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封じられた姫は覇王の手を取り翼を広げる  作者: 有沢真尋
【間章】 幼き日の邂逅
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君の名は(1)

 幸福の姫君が王宮入りしてから、数日がたった。

 その日、空からは糸のような雨が降っていた。


「修行は中止かな……」


 ラムウィンドスは、迎えに来ないかもしれない。

 期待して早く起きてしまっていたセリスは、窓辺に佇み、ぼんやりと空を見ていた。

 寄せ木細工のはまったガラスの向こうからは、水の匂いが忍び込んでくる。それを吸い込んだとき、ふっと胸の中で凝っていた記憶が浮かび上がってきた。


 とても幼い頃の記憶。すでに細部はぼやけてしまっている。それでも、雨が降り、地面からたちのぼる土と水の混ざり合った匂いをかぐと、ふと思い出すのだ。

 たしか五歳の頃。一大決心して、離宮を脱出したその夜のことを。


 * * * * *


「姫様、お身体が冷えてしまいますから、こちらへ」


 窓辺で空を見上げていたセリスに、女官のひとりが声をかけた。それでも動かぬセリスに、いまひとりが歩み寄る。


「もう暗いですし、何もお見えにならないでしょう」


 手を引かれると、セリスはおとなしく従って、寝台まで引き返した。

 小さな姫の身の回りの世話をする女官は、入れ替わりで五人ほどいたが、夜は二人。それで手が足りないということはない。予言によって幸福の姫君と呼ばれたセリスは、別段変わったところのない普通の子どもで、女官たちを困らせるほどの悪戯をすることは滅多になかった。このときも、言われたとおりに夜着に着替えると、おとなしく寝台に入った。


「姫様、今日はなんのご本を読んでさしあげましょうか」


 枕元に立った女官は、いつも通りにそう話しかけた。しかし、姫は目をこすると、掛布を額まで引きあげて、小さな声で言った。


「もう眠いの」

「それでは、私たちは下がらせていただきますね。姫様、良い眠りを。また明日の朝お会いしましょうね。おやすみなさいませ」

「おやすみなさい」


 姫がいかにも眠そうな声で返したのを聞き、女官たちは微笑を浮かべて燭台を取ると姫の部屋をあとにした。

 二人の足音が遠ざかる。


(もう聞こえない。遠くまで行ったわ)


 確信した瞬間、セリスは掛布を跳ね飛ばして起き上がった。

 寝台の下にこっそり隠しておいた普段着を引っ張り出して、着替える。この日のために、自分で服を着たいと言って、ひとりで着られるように練習していたのだ。

 脱いだ夜着は、丸めて寝台に置いて、掛布をそっとかける。暗がりで見たらセリスがそこに寝ているように見えるはず。


 セリスは足を忍ばせてドアに近寄った。

 離宮には女性の衛兵が詰めているが、部屋の前に見張りに立つのはもう少し遅い時間で、この時間帯は廊下の見回りをしている。案の定、そっとドアを開いて見てみたところ、まだ兵士は来ていなかった。

 セリスは、さらに足音を忍ばせて、廊下に踏み出す。


 部屋の前には、大理石で作られた手すりがあり、その向こうには噴水と花の溢れる中庭がある。けれど日の落ちた今それらは見えず、ただ降り注ぐ雨が大地を叩くひそやかな音だけが満ちていた。

 水の匂いがしていた。

 むせかえるような緑の匂いと豊かな土の匂いを包み込んだ、水の匂い。

 大きく息を吸い込んで、セリスは早足で歩き出した。


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