月の囁き(前編)
「月の方?」
書架の間から、その人は気配もなく現れた。
声をかけられて、セリスは顔を上げる。
(銀?)
目の前の人物。そのターバンからこぼれていたのは、艶やかな銀の髪。細面に銀縁の眼鏡をかけており、青い瞳がまっすぐ見下ろしてきていた。
肌の色は白くなめらかで、砂漠の人よりも月の民に近い印象を受けた。
「あなたは……?」
問い返すと、声をかけてきた相手は、眼鏡の奥の瞳に柔和な光を浮かべた。
「ナサニエルと申します。調べものがあったんですが……。君のその髪が気になって」
指摘されて、セリスはごく慎重に言葉を選ぶ。
「あなたの髪も、珍しい色ですね」
「そうですね。月の王家にしか出ないと言われている色です。私は傍系というか、血筋的にはとても遠いのですが。たまたまこんなにはっきりと出ました。君も?」
さらさらと流れるような耳に優しい声で、つい頷きそうになったが、軽く笑うにとどめる。
(聞いていない。王宮に月の王家のひとがいるなんて。アルザイ様は言い忘れただけ?)
調べものがあってと書庫に入って来たということは、王宮内で行動の自由が許されているひとだ。
本人の言い分を信じれば、セリスにとっては血筋的には遠い存在なのであろうが、これほど外見的に特徴のある人物がいるなら一言いってくれればいいのにとは思う。
互いに、会えば必ず話をすることになるのだから。
(このひとの存在について、わたしに言えない理由か、言わなくても良いという判断があった? それとも……まさか侵入者?)
「僕はエスファンド先生のもとで勉強をしているんです。あなたの調べものはなんですか。この書庫にはよく来ているので、探すのを手伝うことができるかもしれません」
君も? という問いかけには気づかなかったふりをして受け流しながら、さりげなく尋ねてみる。
ナサニエルはふっとあらぬ方に視線を向けて、「ああ」と感嘆めいた呻きをもらした。
それから、すぐにセリスに目を向けた。最前までと特に変わらぬ表情で、言った。
「見つけました。月の姫君」
セリスはほんのわずかに、片眉を寄せた。
その事実は、伏せてはいるが、何がなんでもと隠しているわけではない。
アルザイやラムウィンドスの対応から、察している者がいるのは、考えられないことではない。
それ自体はすぐに警戒することではないはずなのだ。
だが、違和感がぬぐえない。名乗ったわけでもないセリスに対して、あえて指摘してくる意図は?
「なんのために、僕を探していたんですか」
「そうですね……。どうするのかなと思って」
「どう、とは」
これまでに、何人も武勇に長けたひとは見て来た。所作。視線の動き。足の運び方。そこにいるだけで空気が引き締まるような存在感。
知らず、目の前のナサニエルを探ってしまう。
このひとは、何者か、と。
(はっきりとはわからないけれど……。訓練を受けているひとのように、思う)
セリスの緊張を気にする様子もなく、ナサニエルはしずかに言った。
「アルファティーマは近いうちに必ず月を落としに行きます。サイードはこう言ったそうです。『温情のある殺し方をする』と。ゼファード王は死ぬでしょう。あなたの生まれ育った国は略奪の憂き目にあい、街や村に至るまで焼き払われ大勢の民が死ぬ。そのことについて、月の姫としてどうお考えです」
黙って聞いていたセリスは、ふっと息を吐いた。
「月の国は、周辺国との関係を抜きにそれ単体で考えたときに、比較的情勢が安定している国であるとわたしは考えています。王の治世も安定しています。ですが交易、対外的な政策はいまひとつうまくないのかもしれません。交易路上の国や都市は通常、三つの選択を迫られるといいます。すなわち『貿易するか、略奪するか、防衛するか』――周辺国に比べ、武力に後れを取る月は、略奪には不向きですし、いっそ情勢の安定を前面に『貿易する』を選択するべきでした。ですが、閉鎖的な国民性もあり、残念ながら現在は『防衛する』状態です。このままであれば確かに、格好の餌食であるのは間違いありません」
「たしかに。政策の転換が間に合うようには思えませんが」
落ち着き払った様子のナサニエルを前に、セリスは眉をしかめ、額を手でおさえた。
(アルザイ様が言うには……、親の代から砂漠に一大帝国を築くための道は作ってきたと。だけどおそらく、ゼファード兄様は、月がそこに合流するのはもう間に合わないと考えている……。何よりオアシス諸都市をまとめあげる隊商都市が直接草原の民に叩かれたいま、黒鷲の連合の長という地位も危ういはず。月と戦争すると見せかけて、その実対アルファティーマに向けた救援の兵を月へ送る余力なんて絶対にない……)
「誰か動けるひとがいればいいんですが」
思わず、本音がもれた。