天何ゆえに我らを砕く(前編)
王者の顔に浮かぶ苦々しい表情を見て、エスファンドは小さくふきだした。
「私の何を、お疑いなんですか」
笑いを含んだ声は軽やかで、裏など感じさせない。
黒衣の王アルザイは、執務室の窓際に立ったまま、肩越しに振り返りエスファンドの目を見つめる。
並み居る廷臣を黙らせる強いまなざしだが、この相手には通用しないことをよくわかっているだけに、見ているだけだ。ただ少し、探るように伏目がちに。
異変の予兆はない。
いつも通りの温厚な賢者の顔。
それなのに、少しだけ、何かが、違う。決定的な何かが。
賢者の胸中には、夜空のように果ての無い無限の思考が広がっている。
余人の及ばぬ、誰の手も届かぬ場所にただ一人立つ男だ。
彼は自らを知識と思考の虜とした。己のすべてを、世の難問を解くことにだけに捧げている。
もしそのあらゆるものを見通す目を、今現在彼がもっとも距離を置いている世界に向けていれば。
覇道に踏み出していれば。
千年の後に名を届ける学者にはなり得ずとも、百年の歴史を変える王になったのではないだろうか。
彼はアルザイが懐に抱え込んだ、苛烈な激情家である太陽王家に比肩する。
時に、飼い殺せぬ獣の目をする。
今がその時だ。
アルザイの探るまなざしの意味を正確にとらえているだろうに、鳶色の瞳の賢者は穏やかに語り出す。
「ずっと不思議に思っていることがあるんですよ。最後の審判で人を裁くという『神』について。もし人間が、全知全能である神の作り出し給うたものだというのならば、なぜ神は瑕疵をつけたのでしょうか。初めから、いかなる罪も犯さぬ完全な存在として作れば良かっただけではないですか。なのに、なぜ神は予知せず、不完全な人間をこの世に放って、わざわざ最後の日に焼くのでしょうか」
アルザイは、身体ごと向き直って、対峙する姿勢をとる。
エスファンドの凪いだ表情を、深遠なる瞳を見つめて口を開く。
「どれほど熟練の陶工でも、釜から出した皿に罅割れを見つけることはあるだろうし、そのときは地に叩き付けて割るだろうな」
「アルザイ様。神を陶工にたとえるとは、私以上に問題ですよ」
だめですよ、と窘めるかのように微笑んで言うのが、いかにも食えない。
「自分の発言が問題だという程度の認識はあるのか」
「宗教家に聞かれたら殴られるでしょうね。あなたは? 私を殴りますか?」
「隊商都市は多様な宗教を内包する。中には『無神』を崇める者もいるだろうさ」
「私はそこまで過激なつもりはないんですけどね」
そう言うエスファンドの顔から不意に笑みが消えた。まなざしに剣呑なものが閃く。
その表情の変化を見て、アルザイは確信を深めた。
(この男には、何かある)
「アルスがいやにあっさり去ったのが気になっている。エスファンド導師もアルスとは懇意にしていたはずだが。あの晩はどこに?」
予期していたかのように、エスファンドは落ち着き払って答えた。
「行きつけの宿の四阿で震えていましたよ。嵐が去るまで生きた心地がしませんでした」
嘘だ。アルザイの嗅覚が、その気配を探り当てる。
「王宮に、アルスと懇意にしていた者がいる。知っているだろう、ナサニエルだ。太陽神殿はそれなりに層が厚い。あの鷲使いを後継にするなどというふざけた申し渡し以外にも、アルスの仕込みはまだ何かあるはずなんだが」
これほど直截的な問いかけに、食わせ者のエスファンドが答えるわけがないと知りながらも、微かに苛立ちを乗せて言った。
如何ほども気にした様子もなく、エスファンドはわずかに目を細めた。
「鷲使いは良い若者だと思いますが。あなたによく似ている」
「あれがどうというより、太陽神殿の実権が今どこにあるかだ」
「さて。案外、太陽神殿は太陽王家が率いているのではないですか」
(なるほど。ここはすっとぼけて、ラムウィンドスになすりつけるか。たしかに、太陽神殿の真の支配者が、まさか自分であると打ち明ける気はさらさらないだろう。俺もアルスが去るまで、この男に疑いの目を向けたことはなかった)
「まあ、いい。俺を裏切るなよ」
答えるわけがない相手を問い詰めても無駄とばかりに、アルザイは目を瞑り額を拳で支えながら強く押す。
その仕草から目を逸らさずにいたエスファンドは、冷え冷えとした声で言った。
「陶工であるところの神が、土塊をこねて私を作り上げたときに、叛骨というものを混ぜ込んでしまったようです。ちょうどこの辺に」
自らの胸に手をあて、射抜く視線をアルザイに向ける。
「私は、今より善き存在にはならないでしょう。王が私に二心を見出す、その時がきたら、砕くのがよろしいかと」
片目を開けたアルザイは、呆れたような溜息をついてみせた。
「神は陶工ではないし、お前は女の肚から生まれたはずだ。下がれ」
どんな隙も与えぬ命令に対し、エスファンドは胸に手をあてたまま深々と頭を垂れた。
「御意」