彼の刻印(1)
「アーネスト、行ってください」
そう言うたびに、彼が眉根を寄せ、歯を食いしばってひどく辛い顔をするのは気付いていた。
それでもセリスは願うのをやめなかった。
「身を隠せる場所を確保して待つ。危ないと思ったら、すぐに声を上げて助けを呼ぶ。その約束だけは守ってな」
「わかりました」
(それでアーネストが戦いに赴くのを拒まないと言うのなら)
「戦うのが嫌なわけやない。姫さまから離れるのが嫌なんや。もう危ない目には」
セリスを危険に晒したことが、アーネストの心に重い枷となっているのをひしひしと感じる。セリスは、心配ないですよ、と笑った。
「多少殴られるとしても、『女』である限りいきなり殺されないのはわかりました。『男』とみなされたら問答無用で殺されていたかもしれない。この格好で良かった」
襲撃はかわせなかったが、見た目の怪我以上はどこも傷ついてはいない。心は無事だと。
セリスたちはアルザイと合流して行動を共にしていたが、もっとひどい目にあった被害者を助けることもあり、亡骸を見つけることもあった。それを目の当たりにしてしまえば、自分は守られている、と強く実感した。
行動を共にするとはいっても、思った以上に正規兵の数は少ないようで、アルザイ自ら敵を狩って斬り伏せている。さすがにそのすぐ側は危険でしかなく、かといって少し距離をとれば、いつの間にか孤立に近い状態になることもあった。
そんな折に、襲われている市民を見つけたりすれば、どうしても見過ごすことができない。ひとを呼ぶよりも、その場で対処に入った方が救出できる確率は高い。
戦うことのできないセリスは、アーネストに願わざるを得ないのだ。
わたしは大丈夫なので、あの方々を助けに行ってください、と。
(アーネストに無理をさせてしまっているけど、今は誰もが無理をしている。あのまま二人で四阿にとどまってやり過ごしていたら、助けられないひとがたくさんいた……)
これまでのところ、大きな負けは無いだけに、出てきたことを後悔しないでいられる。
あとは、無事に朝を迎えられれば。
* * *
夜明けが近い。
狂乱の宴は終結に向かっている気配があった。
アルザイは散り散りに逃げ惑う暴徒を追っており、その動きに追随するうちにセリスとアーネストは凱旋門へと向かう道筋に入っていた。
「壁を破壊するどころか、あいつら悠々と門から出ていくつもりやの……」
アーネストが嫌そうに言い、セリスも固い表情で頷く。
「都市内の東国人協力者と落ち合えなかった東国人は壁に向かったみたいですが、アルファティーマ勢は門に向かっていますね。門がいかに強固で外からの襲撃にはびくともしなかったとして、内側からならこの混乱に乗じて落とせないこともないのでは。兵も市中にだいぶ駆り出されていそうですし」
「たしかに。東国人とアルファティーマで共闘しているようにも見えないのは気になっとったけど。ひとまず、門を落とされるのはまずいんやないかな」
小声で話しながら進んでいるうちに、争いの物音に近づく。味方であるマズバル兵たちの姿は近くに見えず、セリスとアーネストは目を合わせて互いの動きを確認した。
ドアの開け放たれた建物の一つに二人で足を踏み入れる。
都市は壁によって守られ、壁が落ちない限りは治安の良い都市内は安全と信じていた市民を大きく裏切った今夜の出来事。避難のために住民が出て行った後のようだった。
逃げると言っても、都市内に暴徒がいるとあっては、いったいどこが安全なのか。惑う市民が正確な情報を把握するのは難しく、市場の隊商宿のある一角が、護衛も詰めていて安全だとすれ違いざまずいぶん誘導してきた。
狡猾なる襲撃者たちは、従業員や宿泊客に手練れの護衛や傭兵が多い隊商宿などは避けて、防備の手薄な富裕層の住宅を狙い撃ちにしているらしかった。
完全に、都市内部から手引きした者がいる動きだった。
ごく近いところで悲鳴が上がった。
「ここで大人しくしていますから、アーネストは行ってください」
急いでセリスが言うと、もはや反論することなくアーネストは「気を付けて」と言って出て行った。
(気を付けて欲しいのはあなたなんですが)
言葉で引き止めるわけにはいかないので、セリスは黙って送り出すと、室内の暗闇に進むことなく、ドア近くの壁に背を預けた。そのまま、ずるずると床に崩れ落ちてしまう。
極度の緊張と夜間の移動のせいで、疲れが出てきた。それはアーネストも同じはず。それなのに、その剣の腕を頼って、無茶な願いばかりをしてしまう……。目立った怪我はないが、命のやりとりをしている以上、無事で帰ってくる保証はどこにもないというのに。
(アーネスト……)
声に出さずに、胸の内で呟いて、セリスは両膝を両腕で抱えて沈み込んだ。
まさにそのとき、声が聞こえた。
「月の姫……?」
違和感は、あった。違う、これはあの人の声じゃないとわかったはずだった。
けれど、似ていた。声質も、発音も。
(違う。だめ)
わかっていたのに。
同じ空間、この闇の中にその人がいると頭が、心が、全身が、震えるほどに錯覚して、信じようとしていた。信じたがっていた。
「ラムウィンドス……」
堪えきれずに、セリスはその名を口にしてしまった。
闇が動いた。