奇跡的な彼女(前編)
「鳥の卵を、目の前で孵化させたことがある」
王宮の中庭にて、早朝出会った男は唐突にそんな話を始めた。
まだ陽射しが強くなる前の時間帯。
瑞々しい葉を茂らせた木の下で、幹にもたれてぼんやりしていたアーネストの横にさっさと腰を下ろすと、男は淀みのない口調で滔々と語った。
「何度親鳥の元に戻しても、兄弟たちに混ぜ込んでも、駄目だった。そいつは決まって私を探して追いかけてきた。仕方ないのでそのまましばらく一緒に暮らしていたのだが、成鳥になったそいつは私に求愛行動を仕掛けて来た。その時にようやく気付いたのだよ。この鳥にとって私はそういう対象なのか、と」
「……どういう?」
鳥がついてきた? 求愛された? なんの話をしているんだ、この男。
アーネストの相槌は、極限まで気の無いものだったが、男はまったく意に介した様子もなく続けた。
「有体に言えば、最初は親と勘違いしていたのだと思う。だけど、一緒にいすぎたんだ。そのうちに、あいつは自分が鳥であることを忘れたか、もしくは私が人間であることを無視しはじめた。そして気付いたときにはもう……私しか見えなくなっていたんだ」
「大変やったねえ」
どんな感想を言えばいいのかよくわからないあまり、適当にねぎらってしまった。
男はやにわに、アーネストの肩に手を置くと、俯いた。
かわそうと思えばかわせたのだが、殺気の類が一切なかったので、ついされるがままになる。
そのまま、男の癖のある黒髪をぼんやり眺めていた。
遠くで、人々が活動を開始したような物音や話し声がする。
(朝やなぁ……)
眠い上に疲れている。それでいて変に冴えた頭を持て余して、アーネストは小さく吐息した。
その時、ゆっくりと男が顔を上げた。
「という納得をしてみてはどうだ?」
「俺?」
(今、何か説得された?)
アーネストは顔全体にありありと困惑を浮かべて聞き返す。
男は、実に訳知り顔で何度か頷いてから口を開いた。
「初めて目にした男がラムウィンドスだったんじゃないか? マリクは生き物として少しおかしいところがある。なんだろうな……、見た目と中身の成熟度合に不具合があるというか。恋とか愛とか性とか知識が欠落してしまっていて、しかも誰にもそれを埋められないままきた感じというのかな」
なんか言い出した。
(マリクって。というかラム――)
それはもしかしてあのひとのことやなぁ、とようやく頭を働かせ始めたアーネストに構わず、男は饒舌に続ける。
「そのくせ、当たり前のように恋をしている。あの子を見ていると、あの時の鳥を思い出すよ。相手がラムウィンドスとは。あの男は、もとは月の国にいたんだったよな。月の王族のマリクとは顔見知りなのかとは思ったが、それにしては入れ込み方が尋常ではないし、あれだな。相思相愛というやつか。たしかに、マリクは可愛い。ラムウィンドスの気持ちはわからないでもない。だがマリクはなー。謎だよなー。私にかかってもあれは大いなる謎なんだよ。こんな一国をひっくり返すような美形の護衛の献身を受けながら、なんでラムウィンドス」
たまりかねて、アーネストは男の名を呼んだ。
「あんたエスファンド先生、だったよな? ここに何しに来たん?」
アーモンドのような形をした黒目を瞬かせて、エスファンドは確信に満ちた声で言った。
「君をなぐさめにきた」
(ころしたい)
ぐったりと木の幹に体重を預けて、アーネストは目を閉ざした。
肩の上に置かれたエスファンドの手が、心底鬱陶しい。
「どうして、ラムウィンドスから奪わないのだろう。荒っぽいことが好きではない私でさえ、首を傾げているよ。奪おうと思えばいくらでも機会があったんじゃないか」
「ない」
その返答の、拗ねたような響き。
アーネストは自分でも気づいてしまい、嫌気がさした。
「ただの一度も?」
目を開けてちらりと見ると、エスファンドの深淵のような純黒の瞳にのぞきこまれていた。
(試みたことくらいはある。唇を奪ったことなら)
その事実を打ち明けそうになり、あわてて咳ばらいをし、視線をさまよわせる。
そのとき、思いもよらぬものが視界をよぎった。