最低(3)
セリスは必死に怒りを持続させようとした。
冷静さを欠くわけにはいかないが、絶望にとらわれるのはもっといけない。
(相手の望みが「幸福の姫君」だというのなら、自分を殺してしまえば終わりだなんて。その考えは、最善手じゃない。こういう手合は、生かさず殺さず相手を嬲る方法を、よくわかっている……!)
アルスがセリスを手に入れようとしているのは、ただの興味のようにしか感じられなかった。
それこそ、時代の覇者たらんとして「幸福の姫君」を切望しているわけではない、ように見えた。
たとえ遊びの最中にセリスが死んでも、遊びが一つ終わる程度の感慨しか抱かないのではないか。セリスは死ぬのに。
セリスは痺れた舌で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「『幸福の姫君』なんて理由で襲われることが、今まで実はあまりなくて、忘れてました……」
「そうでしょうね。発表そのものは最近ですが、比較的早い段階でゼファード王が姫との結婚を示唆して、興味本位での申し入れを遮断しましたから」
「それは、砂漠との戦争を視野に入れたものだと」
「あなたに対しての建前はそうですが、二代に渡る近親婚に対して、国内でも反発は無数にあったと思います。『国に繁栄をもたらす姫』との婚姻を発表したことで、かえって月の王は支持を失っていた。人の気持ちが、王家から離れつつあるように、私には見えた。おそらくそれは、ゼファードの望み通り」
アルスの顔から、笑みが消えた。
(ゼファード兄様の、望み……?)
砂の上を歩き続けているときに感じた、足元のよるべなさ。崩れて、足が埋まっていくあの感覚。
アルスの発言は、ことごとくセリスの不安を煽る。
「アルス様は……、ゼファード兄様のことをご存知なんですか? ゼファード兄様が、戦略的に『月の王家の求心力を失わせる』行動に出ているというのなら、それは……。これから迎える砂漠と月の動乱の時代を、どう受け止めているというのでしょう」
ああ、今さらアルス様、じゃない。とセリスは内心後悔したが、アルスも同様の思いを抱いたらしく、口の端をつりあげて笑った。
「あなたは実に育ちが良い。憎しみを覚えた相手にも、敬意を失わないとは」
「もう言いません」
喜ばせるのは癪だったので、セリスは速やかに態度を変えた。
アルスはくすくすと笑い声をあげて言った。
「ゼファードが仕組んでいるのは、かつての戦争の再現。おそらくあの滅亡に至る敗戦は、アスランディアが仕組んだものです」
「それは、どういう意味ですか」
身体を起こそうとしたが、思ったほど動けず、横たわったままセリスはアルスを目で追いかけた。アルスは片足を伸ばし、立てた片膝を軽く抱きかかえるようにして座り直す。セリスから視線を外して、虚空を見据えて口を開いた。
「ここ数年私なりに調べてきましたが、一国が滅びたわりに、被害が軽微なんですよ。確かにかつてのアスランディアは瓦礫となり果て、砂塵に帰しましたが……。戦後処理がうますぎる。アスランディアには何か、滅びを選ぶ理由があったのでしょう。そして、その事実を月の国は隠蔽して葬り去り、砂漠の国は後世へ歴史として残そうとした。これも、おそらく意味があります。わかりますか」
もはやまったくふざけた様子のない紫の瞳がセリスを見る。