過ちを犯す月
三年前。
アルザイによって突きつけられた「歴史」から知り得た事実をもとに、セリスはゼファードに迫った。
「わたしに関する『幸福の姫君』の予言は、本当に存在しているのですか」
ラムウィンドスが去り、ゼファードの王宮内での位置づけは、めざましく変わっていた。
それまで、「太陽王家の生き残り」は軍の要職と言いつつも実権を与えられていなかったという。彼と懇意にしていることにより、ゼファードもまた行動が注視され、国王によって政策への関与を制限されていた。しかし、あのとき明確に関係を絶ったことにより、王宮で発言権を得ることになったのだ。
王太子として王位を継ぐ目処も立ったゼファードは、セリスに対して真実を隠し通そうとした国王とはまた違う考え方を持っていて、セリスの質問に対しても隠すことなく答えてくれた。
「予言そのものは、実際にあった。姫や私が生まれるずっと前、セリスではなく今は亡き王女にされたものだ。私たち兄妹の叔母にあたる。かつて『選んだ伴侶を覇王に導く』とされたのは、イシス王女。アスランディアの王を選んでこの国を出て行った」
このとき、すでにゼファードは髪を銀にもどしていた。
常に輝くまでの冷たい月光をまとった彼は、かつてより笑うことが明らかに少なくなってはいたが、セリスと話すときには、かすかに微笑んでいた。
「予言された姫が、太陽の国へ行ったのだとしたら、今頃世界の覇権を取っているのは、太陽の国でなければならなかったはず。でも、太陽の国はすでに、滅びているんですよね……?」
予言は外れたのか。それとも、何か他に理由があるのか。
ゼファードは、冷ややかな声で言い切った。
「イシス様は、アスランディア王を捨てたんだ。そしてアスランディアは滅亡の道を辿ることになった」
「『幸福の姫君』が、太陽の国を、見捨てた?」
セリスの脳裏に、ラムウィンドスの姿がよみがえる。
誰にも告げてはいないが、彼はセリスが心の中で選んだ相手だ。彼は、他の相手を選べと言いおいてセリスの元を去ってしまった。生きている間に、もう二度と会うこともないかもしれない。だが、少なくともセリスから彼を裏切ることなど、想像もつかない。
(イシス様という方は、一度は太陽の王を選びながらも、捨てた……裏切った? なぜ)
仲違いでも、したのだろうか。運命の相手を捨て、一国の滅亡を引き起こすほどの夫婦喧嘩?
「本当に……そうなのでしょうか? 幸福の姫君が、太陽の王を捨てたというのは。何かやむにやまれぬ理由が……」
考えながら話すセリスを、ゼファードはじっと見ていた。セリスが話し終えたところで、静かに口を開いた。
「仮定の話に答えるのは、私の立場上あまりよくない。この場ではセリスの兄として、答えよう。以降は二度とこの話題に触れるつもりはない」
口ぶりは穏やかだが、譲れない一線を突きつけて、話を続ける。
「イシス様は、アスランディア王を捨て、イクストゥーラに繁栄をもたらすために帰還したとされているが……順番が違うんだ。今は滅びたアスランディアの民で、生き延びた者がいるのであれば、同盟関係にあった月と砂漠の裏切りに厳しく言及するだろう。もし姫の読んだ『歴史書』に、何か引っかかる箇所があったのだとすれば、そこには月にとって不都合な事実が埋められている。アスランディアの滅亡しかり、幸福の姫君しかり」
「順番が違う? 不都合な事実とは、なんですか?」
「イシス様が太陽王を捨てるより先に、月と砂漠が、同盟を反故にして太陽へと攻め込んだ。その争乱の最中、イシス様は無理やりにイクストゥーラに戻された。心が、太陽の王から離れていたかどうかは、いまとなってはわからない。私は、あまり信じていない」
淡い笑みを浮かべた兄を、セリスはまっすぐ見つめていた。
セリスは慎重に言葉を選び、口を開いた。
「兄様は、お会いしたことがあるのですね。イシス様に」
ゼファードは、柔和な笑みを浮かべて頷いた。
「察しが良いね。セリスの考えている通りだ。私はあの方を知っている。あの方は『予言の姫』として、国の繁栄や戦勝祈願の為に無理やりイクストゥーラに戻されることさえなければ、愛した太陽と死ぬまで添い遂げただろう。それを人前で明らかにされるわけにはいかなかった父上は、イシス様を閉じ込めた。セリスが育った、あの離宮へ」
それは、セリスを長らく閉じ込めていた狭い世界。そこに漂う先住者の気配は、そこはかとなく感じていた。
自分の前に、かつてそこに誰かがいたのだ、と。
そのひとは、月と太陽の愛し合う本を、隠し持っていた。
(でも……「幸福の姫君」が力を発揮するのは、伴侶を選んだとき。だとすれば、太陽王を失ったとしても、イシス様は誰かを選ばなければならなかったはず。離宮に、ただ閉じ込められただけではなく、イクストゥーラの益となる誰かを、再び選ばされたのでは……)
不本意な帰還をしたイシスは、月の国の戦勝祈願に立つことはなかっただろう。実際の政に使えない彼女にできることはひとつ。
強制的に、選ばされる。この国の人間から、「覇王」たるべきひとを。
(心が伴っていないのに……。何をすれば、選んだことになる? 本人の発言を封じ、人前に出すこと無く……)
セリスは、無言のまま自分の唇に指で触れた。
ラムウィンドスと最後に会ったとき、口づけを交わしたことを思い出した。
――もし選ぶなら、ゼファードを。
どくん、と心臓が鳴った。
兄妹の契りなど。
しかしそれが一番、考えられ得ることでは。
「兄様。イシス様は、わたしと兄様の父上の妹君ですね? アスランディアの滅びとわたしの生年はほとんど一致しています。……わたしの、母はどなたです。兄様の母とわたしの母は別の方ですか? わたしの母は……イシス様ではないですか?」