月の囁き(後編)
「誰か、とは」
試すように問われて、考えにふけっていたセリスは顔を上げる。まっすぐに、ナサニエルを見つめる。
「マズバルが今、身動きがとれないのはわかりきっていることです。東国と、アルファティーマがぶつかるように仕向けるか。或いは、アルファティーマを月の味方とするか。策略ではなく、信頼を得ることでひとを動かせるひとがいればいいのに」
途方もない話をしてしまっていることには、気づいている。
ナサニエルの眼鏡の縁が、きらりと光を反射した。セリスを見つめて、口を開く。
「東国の望みは、アルファティーマが西の帝国ローレンシアを落としてしまうことだと思いますよ。格調高くありたい東国にとって、歴史を持つ古き帝国というのは、とかく目障りなものです」
「もしアルファティーマがその思惑通りに動くとして、帝国と月を同時に攻めるということですか? ずいぶんと余力があるんですね」
ふっと、ナサニエルは息を吐き出した。馬鹿なことを、とでも言うように。
「その気になれば、月は一日で落とせるでしょうからねぇ」
話にならないです、と言われている。セリスもその見方を認めた上で、さらに問いを重ねた。
「一日で落とすつもりだったのに、一月かかったら諦めるでしょうか?」
「アルファティーマとしては、予想外の抵抗は無茶苦茶むかつくだけだろうなとは思いますが。諦めません。いきりたって襲いかかるでしょうねえ。処女を凌辱して嬲り殺す暴徒のように、月は完膚なき叩きのめされて、草木の一本も生えぬ不毛の地とされるでしょう」
露悪的な表現を聞き流し、むかつくのか……と、セリスはナサニエルの言を得て考え込む。
「東国は、どうしてそこまでアルファティーマを買っているんですか。いえ、飼いならせるとして、甘く見ているというべきでしょうか。彼らは、急襲を得意とする騎馬民族ですよ。こちらが片付いたら、東国まで攻め上って落とそうとするのは目に見えています。東国は、未来の敵を育てているだけです。これでアルファティーマが緑豊かな月の国まで得てしまったら始末に負えないではありませんか。それくらいだったら、月の国のことは、いっそ東国の属州として押さえるか、砂漠の預りにして容易にアルファティーマに活用させない方がいいように思われます。砂漠と草原が睨み合っているうちは、東国にも余裕があります。月を自分たちでおさえてもいいはず。……さらに言えば、帝国は生かさず殺さず目障りな状態で残しておけば、草原の牽制になるはず」
セリスの長広舌に耳を傾け、今度はナサニエルが考え込むようなそぶりをした。
「それを……東国で理解している人間がいれば、月の国が生き残る道はあるかもしれませんが……」
「先日の隊商の東国人の皆さんは確保しているわけですし、使者として東国へ帰して説得してもらうわけにはいかないんでしょうか」
ああ、それはだめです、とナサニエルはそっけなく言った。
「大国の主が、『作戦を失敗』して逃げ帰ってきた者の話に耳を傾けるわけがありません。彼らは隊商都市を落とすことはできていませんし、ローレンシアに『朝貢品』を届けてもいない。すなわち、朝貢品に見せかけて、ミトラス大帝の壁内にアルファティーマ人を送り込む任務にも、失敗している。これはどうも、アルファティーマ内での対立のせいもあったみたいですが」
「では、もっと手っ取り早く、アルファティーマと東国の間で衝突が起きればいいのかもしれません。もはや同盟は無いと、戦時下の緊張状態に陥れば、アルファティーマは東国を警戒せざるを得なくなります。月へ手を出している余裕がなくなるのでは?」
東国人に兵を持たせて、アルファティーマの末端と争いを起こすして不仲を引き起こす……。絶対にできないこともない案だが、すべて人頼みだ。人間は、そう都合よく誰かの思惑に沿って動くことはない。
ナサニエルのなんとも言えない視線を受けて、セリスは大きく溜息をついた。
「月の国に、せめてきちんと『防衛』できる軍事力があれば……」
「概ね、君の考えはわかりました。現状の国際情勢に関して、認識事態は悪くない。しかし、何がなんでもゼファード王を救うと感情的になっているかと思ったけど、そういうわけでも……ないのですか?」
セリスは言葉に詰まる。
兄王を助けたいとは思っているが、それを喚いてもどうにもならないのは知っている。
「わたしの感情で誰かを従えることなどできません。わたしにできることがあるとすれば、向き合った相手に対して声を届けることができるという、その一点だと考えています。ですが、届けるべき声、つまりきちんとした策がなければ動きようがありません」
「本当にそう思っているの? 女を使えば? あなたは、抱くだけで運勢が上がる奇跡の姫でしょう?」
言われた瞬間に、セリスは逃れようとした。
背を向けるわけにはいかないと、ナサニエルに向かってその横を通り過ぎる。腕をとられそうになり、身を捻じる。が、足を払われて体勢を崩したところで腕の中におさえこまれ、口は手でふさがれていた。
ぞくりと全身に悪寒がはしる。
耳元で、ナサニエルが囁いた。
「君は『幸福の姫君』でしょう。砂漠の王の手を取り、つま先に口づけて、見苦しく願えばいい。祖国を救って欲しい、と。黒鷲は君の言うことなら聞くのでは? 或いは……、サイードに身を委ねてみるという手も」
「そんなことしませんっ」
口に蓋をしていた手をわずかに浮かされて、セリスは噛みつく勢いで言って首を捻り、ナサニエルを睨みつけた。
ナサニエルの青の瞳は、限りなく冷たくセリスをとらえていた。
「『策』って何ですか。自分を軍師と勘違いしているんですか。確かに、勉強はしているみたいだけど、その程度多少の頭があれば誰だって考えられる。無意味です。それより、自分にしか出来ないことを考えて。サイードはきっとあなたを望む。生涯の伴侶としてか、一夜の遊びかは知らないけれど。閨でその可愛い顔で泣いて願い出ればいい。兄上を、殺さないで、って」
肘で体の一部でも打ち据えようとしたら、かわされる。
セリスは素早くナサニエルから離れて、距離をとる。
「姫君が望むなら、サイードの元まで送り届けるのもやぶさかではない。考えておいてほしい」
「あなたが誰なのか教えてください」
書架にもたれかかって、微笑みもせずに見返してくるナサニエルを睨みつけて問う。
一つ頷いて、ナサニエルは形の良い唇を開いた。
「アルスの件は正直管理不行き届きだった。神殿内で粛清を行っていたら少々時間がとられてしまったが、今後は動ける。用があるときは呼べばいい」
実直そうに言い終えて、身を翻す。
すぐにセリスが追いかけ、書架の間をめぐってみても、ついにはその姿を見出すことはできなかった。