落花流水(後編)※
ラムウィンドスが、セリスの視線に耐えかねたかのように先に顔を逸らした。
「血が出ることもあるとか」
「血……、怪我……!? なんでですか。そういう痛いのは嫌です」
怪我をするとは、どれほどの危険行為なのか。
その思いから、つい本音で言うと、ラムウィンドスが悩まし気に吐息した。
「まあその。代わって差し上げられるならそうしたいのはやまやまなんですが……」
「代われないって、つまりわたしだけが痛いということですか……!? どうしてですか」
「そうですね……。あなたの身体に俺を受け入れて頂くことになるので。その逆はないですし。受け入れるときに痛みを伴うそうです」
歯切れの悪い説明に、思い余ったセリスはラムウィンドスの目を覗き込んで言った。
「わたしがあなたのことを心の底から受け入れていて、こんなに好きでもですか?」
ラムウィンドスは顔を上向けて天井を仰いだ。
それから、ゆっくりと、目を向けてきた。
「物理なので。気持ちだけではおそらくどうしようもないかと」
きわめて真面目くさった調子で言われて、セリスは思わずラムウィンドスの衣に手を伸ばして握りしめた。
「痛いのは嫌です。嫌ですからね」
「究極的には、何もしなければ痛くありません。何もしなければいいんです」
掴みかかったセリスの手をそのままに、ラムウィンドスは言った。
「何も……つまり、身体を繋げないという意味ですか?」
「姫。いいですか。今日のところはさしあたり、一緒に寝るだけです」
さらりと何かかわされた感は否めなかったが、セリスは再び食いついてしまった。
「ラムウィンドス、寝るんですか……!?」
「俺も食べるし寝ます。アーネストだってそうだったでしょう?」
「あ、はい……。それはそうなんですけど」
(やっぱり何か誤魔化されたような)
戸惑っている間に、ラムウィンドスの身体が離れて、気づいたら目の前に立って手を差し出していた。
「手を繋ぎたいんですが」
「……!? わたしとラムウィンドスが!?」
「何をそんなに驚かれているのかわからないんですが。アーネストに自慢されたので、結構ムカついてるんです。旅の間はいつも手を繋いでいたとか。絶対許さない」
表情はにこやかなのに、何故か全然笑っているように見えない。考えすぎだろうか。
手を取って立ち上がると、指を絡めて繋がれて、そのまま寝台に向かった。ほんの数歩。これで良かったのかと隣を見上げると、この上なく優しく微笑まれた。
死ぬかと。
呆然としていると、先に座らされて、足首を掴まれてサンダルを脱がされる。片足抜かれた時点で止めようとしたが、「自分で……っ」とラムウィンドスの肩に手を置いてもびくともしなかった、その上、跪いたままにこりと笑って言われた。
「姫に対してこういうお世話は、俺は何度もしていますから。というか、先だっての晩はアルザイ様にさせたらしいですね」
(目が笑わないの……ですね!)
セリスが言葉もなく絶句しているうちに、ラムウィンドスは横に腰掛けて自分の靴を脱いでいた。気づいたら体重をかけられて寝台に押し付けるように倒されていた。
「あの……」
「手を繋いで、抱きしめて寝ます。そんなに痛くはしないですから」
(そんなにって言った……そんなにって何……!?)
「この上着は脱がせても大丈夫です? 下に何か着てます?」
「なんで脱ぐんですか!?」
指が指に絡んできて。耳のあたりに息がかかってくすぐったくて。密着したラムウィンドスの胸は固くて身じろぎも許されず。ふっと少しだけラムウィンドスが身体を離したと思ったら、指が立襟を軽くつまんでいた。
「襟が邪魔なんです。首にキスが出来ない」
「なんで首にするんですか」
「跡をつけますが、明日きちんと服を着れば隠せますよ」
「何もしないのでは……!?」
「何もしなければ痛くないとは言いましたが、何もしないとは言ってません」
(詭弁だ……)
「一緒に寝るだけって……」
首の横に手をついて、ラムウィンドスが身体を起こした。
何か言うのかと待っていたが、じっと見つめられるだけで何も言われない。
(ええと……!?)
自分も起きた方が良いのだろうか。いや、動くに動けない。視線に縫い留められたみたいだ、とセリスはドキドキしながら見上げる。
「……なんで見てるんでしょうか……?」
「申し訳有りません。ぼーっとしてました」
勇気を出して聞いたのに、まさかの。
ゆるく笑ってから、ラムウィンドスが隣に身を横たえる。腕が少し触れているだけだが、体温や気配が伝わってきて落ち着かない。
「ラムウィンドス……」
「はい」
名前を呼んで、返事をされたのに、何を言えば良いのか全然わからなかった。
口を閉ざしていると、手が手に捕まえられた。包み込まれて、指を絡められる。
「あなたの声が好きです。ずっと、話したいと思っていました」
「わたしとですか?」
思わず横を向くと、同時に目を向けてきたラムウィンドスにくすっと笑われた。
「はい。お疲れでしょうから、本当は寝させてあげたいんですけど。少しだけわがままをきいてください。何か話していただけませんか? さっきの林檎の話みたいな……」
「あれはわたしが一方的に話してしまいました。もっとこう、二人で話せるような……」
(人と会話するってどういう感じだったっけ。アルザイ様とは何を話したかな……)
目を瞑って思いを巡らせると、身体を横向きにしたラムウィンドスが手を伸ばしてきて髪に触れた。全身にぞくりと震えがはしる。その動揺を悟られないように焦って目を見開き、言った。
「政治とか経済とか交易路のこと……?」
「良いのではないでしょうか。俺の意見が必要なら言います」
「……普段ラムウィンドスはそういうお話はするのですか?」
「そうですね。この国では武官より文官寄りというか。アルザイ様の補佐に入ることが多いので、王宮での仕事は兵士というより政治です。地下水路事業の指揮に入ることもありますが」
「……!?」
(ラムウィンドス、剣もできるのに政治もできたら兄上の立場はどうなりますか!?)
「なんでいまちょっと姫に驚かれたのかよくわからないんですが。どこに驚く要素がありましたか」
「いえ……。兄様がかわいそうだなと」
「ゼファードが?」
本気でわからない様子ながら、腕を首の下に差し込まれ、もう片方の腕に胸元へ抱き寄せられてしまう。
額に口づけて、ラムウィンドスが言った。
「声を聞かせてください」
「はい。ではまず、最近エスファンド先生と資料を集めている地方の、麦栽培が交易に与える影響について。いまわかっていることをお話ししますね。もともとあの地方では……」
教科書を読み上げるように長々と話していたら、気付くとラムウィンドスがすぅっと寝息をたてていた。
(やっぱり……疲れていそうだったもの)
無防備な寝顔を見ているうちに、胸がいっぱいに満たされていった。
ずうっと見ていたいのに、まぶたが落ちてきてしまう。
部屋を照らしていた唯一の灯りが、ふいっと消えた。
視界が闇になり、しぜんと目を閉じる。
闇は温かく、自分以外の人の寝息が心地よくて、そのすべてに包み込まれたままいつしか深い眠りに落ちていた。