束の間の(後編)
足音が聞こえる少し前から、ラムウィンドスのまとう空気が変わっていた。
走りこんでくる騒がしい気配が近づいてくるより先に、それが自分への用件だと心得ていたかのように「行きます」とセリスの耳元に囁く。そっとセリスの身体に手をかけ、絨毯の上にやわらかく押しのけて置いていた剣を掴んで立ち上がる。
「ラムウィンドス様。アルザイ様より火急の件で」
「すぐに」
(そうだ、ラムウィンドスは本来ならこんなゆっくり食事などとっている時間があるはずなくて。というか、自分は結局何も食べていないのでは……!?)
今さらながらに思い当たって愕然としてしまったセリスに気づいた様子もなく、ラムウィンドスはライアに目を向けた。
「宰相殿を寝かしつけて頂きたい。午後の会議に参加してもらう。都市再建計画案読ませてもらった。少し知恵を借りる」
「その貸した知恵は、私に返してくれるの?」
すかさず言ったイグニスに対し、ラムウィンドスは軽く頷いてみせてから、穏やかな笑みを浮かべた。
「ライア様も少しお休みください。宰相殿の悪筆を読み解いて清書できるのは国中見渡してもあなただけだ。倒れられるわけにはいかない」
その声は、思いがけぬほど気遣いに満ち溢れた優しげな響きをしていた。
声だけではない。
表情に乏しい印象のある男だが、決して感情が貧しいわけではないらしい。ほんの少し笑みを浮かべただけで、その秀麗な面差しが柔らかくも華やかなものになる。
人を惹きつけてやまない、強い光を放つ。
黙々と手作業をしていたアーネストがすっと立ち上がった。
「アムルーと、こっちは羊肉と香草」
「もらう」
具を挟んで軽く丸めた薄焼きパンを二つラムウィンドスの手に持たせる。
素直に受け取ったラムウィンドスを間近に見据えて、アーネストがふっと笑った。
「座って食べる暇がないおひとは可哀そうやねえ」
ラムウィンドスもまた、涼しげな目元に笑みを浮かべて、快活な調子で答える。
「あとでお前にも仕事をまわす。待ってろ。やりがいのあるとっておきのを選んでおくから」
言い終えて、ラムウィンドスは一瞬だけセリスに視線を投げた。
すぐに踵を返して背を向けて行ってしまった。
気の利いた言葉一つも言えずに、セリスはただその後ろ姿を見送った。
その横に腰を下ろしたアーネストが、軽く咳払いをしつつ言った。
「あいつ、甘いのも辛いのもいけるで。酒の方はようわからん。飲むこともあったけど、酔ったところは見たことがない」
セリスが知らないであろうことを見越して、ラムウィンドスのことを教えてくれているのだとわかった。
「……わたしがあの人の時間を浪費させてしまいました。食事すらさせずに行かせてしまって」
セリスは深い悔恨の思いを込めて呟くと、「気にしない方がいいよー?」とイグニスが明るい調子で請け負う。
「自分がはしゃいでいたせいで、総司令官殿が食べる時間なくなっちゃったって後悔してるの? あれはあれで息抜きになったでしょ。もともと時間なんかないんだよ、あの男の立場を考えれば。こんなとこにわざわざ顔を出さなくても、食事なんか執務室に運ばせればいいのに」
ライアに脇腹をどん、と肘でつつかれて、イグニスは口をつぐむ。
晴れない表情のセリスが、懺悔のような沈痛な様子で言った。
「わたしが昨日無理を言ってしまったせいだと思います。わたし、ラムウィンドスが座っているところも、食事をしているところも見たことが無いと言ってしまったので。それで、無理やり時間を作って来てくださったんですね。それなのに、全然食事の時間を作れなくて……。アーネスト、あの方に食べ物を渡してくださって、本当にありがとうございます」
咄嗟に立ち食いできるようにパンを渡したあの手際の良さに助けられてしまった、と。
深々と礼をするセリスを、その場の全員がなんとも言えない顔で見つめていた。
……座っているところも食事しているところも見たことがない?
……それを真に受けて、わざわざ時間を作ってきたのかあの男は。
……あの忙しなさ、絶対に無理して来ているだろうに、それもこれも二人で一緒に食事をする為だけに来た?
様々な思い渦巻く中、エスファンドがのほほんとした調子で言った。
「そうかそうか。あの男が座ったり食事したりしたところは見たことがないのに、寝顔は見てしまったか。それはなー、おそらくほとんど誰も見たことがないから貴重だぞー」
「せ、先生っ」
さすがに困り顔で制止したセリスの横で、アーネストが忌々しそうに横を向いていた。
※アムルー……アルガンオイルと蜂蜜、アーモンドで作ったペースト状のもの。