払暁(前編)※
眠っている間、ずっとぬくもりを感じていた。
規則正しく続くひそやかな呼吸を、耳が拾う。
すぐそばに「彼」が確かに存在しているのを全身で感じる。
触れ合った箇所に意識を向ければ、どこもかしこも甘く溶けてしまいそうな温かさに包み込まれていた。
得も言われぬ安心感からとても深い眠りに落ちていたような気がする。
一方で、身体も心も半覚醒状態にあるような感覚もあった。
指の一本も動かせぬほど力が抜けきっていたにも関わらず、彼のほんのわずかな身じろぎさえ敏感に追いかけてしまう。
極度の疲労のせいで瞼も持ち上がらず、眠りの呼吸を続けながらも、彼の吐息はしっかりと聞いていた。
それらすべてが夢のようだった。
しかし夢だとすればあまりにも音も匂いも体温もすべて真に迫っていた。
(ラムウィンドスが、こんなに近くにいる……)
信じられなくて、もっと近づきたいと思えば、まるでそれが伝わったかのように枕にしていた腕が揺れ、もう一方の手できつく抱き寄せられる。
少しだけ息苦しくなるような抱擁。苦しいのは、力が強いから、だけではなくて。
どんなに願っても手に入らないとどこかで思っていたその人が、隣にいる事実に怯えているせいだ。
あまりにも強烈な多幸感に、胸が締め付けられる。
こんな風に夜を過ごすことなど、もう二度とはないかもしれないと。
上り詰めた幸せの先に、決して覗き込んではいけない虚無が広がっている、そんな恐れが泡のようにいくつも浮かんでくるのだ。
(好きです。わたしはあなたが好き。このまま目を覚まさないでずっとこの夢の中にいたい。朝なんか来なければいい。二人だけで殻に閉じこもって、永遠に寄り添っていられたらいいのに)
思いが溢れて止まらなくて、鼻がツンと痛んで、瞼の裏には湿り気を感じた。
それを押しとどめることはできなくて、気付いたときには薄く開いた目から涙が流れ出していた。
「どうして泣くんですか。怖い夢でも見ましたか」
乾いた温かな指先が、涙をぬぐう。
「ちがい……ます」
短く答えたのに、しゃくりあげてしまってうまく喋れない。
悔しいような苦いような思いが胸の中に広がって、目を閉じた。
そのとき、腕枕がすっと抜かれた。
ぬくもりが移動して、頭の横が沈み込む。身体の真上から少しだけ重みを感じた。
「かなしそうな顔をしていますよ」
柔らかなものが瞼や頬に押し付けられる。
片目を開けようとしたら、唇が眦にふれて、涙を吸い上げられてしまった。
「かなしいことを考えてしまって」
「何がかなしいんですか」
唇が移動して、耳元で囁かれる。
その低い声がじんと身体中に沁みた。
「あなたがいない……」
「俺が?」
セリスは目を見開く。
囁きを落としてから、耳たぶを軽く甘噛みし、半身を起こしたラムウィンドスに見下されていた。
「今でもまだ、夢の中にいるみたいなんです。ずっと会いたくて、考えすぎて頭がうまく働かなくなって、しまいに好きかどうかもわからなくなった時があって」
涙の余韻で、時折小さくしゃくりあげながらセリスがたどたどしく言うと、ラムウィンドスはぎゅっと眉を寄せた。
「ごめんなさい。あなたを苦しめたくなかった。……と、謝りたい気持ちもあるのですが」
「……のですが?」
ラムウィンドスは重い吐息とともに一度目を閉ざした。
そして、迷いを振り切るように瞼を開く。
「それは、今でもまだ俺を想ってくれているという意味で理解して良いのでしょうか」
真摯な光を宿した瞳に射抜かれて、セリスは瞬きもせずに見つめ返す。
「他にどんな解釈ができますか?」
互いだけをとらえた視線が、どうしようもなく絡み、ラムウィンドスはごくりと唾を飲み下した。
「それは……、そうですね。これで結構、余裕がないので。確認せずにはいられないんです。三年前あんな別れ方をしました……。そうでなくても、俺はあなたと過ごした時間があまりにも少ない」
どこか言い訳がましく言い募るラムウィンドスをセリスはぼんやりと見上げていたが。
ゆっくりと右手を持ち上げて、指先で軽く話し続ける唇をなぞった。
予想外の接触に言葉を飲み込んだラムウィンドスに向けて、セリスはしずかに言った。
「わたしに、口づけをしませんか」
ラムウィンドスは、触れていた手に手をかぶせて、すべての指と指の間に指をしっかりと絡めて枕に押し付け、もう一方の手も同様に指を絡めてやわらかい枕に沈むほどにきつくおさえつけながら、唇にかみつくように口づける。
「ん……ッ」
くぐもった悲鳴も吐息もすべて飲み込み、唇の角度を変え、長く口づける。
セリスが涙を浮かべるまで攻め抜いてから、ラムウィンドスはようやく顔を起こす。
荒い息をこぼしている艶姿を見下ろしつつ、熱情をはらんだ声で問いかけた。
「あなたが俺の腕の中にいるのを確認しました。あなたは俺を感じましたか?」
「はい。夢でも幻でもありませんね。……良かった。あなたがここにいる」
いまだに息を乱しながらも、セリスは安堵したとばかりにふわりと寛いだ笑みを浮かべた。
「……」
無言で、ラムウィンドスは合わせていた手を両方とも離し、セリスの身体の上から下りて隣に座り込んでしまった。
「どうしましたか?」
セリスが半身を起こしてラムウィンドスの顔をのぞきこむ。
「……獣になるところでした」
「獣? どんな?」
「そこはご想像に……」
言いながら、思い出したように手を伸ばして少女の微かに腫れの残った頬に触れた。
「想像はしなくても結構です。俺はあなたのすべてを欲しいと願っていますが、それはあなたが心の底から安心できる状況を作ってからです。今はまだ、あなたは少し怯えているでしょう」
頬を掌で包み込むと、セリスも顔を傾けて頬を摺り寄せた。そのまま、掌に自分の手を重ねながら指をすべらせ、ラムウィンドスの手首をしっかりと掴む。
「怯えていますね。ラムウィンドスが、わたしを置いてまたどこかへ行ってしまうのではないかと」
「その点につきましては、前科があるので言い訳のしようがないです。かくなる上はこれから二人で過ごす時間を、今までよりも」
「そうは言っても、これからひどく忙しくなるのではありませんか。街の復興と……、外敵への防備を固める意味でも。アルス様が去ったとも聞いていますし」
ほんの一瞬、不穏な空気が漂うも、セリス自ら涼やかな声でそれを払った。
「ですので、なるべく夜は一緒に過ごしましょう。今晩のように、あなたに抱きしめられて眠りたいです」
「それは……、俺としてもまったく異存はありませんが……」
どこか当惑している様子のラムウィンドスに、セリスはにこにこと微笑みながら手首を掴んだ手にきゅっと力を込めた。
「ずっと腕枕してくださっていたでしょう。腕がしびれませんでしたか?」
「特には。心地良いくらいです」
「なるほど。では、次はわたしがしてさしあげますね」
言いながら、ぽふっと寝台に身体を倒して、腕を伸ばす。
いかにも誘いをかけるように腕をぱたぱたと二、三回動かしつつにこにこと微笑んでいる。
ラムウィンドスは頭痛を覚えたかのように俯いて額をおさえた。
「どうしましたか」
「ああ、いえ。その。うれし涙が」
がばっと身を起こした少女が素早くラムウィンドスの頬に触れた。
「乾いています。涙、出ていませんよ?」
「嘘ですからね」
「なぜそんな嘘を……!?」
「姫が真剣に言っているのを、笑い飛ばすわけにはいかないからですよ」
言ったそばから、堪えきれなかったようにラムウィンドスは噴き出した。
姫君がその腕や背を軽く叩きつつ「ひどい」と訴えたものの、ラムウィンドスはなかなか笑いを止められない。
やがて、セリスがすっかりすねた頃にようやく笑いをおさめると、軽い動作で寝台から下りて靴に足を通した。
「ラムウィンドス?」
不安に揺れた声が名を呼ぶ。
心得ていたかのように、ラムウィンドスは笑顔で振り返った。
「夜明けにはまだ時間があります。少しだけ庭を歩きませんか。星を見ましょう」