紺碧の彼方へ※
砂漠を流れる川は、どれひとつをとっても海に流れ着くことがない。
砂の下を流れ、オアシス都市を潤し、また砂の下へと消えていく。
海は。
あまりにも、遠い。
「あなたは海を見たことがありますか」
耳のすぐそばで、誰かが話している。
穏やかな声に問いかけられる。
引きずられるように眠りに落ちてしまった微睡の中で、うっとりするほどのぬくもりに包まれているのを感じていた。
人間一人の重みと温もりとともに眠るのが、こんなに心地よいものとは思わなかった。
(これはたぶん、このひとが私に危害を加えないと知っているから)
絶対に嫌なら手を振り払って、と言うような男だ。
ライアの実感として、おそらく彼は稀有な部類であるように思う。
マズバルが手痛い打撃を受けたあの夜の被害とは、すなわち略奪、破壊、そして凌辱。
無防備な女が目の前にいても、その意思を蔑ろにせず、力で奪うことはないという彼の誠実さは、驚嘆に値するのではないだろうか。
「海は……。想像もつかないわ」
まだ半分は眠っている。舌がうまく動かない。
「そう。あなたに見せたいな。果てのない紺碧の彼方、空と溶け合う水平線に沈む太陽……。帝都の尖塔に上って見る光景は、胸が潰れそうなほどうつくしいですよ」
「なぜ海の水は乾いてしまわないの? そこでは、誰も水に困らないの?」
目を瞑ったまま尋ねる。
小さく笑う気配が、触れ合った衣服の薄い布越しに、身体へ直に響くように伝わった。
「涸れないんですよね。不思議? だけど、残念ながら海の水はそのまま飲めない」
「涸れない水が目の前にあるのに、飲めないの……?」
それはなんというか残念な、と思いながらようやく重い瞼を持ち上げる。
部屋の中は薄暗い。窓に日除けがなされているせいだ。
そんなに長く寝たとは思えないのだが、身体はずいぶん軽くなっているように思う。
「動物の親子か兄弟のように、私たちはよく寝たよ」
うなじの下に、温かなものがある。おそらく腕だ。腕枕をされている。それが、軽くライアを揺すぶってくる。つられて顔を傾けたら目と目が合ってしまった。炯々とした光を放つ、鮮やかな印象の瞳。
……動物の親子か兄弟のように。
身を寄せ合って、ただただ互いのぬくもりに包まれて。
「疲れはとれました?」
事務的なライアの問いかけに対し、イグニスは目元を緩ませて甘やかに微笑んだ。
「男たちが女性を閨に引っ張り込みたくなる気持ちがわかってしまったよ。何もしなくても、そばにいてくれるだけで、こんなにも元気になれるなんて知らなかった」
微かに髪や肌に残った柑橘系の香りが、ふわりと立ち上る。
ずっとそばにあった優し気で爽やかなその香りは、ゆっくりと空気に溶けて消えて行った。
どちらからともなく身を起こす。
「それは良かったですね。あなたのように忙しいひとは、なんであれ、疲れを解消する方法を知るべきです」
肩にまとわりつく髪を手で背に払いながら、ライアは意識してそっけなく言い、後ろを向いた。
そのとき、寝台が軋むような、沈みこむ感覚があった。
胸の前と腰に、背後から腕を回される。
耳元に吐息を感じた。
「あなただから、ですよ。他の女性に腕枕をしたいなんて思いません。覚えておいてくださいね」
ライアは、どちらの腕だっただろう、と考えて、胸の前に渡された左腕にぐいっと掌を突き立てた。
「痺れてます?」
「……ええ。なんですかねこの仕打ち」
微かに呆れた調子で言われたことに、気付かなかったふりをしてライアは腕から逃れ、寝台から足を下ろして立ち上がる。
(本当に、身体が軽い)
三日分の疲れがたかが数時間寝ただけで吹き飛んでしまうだなんて、そんなことがあるなんて思わないのだけれど。
「会議の開始前に誰かが呼びに来るだろう。それまで、部屋でできることをする」
イグニスもまた、かなりしっかりとした声でそう宣言した。
ライアは思わず振り返る。
「本当に仕事が好きなんですね」
「時間がないだけだ。本当は今すぐにでも、帝国への帰路につきたい」
寝台の反対側に降り立っていたイグニスが、まっすぐに見つめて来る。
ライアはほんの少し身構えた。
しかし、ライアが予想した、いつもの惰性のような求婚はついぞその唇からもれることはなかった。
珍しく伏し目がちになり、彼らしくもないほどためらいながら言って来た。
「あなたに海を見せたいと思ったのは本当。できれば一緒に見たい。帝都から見る海が本当に好きで……。あと、あなたと共にした今朝の食事はとても楽しく満たされていました。あなたの体温を感じながら寝るのも病みつきになりそうです。本当はもっと一緒に寝ていたい。仕事はね、実際、そこまで好きじゃないんですよ。だらだらしたい」
(本音っぽい……)
早口で言い募る様を、ライアは呆然と見てしまう。言葉選びがいつもより芸がなく、稚拙な感じもあって、対応に困る。
その思いがそのまま顔に出てしまったのだろう、イグニスはわずかに苛立ったように言った。
「言いたいことはこれでおしまいです。私はあなたを帝国に連れて行きたい」
どちらかというと、上手いことを言えない自分に本人が一番苛立っているように見えた。
「私、あなたの書記や補佐として結構役に立っていると思うの。そういうところは認めてくれないの?」
ライアはイグニスを見つめて、思った通りのことを言ってしまった。イグニスは瞬間的に目つきを険しくした。
「悪かった。いまのは完全に私人としての発言だった。全部私欲の話をしてしまった」
「そうよね。全部あなたがしたいこと、だった。私の話をしているようで、していなかった。あなたが何をしたいかはわかったけど、私は帝国に行って何すればいいの? って感じ」
イグニスの横で海を見て、一緒に食事をして、寝台を共にする?
とても平和な妄想に聞こえたのだが、帝国は今それほど余裕があるのだろうか。
「待遇の話をしろということでよろしいか。わかった。もちろん君が望むような仕事を考える」
「滅びかけの国ですものね。役職なんか穴だらけかしら?」
「……っ。言うに事欠いてなんてことを! 帝国はまだそこまで落ちぶれてはいない!」
一度言葉に詰まってから猛烈に反発したイグニスを前に、ライアはふわりと笑みを浮かべた。
「それなら良かったわ。意味なく行っても仕方ないもの。宰相殿に付き合ってここ数日働きすぎたせいで、仕事のない生活が想像つかなくなってしまって。わたしにも出来ることがあるのなら、帝国へ行く意味もあると思うの」
渋面となっていたイグニスは「よく言う」と口の端を吊り上げて笑ってから踵を返して背を向けたが。
一拍置いて、振り返った。
光を湛えた瞳が、大きく見開かれていた。
「いまの……、承諾なのか!?」
切れ者の宰相殿にしては、理解が遅いと、ライアは他人事のように考えていた。