彼の刻印(3)
乾いた唇が唇をかすり、セリスは咄嗟に転がるように身を翻した。
「いまの……」
そういうことをされたのは、初めてではない。何が起こったのか、わからないわけではない。
この場合、あまりにも無防備であった自分に驚いていた。いくら似ているとはいえ、別人だとわかっている人に、一瞬でも気を許してしまった事実に痛いほど動悸がしていた。
サイードと名乗ったその人は、ふっと笑いの息をもらした。
「あなただから逃がしてあげたよ。無理強いする気はない」
「あなただからって……、わたしの何を知っていますか」
どうにでもできる、と言わんばかりの態度に、セリスは強気に言い返す。
サイードは微笑んだまま言った。
「頬が腫れている。辛い目にあったようだ。まだ痛いのでは?」
セリスは思わず、片手で頬をおさえた。
全身から力が抜けてしまいそうで、セリスはなんとか意地を張ろうと試みる。今弱気になったら、この人には押し流されてしまう。
その心を見透かしたように、サイードはしずかな声で言った。
「あなたはラムウィンドスのことが好きなのか。俺は君に残酷なことをしたか?」
セリスは歯を食いしばったが、呻き声をおさえることができなかった。
歯列の合間から、本音が零れ落ちた。
「い……や……な、ひと」
声を立てず、サイードは品のある笑みを浮かべた。
「可愛らしいね、セリス」
「あ、あの人は、わたしのことをそんな風には呼びませんので!」
別人だ。絶対に別人だ。もう気を許したりしない。
そう強く自分に言い聞かせるセリスに対し、サイードはおかしそうに笑いながら言った。
「わかった。あいつのことだから、名前で呼んだことなんかないんだろう。幾つになったんだっけ。奥手なことで、少し驚いてしまったよ」
「あなたは誰なんですか……」
めまぐるしく思いが駆け巡り過ぎて、セリスは多大な疲労とともに、ごく正直な疑問をぶつけた。
「自分から言うのは結構抵抗があるんだけど『おじさん』だ」
「おじさん」
「言わなくていいよ」
黙れと言外に告げられた気がして、セリスは口をつぐんだ。
サイードは自分の耳に手を当てると、つけていた耳飾りを外した。
小ぶりな宝石のついた控えめな意匠のもの。
セリスが何をと思う間もなく、立ち上がって距離を詰めてから膝をつき、セリスの左耳に針の部分を突き刺した。
「いっ……」
痛みと衝撃に息が止まり、じわりと涙が滲む。
サイードは何事もなかったように立ち上がり、そのままドアに向かった。
「後で外すように。穴をあけたばかりは傷が化膿しやすい」
あまりにも突然のことで、セリスは耳をおさえたまますぐに外すこともできずに呆然とサイードを見上げた。
「どうして」
「今はあまり時間がないから」
(それは答えなんだろうか)
「連れが用心深くてね。色々片付くまで休んでいろとは言われたが、そろそろ行く」
戸口から薄く差し込む暁の青い光の中で、サイードは感情をうかがわせぬ表情で言った。
「私のこの目に光があるうちに、あなたに会えて良かった。これからは、月を見上げるたびにあなたを想うだろう」
「サイード」
行こうとしていると気付いて、セリスは名を呼んだ。引き止めるつもりもなかったのに、なぜ声をかけてしまったのかはわからない。
サイードは血の涙を流したような目は閉ざしたまま、もう片方の目では笑って言った。
「名前を呼んでしまったから、あなたも俺を忘れられなくなる」
そして去った。
しばらく呆然としていたセリスだが、はっと気づいて左耳から耳飾りを外した。
誰かがこの場にいたと知ったら、アーネストが気にするだろう、と自分には言い訳をした。
ただ、その耳飾りを捨てることをせず、懐に忍ばせてしまった理由は自分でもよくわからなかった。まるで隠すような行為であるとの自覚はあった。
耳飾りを外したあとも、貫かれた左耳はじくじくと痛んでいた。