別離には、笑顔で(前編)
口づけは、はじまったときと同じく、唐突に止んだ。
気がついたらセリスは強く締め付ける力からは解放されていた。
「ラムウィンドス……」
背後からセリスをやわらかく抱きしめたまま、ラムウィンドスがそっとセリスの手をとり、指を絡めた。
その指は優しかったが、率直で直截な物言いは相変わらずだった。
「姫。俺は謝る気がない。叶うことならこのまま、姫のすべてを奪ってしまいたい。他の誰かなんか選ぶ気がなくなるほど、俺を見ればいい。俺は冗談を言う趣味は持ち合わせていないので、これはすべて本音だ」
セリスはつないだ指先に少しだけ力を入れた。すぐに、より強く握り返された。それだけで胸がいっぱいになる。
「とはいえ、俺は自分がそれを望める人間ではないことを、知っている。本音を隠し通す自信があった。姫が誰を選ぼうとも、ずっとそばで守り続けることもできるだろうと……そう思っていた」
理解が追いつくのに、少し時間がかかった。
(「思っていた」というのは「できなくなった」という意味ですか? どうして)
間合いをはかっていたかのように、ラムウィンドスは続けた。
「今晩が最後だ。明日から、俺はここにいない。姫のことは、アーネストに任せることになる。俺ほどではないが、あいつは十分に強い。信頼して欲しい」
「意味が、わかりません。あなたはもう少し、わかるように話すべきだと思うのです」
声を震わせて、セリスは肩越しに振り返る。
月の光を背にした、ラムウィンドスを見上げる。有無を言わさず唇を奪い、それよりもずっと前に心を奪っていた男。
セリスが、選んでしまったかもしれない相手だ。
(世界を繁栄に導く、覇王――)
目が合うと、少しだけ気遣うような視線をくれる。寂しい顔をしていた。
「姫にはまだ難しい話かもしれない。だから、そういうものだと思って聞いておいてくれ。俺は明日の朝早く、アルザイ様とともに、この国を発つ。アルザイ様が連合の長に立つにあたり、信頼できる部下が必要ということだった。俺はあの人に恩があるし、この国を出る良い機会だとも思って、受けることにした」
「兄上やわたしのことは、どうなりますか」
見捨てるのですか。
その言葉を、セリスは気力で飲み込んだ。
見捨てる気ならアーネストに引継ぎをしないし、こんな話をしにくるわけがない。彼なりに筋を通しているのだ。
ただし、決断に口を挟ませる気はない。これは別れの挨拶ということらしかった。
珍しく、ラムウィンドスはためらいがちに切り出した。
「姫に、ひとつお願いがある」
「なんでしょう」
これ以上声が震えないように、短く返す。
ラムウィンドスは、一度咳払いした後、言った。
「もし選ぶなら、ゼファードを」
「それは……」
「俺は王子を守ることもできなくなる。間もなく王位を継ぐ王子にとって、周りからひとがいなくなることがどれだけの痛手か。それだけでなく……俺が王子の敵にまわる」
「意味がわかりません」
(「俺を見ればいい」そう言ったそばから、違う男を選べという。そして、敵にまわるなどと……! わたしに、どうしろと!)
他国に渡った上でゼファードの敵になるということは、つまりセリスにとっても敵になるということだろうか。
頭の中で、今日読んだばかりの『歴史』の本の文字がぐちゃぐちゃに駆け巡った。いくつもいくつも駆け巡る中で、セリスはひとつの文章を拾い上げた。
「た、た、か、い、の、火蓋が切って、落とされる」
「……アルザイ様に聞いたか。そのとおりだ」
「そのとおり、だとは……」
「アルザイ様が俺を必要としているのは、軍事面での強化が急務だからだ。もちろん、それは戦争の始まりを意味している。おそらく、アルザイ様の頭の中には、イクストゥーラの攻略もあるはずだ」
「そこまでわかっていて、アルザイ様と行くというのであれば、本当に敵になるという意味ではないですか!」
戦い、滅ぼし合う。そのつもりでラムウィンドスは砂漠へと行く。
「わかっているからこそ、俺は行かないわけにはいかない。事態が大きく動くとき、渦中に飛び込まねば、結局何も変えられないからだ。ゼファードには、姫を残す。予言によって選ばれた姫がそばにいれば、或いは王子にも勝算があるはずだ。ここから始まる、動乱の時代に、生き残っていくだけの」
「一緒にたたかうという道は、ないのですか」
何か、恐ろしいことが起きる予感があるのに、止められない。
この無力感はいったいなんだろう。
ラムウィンドスは、厳然として首を振った。
「それはありえない。アルザイ様が俺を必要としているのは、イクストゥーラの剣豪だからじゃない。いまは亡き国の生き残りだからだ。俺のその出自が一番有効に発揮されるのは、仇である対イクストゥーラ戦であって、その逆はない。俺は、残れないんだ。月の人間ではないから」
ろくに理解が追いつかないのが、セリスはもどかしくて仕方ない。
亡き王国の生き残り? 仇? 対イクストゥーラ戦?
「わからなくてごめんなさい、わかりたいの。本当にわかりたいの……!」
謝るのも卑怯に思えて、セリスはそこで絶句した。
ラムウィンドスは、セリスの手をそっと持ち上げると、手のひらに唇を寄せて口づけた。それから「うん」と穏やかに肯いた。
「姫の言いたいことは、俺でもさすがにわかっているつもりだ。笑って送り出して欲しいとは言わない。ただ、もし叶うことなら、あなたの笑顔を最後の思い出に欲しい」