異国へ(前編)
四方を高い壁に囲まれた、隊商都市マズバル。
旅人を招き入れる、青いタイルで彩られた壮麗なる門をくぐれば、プラタナスの並木道がゆるやかに続いていて、その周囲には日よけの布を屋根にした店や屋台が立ち並んでいる。
「緑がすごい……。壁一枚隔てただけで、まるで別世界みたいに空気が違う。ここは本当に砂漠?」
マズバルまでの道行きで、行動を共にした隊商に別れを告げて、汚れた旅装で連れ立って歩き出した旅人が、周囲を見回して呟く。
通りには、串刺し肉の店から美味しそうな匂いの煙が流れ出している。そのすぐそばには果実水の屋台もある。早速、その場で我先にと店に立ち寄る者が多く、どこもずいぶん賑わっていた。
道を行き交う人の量が、これまで旅人たちが通り過ぎてきた他都市と比べて、明らかに多い。
「地下水路の事業が功を奏しているってのは、ここまでずいぶん聞いたんやけど、こういうことなんやな」
背の高い青年が、独り言に応えるように言った。
地下水路。
砂漠の諸都市は、緑のオアシスを起点として、地上をつなぐ細い道と地下水路によって結ばれている。
水に恵まれぬこの地で、人が生きていくための命綱だ。
ぼんやりと町並みを見ていたいまひとり、小柄な方の旅人が、書物を読み上げるように言った。
「ひとくちに『砂漠の国』と言っても、東と西ではここまで違うんですね。僕たちがイクストゥーラを発ったときには、しばらく砂の砂漠が続きました。しかしここマズバルは西の『土の沙漠』。砂漠は不毛の地ですが、沙漠は灌漑次第で農業が可能……。地下水路は、東側では『生存及び農業の前提条件』として進められているのに対し、西側では『農業収穫量の増大』と、意味合いが異なっている、と。オアシス諸都市を束ねている連合主『砂漠の黒鷲』アルザイ様のマズバルは、山麓部からの導水に成功し、農業生産が飛躍的に向上したとのことですが。これは、噂以上です」
人々の話し声や子どもたちの笑い声が、絶えることがなく耳に届く。
圧倒的に、豊かで栄えた都市だ。
「あんまり立ち止まってると、田舎者丸出しやで。カモられるわ」
彼にぴたりと張り付くように立っていた長身の旅人が、油断なく周囲に視線を滑らせつつ小声で警告を口にした。
「そうですね。今日の宿を探しましょう」
その提案に対して彼は頷き、歩き出した。
人目をひく二人組である。
小柄な方の旅人は、顔半分を布で覆い、髪も白の布でまとめている。それ自体は、日差しの強いこの国ではさして珍しい装いではない。晒しているのは、長い睫毛に彩られた夢見るような翠のまなざしのみ。額にわずかにこぼれた髪は銀。華奢な体躯で、少女とみまがうなりであるが、もとは白であったと思われる薄汚れた旅装は男物であり、少年のようである。
一方の青年は、顔を隠すことは一切していない。頭に巻き付けた布からは蜜色の髪がこぼれている。強い日差しによって肌は焼けていたが、青年の美貌を損なうことはなかった。鼻梁の通った秀麗な顔立ちは、整い過ぎているがゆえに一見すると女性とも男性ともとれる繊細さがあったが、着古した旅装からでも知れる鍛え抜かれた身体が、彼を男性に見せる。
「お腹すいてるよな」
「そうですね! せっかくなので、何か美味しいものを食べましょう!」
青年が声をかけると、すぐさまもうひとりが弾んだ声で答えた。
「串刺し肉と、パンの薄焼きに野菜を挟んだものがあった。あとはミント水で」
「やっぱり、目を付けていましたね」
少年が屈託なく笑う。青年は艶やかな笑みを浮かべて、少年の手袋に包まれた手を取った。
「俺から、離れたらダメやで、姫さん」
青年の青の瞳に真摯な光を見て、少年は頷く。
そして、目だけで微笑みながら、青年を見上げた。
「離れるわけがありません。あなたがいなければ、僕は生きていられませんから。この、何も知らない土地で。すべて、アーネストのおかげです」
――太陽王家の血を持つ青年が、月の国を出奔してから、三年の月日が過ぎていた。
その間、残された月の姫は、彼に教えられた通り鍛錬に励み、学ぶことを続け、そしてついに国を出た。
オアシス諸都市連合の長、「砂漠の黒鷲」が治める隊商都市マズバルを目指して。
(離宮育ちで、三年間は王宮で暮らしたとはいえ、人並みと言えるかどうか怪しい程度の常識しかない私が旅を続けて来られたのは、同行を買って出てくれたアーネストの用心深さのお陰……)
そのアーネストは、マズバルに入って以来、素顔をさらしている。通り過ぎる者たちから、視線を感じるのはそのせいだ。
「旅をしてつくづくわかったんですけど……、アーネストの美貌ってかなり『特殊』ですね」
「今更やな」
「ずいぶん長いこと旅をしてきましたけど、一人も会いませんでした。アーネストみたいな人。男性をほとんど知らない僕の目は、そんなに信用できたものではないですけど。でも」
ちらりと、青年、アーネストが肩越しに振り返った。
出会った頃は全然気づいていなかったのがそら恐ろしく感じるほど、蠱惑的な視線を投げて笑っている。
(あの目は、きっと面白がっている。こういう時に、何か気の利いたことが言えたら良いのですが)
「アーネストって、本物の美形なんだなってわかりました。『傾国の』というのは、アーネストのことを形容する表現じゃないかと」
精一杯の表現だったが、アーネストは目を細めて、口の端を釣り上げた。少しだけ人の悪そうな顔になる。
「俺なんか、どれだけ長いこと姫さまと一緒にいても、あの人には敵わん。国どころか女の一人も傾かんわ」
「うーん? アーネストの場合は、そもそも女の人を傾ける気はないんじゃないですか」
なんだか弱気だな? と、セリスは首を傾げた。
これまで二人ではるばる旅をしてきて、アーネストにその気があればどうにでもなっただろうという場面は老若男女問わずあった。
思わせぶりな誘いから、力づくの夜襲まで数限りなく。
それを、容赦なく断ち切り続けてきたのは当のアーネストである。
強引に誘われれば「それは俺に言ってる? それともまさか、俺の連れに対して言ってる?」と笑顔の下に恐ろしい気配を漂わせてばっさりと断り、夜襲を受けようものなら問答無用で剣で応えていた。
(潔癖なのだと感じましたが……怪しい誘いだけではなく、女性から本当に切実に迫られていたこともあるみたいですし。連れ、という邪魔者がいければアーネストだって少しくらいは……。『女の一人も傾かん』というのは、さすがにアーネストの思い違いではないかと)
アーネストは、無言のままつないだ手にぎゅっと力を込めてくる。心強い、彼なりの気遣いだ。
そうやって、アーネストはずっと、イクストゥーラからマズバルまで、少年に扮したセリスを守り続けてきてくれたのだ。