聖人を自称する人間こそ、愚かで穢れたことにも、桜に触れられるような幻想を見る。
俗世に塗れて生きてきた人間などは、目にすることさえ烏滸がましいほど神聖な華なのだということをすら、知っている人間はどれほどいることだろう。
願ったとて叶わぬ夢であるという当然の事実を、知っている人間はいるのだろうか。
桜の花は散っていく。
憧れを抱く人間たちを嘲笑うような幻想的な美しさで、堂々と、けれど陰に隠れてだれに見られることもなく淑やかに散っていく。
太陽の下ではあれだけ明るく咲き誇っていながら、淡い月の灯の中で、ひらひらと一枚ずつ花びらを散らしていくのだ。
儚さと儚さが織り成す芸術は、理解されることを求めようともしない。
稀に咲き誇る桜のように、人間離れした存在が、桜の化身とも呼ぶべき存在が乱れ汚れた人間の世に生れ落ちる。
聖人たちはそれに気が付かない。
芸術家たちはそれに気が付かない。
桜の美しさを理解しているつもりでありながら、その魅力を理解しているようなはずはないので、桜の化身を見つけられないのだ。
愚かにも、愚か者と非難するのだ。
人々の死に心を痛めることはなく、自らを自らとして持ち、だれに何を言おうと自分を貫く。
士官をするようなことは決してなく、臨時の教師や絵描き、釣りなどをして各地を放浪するのだ。
神業を傍で見る人は信仰を始め、芸術を解せない己の優秀さを信じる欲に溺れた人間らしい人間たちは、桜の化身を責めるのだ。
処刑をするまでも、その後ですら気が付きやしない。
次の春に、桜の花びらに襲われて、漸く気付くかどうかというほどなのだ。
「ああ、お前はあいつなのか」と、桜に問うのだ。
どこの自称芸術家が描いたせいか、後の世の人々は桜を婀娜なるものと勘違いしているのかもしれない。
その無邪気な香を実際に知っている人間が滅多にいないものだから、そしていたとしてもその人は本物であるから、ひけらかすようなことをしないわけだから、本当の桜の声をだれも知らないのだ。
凛として咲いている姿も、儚く散りゆく姿も、知っているようで知りはしないのだ。
光に照らされながら、闇のもとに美しく散っていく。
朧気に霞む月明かりに夢中で、その闇を発見した俗人は、もちろんこの俗人というのには聖人を自称する任げも含まれるのだが、ただの一人だっていはしないのだ。
権力やら財力やらに縋る人間ばかりではなく、悟りを求めることも、芸術を追求することも、同じく俗世界の欲に埋もれた人間だ。
天空から見下ろしている桜だけはをそれを知っていた。