奇跡的な彼女(後編)※
「アーネスト……!!」
狼狽した様子で中庭を突っ切って行こうとしてセリスが、木の下の二人に気付いて駆け寄ってくる。
(姫さま)
呼びかけは心の中だけで、アーネストは素早く立ち上がった。
「どしたの? ずいぶん慌てとるみたいやけど」
「あの、ええと……。慌てていますかねわたし……」
気まずそうに俯いたセリスを、アーネストとエスファンドが無言で眺める。
前夜から今朝にかけて、この少女の身体的内面的に起きたかもしれない変化を、探ってしまっている。
艶やかな銀髪には頭布を巻き付けてある。いつもより丁寧なくらいだ。
(これはあの男やな)
指先に不器用なところのあるセリスには無理な仕上がりである。
服装に乱れたところはなく、足さばきや動きに不自然さはない。
(無理はさせられていない、か?)
久しぶりの逢瀬だったはずだが、一応あの男自制したのか、と変な感心はした。
ただし、まだ心の準備が出来ていない段階で目にしてしまったセリスの姿は、アーネストの心情的にはひどく辛いものがあった。
薔薇色に染めた艶やかな頬や、潤んだ瞳が目に毒すぎる。
「その……、わたし……。わたしが悪いんですけど、ラムウィンドスを怒らせてしまいまして」
「わかった。殺してくる」
「聞いてます!? わたしが悪いんです!!」
「ひめさ……、マリクに『自分が悪い』と思わせるあの男が悪いに決まっとる。殺す」
ゆっくりと腰を上げ、軽く服に着いた草を払っていたエスファンドがすかさず言った。
「殺していい。ラムウィンドスは一度死ぬべきだ」
「先生!? 生き物は一度しか死ねませんよ!?」
目を大きく見開いて言い募る弟子に対して、エスファンドはにこりと微笑んだ。
「そうだね。あの世というのは随分いいところらしい。一度旅立ったものが、こちら側に帰ってきた例を寡聞にして私は知らない。片道だけの旅行きというのならば、忘れ物には気を付けたいところだね」
「先生……ッ。アーネストも……!! わたしが悪いって言ってるじゃないですか!!」
さすがに激昂しすぎのセリスを気遣い、アーネストは腕を組んで見下ろしながら言った。
「何したん?」
「それはですね……」
途端に言い淀んだセリスだったが、アーネストの視線を感じたように左耳をおさえた。
もう遅い。見てしまった後だった。
「それ、いつ? 耳の。……自分でやったの? いや……、誰にされたん?」
声が、自分でもわかるくらいに冷たくなった。
セリスは眉を寄せて、一瞬目を閉ざした。口元を歪ませながら、それでもしっかりとした声で言う。
「あの夜。ラムウィンドスによく似た方にお会いしました……」
あの夜。
それがいつのことかはもちろんわかる。
よく似た方。それも……思い当たる相手はいる。噂話は耳にした。
わからないのは、「会った」という、それが「いつ」のことなのか。
(俺、ずっとそばにいたのに……!?)
片時も目を離さず――そう考えた刹那、閃く。
ほんのわずかな時間なら、離れたことはある。でもまさか。そんな短時間に何が?
「会って……?」
促すと、セリスは頬を引きつらせながら顔を上げ、アーネストの目を見た。
「その人がしていた耳飾りを、わたしの耳に刺されました。とても素早くて……」
セリスは唇を噛みしめる。
悪夢のような光景は、押しとどめようもなくアーネストの脳裏に克明に描き出された。
「なんで……? なんでそんなこと、早く言わなかったん? その場で俺に言えば、後を追って殺したよ!? なんで……? なんで言わなかったん。俺が負けるとでも思った……?」
セリスは眉を寄せたまま、首を思い切り横に振る。
(やばい)
頭の中が冷えていく。
自分でこうなのだから、ラムウィンドスがどれほどの激情を迸らせたかも、想像に難くない。
「まさか、その男のこと、かばったんか……?」
首を振っていたセリスが動きを止める。
その沈黙こそが、何よりも。
やがて、沈み切った様子ながらも、セリスはなんとか説明を試みようと考えたらしく、もどかしそうに口を開いた。
「言えなかったんです。自分でもわからないんですけど……。言えなくて。でも、耳飾りはすぐに外しました。外したのに、捨てられなくて……。今朝ラムウィンドスがわたしの枕元にあるのを見つけて」
アーネストは片手で額をおさえて、呻きながら呟いた。
「最悪やな」
枕元? 枕元であの男が見つけた? 枕をともにしていたらそういうこともあるか。
という、今さらながらの事実にも打ちのめされてはいたが。
おそらく、あの男の宿敵であろう相手が、自分の身に着けていた耳飾りで姫の身体を傷つけていたという事実。しかも、よりにもよって姫がそれを捨てられず、打ち明けることもできないまま持っていただなんて。
(俺やったら、耐えられへん。想像だけできつい。あと「枕元」な。枕元も、きついって)
渦巻く感情に身を任せそうになり、セリスに目を向けると、目を潤ませたまま歯をくいしばっていた。泣くのを必死に耐えているらしかった。
おそらく、「自分でもわからない」は本心なのだろう、と付き合いの長いアーネストは一応理解できる。
(俺が離れた隙やからね。言えば俺が責任感じるだろうとか……。あとは、いいようにされた自分が情けないとか。そんな「くだらない」理由で大将首を逃がした負い目とか……)
色々あるんやろうな、と。
頭ではわかる。
そして、セリスの性格上、アーネストに対して「あなたに責任を感じさせたくなかった」とは面と向かって言えないだろうことも。初めからそれが言えるなら「自分が悪い」も、もっとうまく説明できるはずなのだ。
アーネストにも。あの男にも。
「それであの男は、愛し合ったばかりの恋人を置き去りにして怒って出て行ったんか」
あ、いま自分に結構くることを言ってしまった、と思いつつアーネストは横を向く。
向いた先にはエスファンドがいて、なんとも言えない目で見返してきた。見なければ良かった。
「愛し合った……?」
一方のセリスはまた妙なところに引っ掛かって首を傾げているし。
(そこは流してくれてええんやで!!)
アーネストの願い空しく、セリスはいちいち律儀な訂正をくれる。
「昨日は林檎の種類と土地別の作付け状況の話から麦栽培の話をしているうちに寝てしまったんですけど」
「うん?」
「今朝はこの件でラムウィンドスをすごく怒らせてしまったんですが、髪は整えてくれました」
「あ、そういえば、そうやね」
林檎のあたりから話についていけてないんやけどね?? と、アーネストは心の中でひっそりと付け足した。
というかお前も何やってんねん、と思い描いてしまった相手につっこむ。その激高しまくっている状況で「髪は整えてくれた」とは一体……。
「マリクは林檎に関してはかなり熱心に調べていたもんな。あとでそれ、一度私にも聞かせるように」
先生も何かおかしなこと言ってるしね?
「はい。ぜひ……!」
弟子は目を輝かせてるからこの会話は成立、と。
「なんやろうな……、なんやろうなこれ。真面目に話を聞いとったつもりなのに、何もついていけてないこの感じはなんやろうな……!? まあ、今にはじまったことやないけど!? それでなんでさっきは思わせぶりに焦っていたのか、ちょーっと詳しく聞かせてもらわんと、理解追っつかへんのや」
(落ち着け落ち着け、こんなん慣れたもんや。この人、いつもこうやん)
今さら。
今さら動揺している場合かと。
いろんなものを飲み下して、腹の底に抑え込んだアーネストに対し、セリスは実直そうな顔で頷いた。
「わかりました。では最初から説明させていただきます」
(ああもう。この際あの男が、床でうまかったか下手だったかも全部聞きだしてやろ)
やけっぱちで不穏な企みを胸に、ひとまず三人で朝食に向かう運びとなった。
アーネストはシクシクと痛む胸を手でおさえていたし、何やらすべて「わかっているから」と言わんばかりのエスファンドに背中をさすられながら、歩き出す。
朝食の席で。
そもそも、「うまい」か「下手」かどころか、ラムウィンドスがセリスに手を出してすらいないという事実に直面するのだが、それはこれよりほんの少し先の話。