太陽神殿
アスランディアの神殿は、マズバルに数ある神殿の中でも、規模が大きい方だという。
「弾圧というものが、なかったんですよ」
アルスはそのように説明した。
石柱の並ぶ回廊を歩く道すがら、すれ違う者がアルスに丁寧に頭を下げて行く。
「砂漠はイクストゥーラと結託して、アスランディアを滅ぼしたのに……?」
セリスは、呆然として聞き返してしまった。
(まるで侵略の事実を隠すかのように記録から消し去ったイクストゥーラにおいては、すでにアスランディアの正確な歴史すら追えないというのに。ラムウィンドスの来歴すら、本人のいないところでは確認もできず)
アルスはセリスを見て、穏やかな声で答える。
「滅ぼしたからこそ。たくさんの流民が拠り所を必要とするのを、隊商都市マズバルの長、先代の黒鷲は知っていたのでしょう。砂漠の気候は厳しい。食糧をめぐる争いもありますが、将来的には地下水路の拡充に伴い、農業の拡大も視野に入れているマズバルです。人的資材の確保も視野にあったと思います。ここでは男も女も子供も、貴重なんです」
「アスランディアの民が反感を抱くとは、考えなかったのでしょうか……。恨みを持つ者を受け入れるというのは、火種を抱えることでもあって」
「あっても、たいしたことがないと考えたのだと思います。先代の黒鷲も、当代の黒鷲も」
さらりと説明をされて、セリスは言葉を失った。
(アルザイ様は、想像の上をいく。わたしが考えているより、ずっと凄い。大きい存在だ)
人とは違う何かを見ている。違う場所から見ている。そう思えてならない。
三年前に、数日会っただけのアルザイの笑顔が、胸によみがえる。
黒鷲は、天空の、はるか高みからこの地上を見ている。
「住む場所を追われ、流民となったアスランディアの民は、地理的な関係からイルハンに留まった者もいますが……。一旗揚げる気のある者は貿易商人となり、西の帝国とマズバルを結ぶ要となりました。技術のある者、手先の器用な者はマズバルに留まり協会に籍を置いて職人となりました。生活がマズバルと密接に絡んでいますので、ここで問題を起こそうという者は、いても少数でしょう。黒鷲の翼に抱かれている者は認めざるを得ないんです。どれほどの憎しみがあろうとも、あの方が一度己の内側に受け入れた者には、確実な庇護を与えることを」
「では、アスランディアの民が憎むとすれば……。憎しみがあるのなら、それは月に向くのではないでしょうか。月は、あまりにも狭量です。心が狭い、対立があってもそれを問題とも思ってもいないようなところがあって……」
ゼファードの代になり、いくらかは変わっていく可能性もあるとは思うが、記録も残さないで過去を消し去ろうとした先代の下策の影響ははかりしれない。
「対立が、あるんですか?」
ためすようにアルスに問われて、セリスは考えたままのことを口にした。
「マズバルはこのまま、隊商都市としてより栄華を極めるでしょう。そのとき、月が以前と変わらぬままであれば、確実に航路を外されます。アスランディア系の商人がよりつかないでしょうから」
紫水晶の瞳は、セリスの話す様子を、観察者の冷静さで見ていた。
「理解が早いですね」
褒められても、セリスとしては息苦しさが増すばかりだ。できれば、いますぐゼファードと話し合いたい。兄が王として暗愚とは考えていないが、イクストゥーラから動けない以上、知り得ないことがたくさんある。それを、早く持ち帰って知らせたい。
(アルザイ様は遠くを見ている。月との戦争には、わたしが想像できる以上の意味がある。アルザイ様になりたい……。アルザイ様が見ているものがわかれば、何か手立てが見つかる)
戦争は、勝っても負けても国力を損耗させるはずだ。それでも突き進むというのならば、アルザイの思い描く未来において、譲れない何かがあるはずだ。
そもそもアルザイは何故「太陽の遺児」を必要としたのか。本当に必要だったのか?
太陽王家の血筋で、月に身を寄せていた太陽の遺児を砂漠に引き込んで、目立つ位置に置いて。
ゼファードには、戦争の準備と言った。セリスもそのように聞いていた。旧アスランディアの民の旗頭に据えるのだと。先の戦争における月の不誠実さを追求するという大義名分において、必要となると。
(本当に……? アスランディアの民は、まだ復讐に生きようとしているのか? 今の生活を失ってでも? 違う。何か、見落としがあるはず。何か。気づかなければ……!)
答えは本当はもう、目の前にあるのではないか。
唇を引き結び、沈思黙考するセリスの横顔を見て、アルスは届かぬほどひそやかに呟いた。
「なるほど。国を出ることが叶わぬ月の王が、思いを託して解き放ったのがこの『月』ですか……」