異国へ(後編)
(アーネストの献身は、私が「幸福の姫君」だからというだけでは、説明がつかないように思います)
砂漠へ向かうことを、ゼファードに納得させるまでにかかった三年の間、王宮で暮らしたセリスは、まざまざと実感したのだ。「幸福の姫君」は大切にされているというより、どうも「扱いにくい存在」として、遠巻きにされているようだと。
少なくとも「幸福の姫君」であるというだけで、無条件に民から忠誠を捧げられることなど、ありえない。
しかも王宮を飛び出してしまえば、セリスはもはや「月の姫」としての利用価値もない。そうであるにもかかわらず、アーネストが旅に同行してくれたのは、セリスにとって感謝とともに戸惑いもあった。
だが、旅の途上、王宮で過ごしていたときよりも密に彼と接する中で、不意に気づいた。アーネストは、自分ではなく、忠誠を捧げた唯一の相手の言いつけを守っているに過ぎないのだと。
その人はアーネストにとって、現在の主君であるゼファードよりも重く、判断を左右し背中を押す存在であったに違いない。たとえいまは、側にいなくとも。
──姫を守れ。
彼にそう言い残して、月を去った人。
その約束故に、アーネストはセリスを守っている。
自ら砂漠の国へ、彼の元へ行きたいと申し出たセリスの我儘を叶えるべく、祖国におけるすべてを擲って同行してくれた理由は、それしか考えられない。
「……ついに来てしまったんですね。アルザイ様のおひざ元」
セリスが呟くと、アーネストも「せやな」と小さく言った。
「旅の終わり、な。あのアホンダラはどう落とし前つけてくれるんやろな」
敬愛の表現というには無理のある名で、アーネストは彼を呼ぶ。
(アホンダラ……と、言われても仕方ないと思います。ラムウィンドスに対しては、私もひとことでは言えない思いが)
三年の月日は、決して短くない。
初めは無名の一兵卒として、マズバルの軍に放り込まれたらしい元イクストゥーラの剣士が名をあげるには、十分な期間だった。
彼は、燻っているオアシス都市間の小競り合いという実戦に投入されては、相応の戦果をあげた。
或いは、地下水路の構築に関わり、指揮官としての能力を発揮することもあったという。
アルザイの後ろ盾があるにせよ、目覚ましい勢いで頭角を現して、隊商都市マズバルの要職へと駆け上がったのだという噂は、月の国まで届いていた。
(旅の終わり……。この旅はあの人に会えば終わるんだろうか)
その名が聞こえるたびに、ゼファードが顔色を悪くしていたのを知っている。
彼が「王子の敵になる」そう言った日が現実になるのもそう遠くないと、セリスも思い知った。
ゼファードは、外交的手段で止めようと奔走していたようだが「アルザイ様は止められない」とこぼしていた。
――ならば、私が行きます。お兄様が国を出るわけにはいかないのなら、私を行かせてください。私が、アルザイ様と話し合ってきます。
セリスがラムウィンドスの名を口にすることはなかったが、ゼファードはセリスの目的がアルザイだけではなく、彼を止めることであるとも気づいていただろう。最終的にはセリスの言い分を認める形で、国を出ることに同意してくれた。
そうして、セリスはここまで来たのだが。
外交で取り合わないアルザイが、正面から名乗りを上げても会ってくれるかどうかはわからない。そもそも、王宮に近づくことすらできないに違いない。
(それでも、どうにかして会わねば……! 会えば私が本人であることはわかるはず。ラムウィンドスもいるのですし)
ぶらぶら歩いているようで、屋台を冷かして品定めしていたアーネストが、ふと思い出したように言った。
「今日は宿でゆっくりしような。姫さんと砂漠で見た星空はなかなか格別やったけど、今晩は寝床で熟睡するわ」
冗談めかした口調に、セリスも笑って頷いた。
「ずっとアーネストには頼りっぱなしでしたからね。今日は僕が寝ずの番でもいいですよ?」
「無理しなくていいんやで。姫さんの寝顔を見られるのも、俺の約得――」
不意に、アーネストは足を止める。セリスをかばうように、一歩前へと出た。
「旅の方、何かお急ぎですか。少しお話しませんか?」
雑踏の音が不意に遠のき、その声がやけにはっきり耳に届いたのは、おそらく明確に自分たちに向けられているせいだろう。
アーネストの正面に、見知らぬ相手が立っていた。