天国なんかいらない(後編)
アーネストが腕を振り上げて袖に絡みつくリーエンの手を払ったのと、リーエンがアーネストの腕を突き飛ばしたのは、ほとんど同時だった。
(毒みたいな奴や。毒そのもの)
血の流れにのって全身に回り、骨の髄まで染み込むような囁きを注ぎ込まれた。
アーネストが睨みつけても、青年は笑みを浮かべたまま。
悪びれなく、歌うほどの朗らかさで言った。
「そういう嘘、嫌いなんです。こんな、いつ死ぬかも知れない今を生きているくせに、自分を偽ってなんになるんですか」
「アホ。あの人はオレがどうこうしていい相手やない。心があるし、先のことも考えている」
「先? そんなに長生きできるつもりなんですか?」
「なんやと」
のせられてはいけない。こいつは何かがおかしい。
頭ではわかっていた。
だが、自分の中に渦巻く欲望を引きずり出されて、解き放たれたような忌まわしい感覚が消えず、動転していた。
とにかく、打ち消さなければ。
認めてしまったら最後、体の深いところに欲望の火が灯ってしまう。消せない。
「好きなひとと……まぐわうというのは、良いですよ。死後、天国になんか行けなくていいって思います。現世でこれ以上ない幸せを味わえるから。あるかないかわからない、不確かな天国なんか」
思わせぶりに声をひそめながら、蠱惑的に目を細めて見つめてくる。その目を見たらいけないと、わかっているのに。
「あの人にそれを与えてやれるのは、オレやのうて」
「本気でそんな誤魔化しを口にしているのか?」
ただその一言に、追い詰められる。
リーエンはずっと得体の知れない笑みを浮かべているのに、自分の余裕のなさときたら。
口の中が干上がっている。脅威なんか感じていいはずがないのに、手足に震えがきそうだった。
(否定しろや……。こいつだってわかってるはずなのに……っ)
セリスを同僚として間近に見ていたのなら。その目が誰を追いかけているのか。
それなのに、なんで自分がこんなに揺さぶられなければならないのだ。
「マリクのあの姿を見て理解しました。あれは狙われ、奪われる『女』です。本人にその自覚はないみたいですけど。あの人を巡って戦が起き、国が傾いても不思議はない。あなたの手が届くうちに手に入れてしまった方が賢いのでは?」
「なんやの」
(こいつはどうしてここまでオレを焚き付けてくるんや。悪夢だ)
顔を強張らせて悪態をつくアーネストに、今一度距離を詰めて青年は言った。
「あの夜。僕は叶わぬ恋を手に入れてしまいました。だから言うんです。あの時までの僕と同じように、恋しい人は決して手に入らないと決め込んで、苛むだけの運命に従順であろうとするあなたに。なぜ? それで何が得られるんです? まさか、良い人のまま死ねば、天国に行けるって信じているんですか?」
「天国……」
刃物を突き付けられたわけでもないのに、敗北感に打ちのめされたアーネストに対し、リーエンはダメ押しの如く囁いた。
「男と女ですることは、とても気持ちがいいですよ。あなた、マリクに愛される喜びを与えてあげたいと、思わないんですか……?」
聞いてはいけなかったのだ。
悟ったときには遅かった。
黒髪の青年の放った呪いは、アーネストの心の奥底に達し、しっかりと刻み込まれてしまっていた。