帝国の炎(2)
怒気も殺気も度を越えてしまうと気にならなくなってくる……、なんてことはない。ここまで自分を取り巻く空気が「固い」とか「重い」とか「痛い」という感想を得たのは、ライアの生涯ではじめての経験かもしれない。そして最後の経験になるかもしれない。
灯りはふんだんに燈され、絨毯にはところ狭しと料理が並べられているし、酌をする酒姫も数人いるにはいるが、列席者の張りつめた様相に、皆呼吸すら止めているかのようだった。
ライアは指を一本立てて、イグニスの唇に押し当てた。
目を見てにこりと微笑んでみたが、指にはぐりぐりと力を入れていて「少し黙って」と言外に告げてみた。聞く男ではないとわかってはいたが。
案の定、口を閉ざされたイグニスはきょとんとしたが、すぐに相好を崩した。
「なんですかその可愛い指。食べてしまいますよ」
本当に唇を開いてライアの指を食む仕草をしたので、こめかみに青筋を立てながら「お戯れを」と手をひっこめた。
「また言いましたね、お戯れ。割と本気で狙っているんだけどな。砂漠美女。あなたのこと」
頭が痛い。
関わってはいけない類の男だ、と心底思った。
それは軽薄な言動というよりも、むしろ至近でその眼光にあてられたせい。
(こんなこと言いながら、この男、全ッ然笑っていない……。なんでそんな目をしているのよ)
真っすぐに見ていられなくて、ライアから顔を逸らしてしまう。
「真珠といえば……、帝国にこのたび新しい皇帝が立つと。それこそ真珠にたとえられる類まれなる美貌の少女と聞き及んでいますが」
東国人の中から声を発する者があった。
たしか、隊商の長であるセキという男。
話をふられて、イグニスは如才なく笑みを形作った。
「見た目で選ばれたわけではありませんが、あれはあれであの方のわかりやすい利点の一つではありますね。あなたがたが国を発ったときには、あの方が後継争いを制するとは考えていなかったと思いますが」
片腕をライアの肩にかけ、もう片方の手で盃を掲げて、ふっと笑いの息をもらした。
「いえいえそのようなことは……。拝謁できる日を心待ちにしております」
如才なく言ったセキに対し、イグニスは「うっそー」と明るい声で言った。
「会う気ないし、来る気もないくせによく言いますね。ここから折り返して引き返します? それともあなたがたは決死隊なのかな。王宮への誘いに応じたのは、アルザイ様の首が欲しかったからですか?」
こいつ、言いやがった。
その場にいた全員が思考を共有した瞬間だった。
「ローレンシアの。そのような」
果敢に声掛けをしたセキに対し、イグニスはにこりと微笑んだ。
「もう一度言いましょう。名はイグニスです。歴史に名前を残す予定ですので、覚えておいて損はないですよ」
「イグニス殿。あなたはなにゆえこの場に?」
戯言を流してセキが聞くと、イグニスは微笑みをおさめて言った。
「あなたがたが砂漠で迷わず、予定通り帝国にたどり着けるよう、道案内をしにきました」
マズバル、東国の両陣営が無言のまま互いを探り合う一瞬。
「長旅の疲れをとくと癒されますよう……。今宵は歓待の宴です。酒も料理もふんだんにご用意しております。まずは皆さまどうぞお召し上がりください」
間隙を縫うようにライアが声を上げた。立ち尽くしていた酒姫たちが素早く酌にまわる。
マズバル家臣団から自分への反発は織り込み済みだ。彼らによく思われているわけがないことを、ライアは骨身にしみてわかっている。
だから、なるべく座を乱さぬよう、たおやかな女性として振舞おうと思っていた。つい先ほどまでは。
ライアは柔らかな仕草を捨て去り、傲然と顔を上げて周囲に視線をすべらせた。
誰一人味方がいないと知りながら、強弁を続けるイグニスの見る光景を、自分も見てみたいと思った。
横顔に、イグニスの視線を感じる。目を合わせる気はなかった。
「ローレンシアの宰相殿が、わざわざお出迎えとは……」
セキが笑いながら言葉を濁らせる。
そちらに目をむけたイグニスは実にきっぱりと言った。
「どうせ、アルファティーマとはここで物別れなのだろう。あなたがたはローレンシアに運ぶ品など持っていないし、それをわかっているアルファティーマは無益な旅など続ける気がない。利害が一致したのはただマズバルに一撃を加えようという、せいぜいその一点。友好関係にあるうちに内部に入り込み、アルザイ様をはじめ、ここにいる重臣方々何人か屠っておけば、今後攻め易くもなろうというもの。まるで古代の城攻めの木馬のようだ。……しかし、あの規模の隊商、しかもアルファティーマとの混成でありながらここまで引き連れてきたあなたの統率力はなかなかのものだ。ここで死なせるのは惜しい。このまま私と一緒に帝国へ向かうのが良いだろう」
間違いでは済まされぬことを滔々と言い、イグニスは盃をあおった。
「あなたはご自分が何を言っているかおわかりか」
言い募ろうとしたセキを手で制して、イグニスは一息に続けた。