落花流水(前編)
セリスの部屋のソファは、二人で座るには十分な広さがあったが。
左横にラムウィンドスがどかっと身体を沈めて座った時、セリスは思わずまじまじと見つめてしまった。
「何か?」
気配を察知されて尋ねられてしまい、あわあわと居住まいを正す。そしてそっと横を伺う。
長い足を組み、思いっきりソファの背に背を預けて髪を手でかきあげているラムウィンドスとまともに目が合い、凝固した。
セリスが何か話すまでラムウィンドスもそのままの姿勢を維持すると決めたのか、動きを止めたまま。
変な沈黙の後にセリスは言った。
「ラムウィンドスの座っているところ、実は今日はじめて見ました」
「ああ……。なるほど。そうかもしれませんね」
目線を前に戻し、どこか遠くを見るようなまなざしでラムウィンドスが答える。
「いつも立ちっぱなしで……。立っているところしか見たことがないですし、もしかしてわたし、ラムウィンドスが食事をしているところも見たことがないです……!!」
「食ってるんですけどね」
気のせいではなく疲労の色が濃いラムウィンドスは、普段よりくだけた口調で呟いた。
しかし、気付いてしまった衝撃の事実に打ちのめされたセリスは、恐る恐る聞いてしまった。
「ラムウィンドスの、好きな食べ物はなんですか?」
何も知らない。
座っているところも食べているところも寛いでいるところも見たことがなかった。
ラムウィンドスはうーん、と小さく呻いてから、呟いた。
「林檎でしょうか」
セリスは目をきらりと輝かせた。
「林檎!! わたし今エスファンド先生のところで農業のこと勉強しているんですけど、林檎といえばイクストゥーラでも栽培がさかんなんですよね。種類もたくさんあって……」
五分経過。
うっかりぺらぺらと最近の成果を話してしまい、思い出してラムウィンドスの様子を窺うとソファのひじ掛けに肘を預けて頬杖をつきながら、じっと見つめられていた。
「すみません」
「続けてください」
「だいたい話しました。以上です……」
ついつい、嬉しくなって話し過ぎてしまった。
(林檎なんて言うから……)
黙ってしまえば、痛いほどの沈黙に場が支配された。痛いのは、相変わらずラムウィンドスから視線を向けられているせいでもある。
目を開けて寝てしまったのではないかと思うほど、微動だにしない。
試しにそーっとうかがってみると、やっぱりまだ見ていた。
「なぜわたしを見ているんですか」
「綺麗だな、と。そういえば、橋の上にいるあなたを一瞬だけ見ました。アルザイ様の好みだと思うとひっかかるんですけど、あの時の服装、お似合いでしたよ」
そこで言葉を切って、ラムウィンドスは目を細めた。
ひそやかな声で続けた。
「耳に穴をあけましたか。あの時に? 片方だけ?」
「見ないでください」
(それはあのとき、あのひとに貫かれた……)
いたたまれなくなって顔を背けて反対側を見ると、ラムウィンドスの手が目に入った。
どうしてこんなところに手があるんだろうと思ったそのとき、ソファがぐっと沈み込むのを感じた。ごく近くで。
「このまま抱きしめてもよろしいですか」
声は耳元。もう腕の中にとらわれている。
ぶわっと血が沸騰する。かろうじて叫ばなかったが心の中では絶叫していた。
軽く身じろぎをしただけで、肩がラムウィンドスの腕にぶつかった。
(さっきまでこんな近くにいなかったのに、いつの間に……!)
「姫、返事を」
(できません。息をするので精一杯です。というか息の仕方も忘れているので息もまともにできてないです……)
時間切れなのか、腕に力を込めて抱き寄せられる。捕まえられてしまう。セリスの肩が、ラムウィンドスの固い胸にぶつかる。
「本当に、今まで長かった。このところ意識のない状態のあなたを抱くことが多かったので」
セリスは心の中で悲鳴を上げた。大絶叫。
声は掠れてしまった。
「その節は大変お世話になりました」
エスファンドと酔いつぶれたり、書架の間で寝落ちて回収されたときのことを言っていると思われる。
ひたすら恥ずかしい。
「そうですね。お世話といいますか、なんでこんなに姫は無防備なのかなと、毎回悩みました。俺がいなかったら誰にどんな悪さをされたことか。俺もしたかったですし。自覚が全然足りないですよね。お仕置きをしてもいいですか」
「ダメにきまってますよね!?」
(何言ってるんですか!?)
ぎょっとしつつ、顔を見る勇気はないまま声だけ上げたが、まわされた腕にぐいっと力を込められた。
「姫は、悪いと思ってないんですか?」
「思って……ないわけじゃないんですけど……っ。お仕置きはちょっと」
怖い。
言う前に左手で顎がぐいっと掴まれて上向けられてしまった。
右手はがっしりと身体を拘束している。一部の隙も無く身動きすら敵わないほど力強く。
「では、これはお仕置きではなく、ただのキスです」
唇に唇を重ねられる。
口づけは長く、すべての自由は奪われていて、唇を離されたときには全身から力が抜けていた。
心得ていたように、ぐずぐずになった体をぎゅっと抱き寄せられた。
「お慕いしています、姫。もう離したくない」
頭頂部付近で囁かれて、じんと身体に声が染み渡った。
きつく目を瞑ってしまってから、セリスは勇気を振り絞って今一度目を開ける。
「それはわたしと……身体を繋げたいということですか?」
「おっと」
(勇気を出したのに……!)
まるで軽やかに言われて、顔から火が吹くほど恥ずかしかった。
「おっとって……、おっとってなんですか……。なんですかそれ、そうくるか? みたいな感じの……」
「いえ、今日のところはここに寝に来ただけですし。というか、姫は覚悟がおありなんですか」
「覚悟?」
なんの念押しだろうと思って聞き返し、つい顔を上げてしまった。ラムウィンドスに見下ろされた。
表情のわかりづらい目に、少しばかりの憐憫のようなものを浮かべていた。
「俺は女性ではないので正確なところはわかりかねますが。どうも、痛いらしいですよ」
「痛い……?」
「特に初めての女性は。姫、痛いのは平気ですか?」
圧倒的に鍛え抜かれた身体を持つラムウィンドスの言う「痛い」というのは、一体どの程度の痛さなのか。
「何が痛いんですか」