月が見ていた(前編)
夜空には、白く大きな月。
滴るほどの光が、辺りを優美に照らし出していた。
肩に布を掛けただけでバルコニーに出たセリスは、手すりに手をおき、空を見上げた。
「イクストゥーラ……」
月の娘。そして、この国の名。
どうしてもっと早くに気づかなかったのだろう。
イクストゥーラという名の国があるなら、アスランディアという名の国もあるのではないかという可能性に。
それは、セリスが無知だからとか特殊な育ちだからとか、それだけが理由であるはずがなかった。
もっと根深い。
離宮に一冊も『歴史』を記した本がなかったのと、同じ理由。
(おそらく、あの絵本だけは、何かの拍子に紛れて見逃されてしまったのね。あの一冊がなければ、私はアスランディアという言葉も知らなかった……)
どうして、なぜ、それほどまでに隠されたのか。
そこに巨大な悪意のようなものを感じてしまい、セリスは弱気になりそうになる。無駄なことはおよしなさい、知らないほうが良いこともあるのだと、何者かに囁かれているような感覚。
その囁きは、十五年間、セリスを抑え付けてきたもの。
唇をかみ締めて空を見上げて、セリスは己の中から湧き上がってくる弱さと戦う。
(ここで負けてはだめ。わたしは、なんのために王宮に来たというの。目を瞑って、見たくないものを見ないためじゃない。それなら離宮にいた頃と変わらない。変わらないままでいていいわけがない……!)
王宮に来てからすでに、十五年の間に会ったひとよりも多くの人に会い、多くのものを見た。
そのことによって、自分は変わる必要があった。
「だってわたしは、もう、『離宮の姫』じゃない。『幸福の姫君』なのだから。自分の辛さから逃げて、目を瞑って耳を閉ざして、守られるだけじゃだめ。絶対にだめ」
たとえばいまのセリスは、剣の持ち方を知っている。他国で必要とされる言語も学び始めた。そして「歴史」に触れた。
なんのために。
なんのために?
それはきっと、「幸福の姫君」だからだ。
出会う者すべてに幸福を差し出せるほどに、何があっても揺らがないセリスであるために。
強く、逃げない存在であらねばならない。
そして、笑っていなければならない。
――王族のつとめは人々に笑みをふりまくことだ。ことに、あなたは幸福の姫君。あなたを目にする誰もが、あなたの笑顔を望んでいる
そうあのひとが教えてくれた、だから。
失望されたくなかったし、喜んで欲しかった。
あの人に「それでいい」とほめてもらいたかった。そのためには、何があっても弱気な振舞いを自分に許したくなかった。
そうすることで、いつまでもあのひとにそばに居て欲しいのだ。
そこまで考えた瞬間、セリスは息を呑み、口をおさえた。