帝国の炎(1)
彼が何者かを、本当の意味で知る者はその場にいなかった。
燃えるような赤毛に、余人の描く帝国人らしさを体現したかのような端正な容貌。濃緑の衣をまとい、武具の類は一切身に着けていない。護衛として従えていた青年を別行動に向かわせたことも、ライアは知っている。
その身ひとつで、味方が一人もいない場に臨む彼が何を考え、何を目指しているのか。
(特別大きな背中じゃない)
頼りなく思うほどではないが、アルザイをはじめとした一流の武人を間近で見てきたおかげで、彼の肩の細さはいかにも一般人の域を出ないように見えた。
その肩に、何を負うと言うのか。
ローレンシア帝国宰相・イグニス。
「それでは皆様お揃いのようで。お疲れでしょうし、さっさと宴をはじめましょう」
マズバル家臣団と隊商の幹部がさりげなく距離を置いて座る絨毯の真ん中に彼は位置どった。
有無を言わせぬその振舞いに場が凍り付く。
──いかに、そこに座るべき隊商都市の長が不在とはいえ。
客人に過ぎぬ彼が、その場を牽引しようとは。追随する者などいないというのに。
「ローレンシアの」
マズバル家臣団の中から、老齢にあるであろう男が鋭く声を発した。名を呼ばなかったのは、お前など知らぬという慇懃無礼さの表明のようだった。
彼は完璧な笑みでもってこたえた。
「イグニスです。どうぞお見知りおきを。これより先、長い付き合いになることでしょう。とはいえ、ご挨拶しようにも、あなた方の長は到着が遅れているようですね。自分のせいで、判断力のない部下が客人を待ちぼうけにさせていたとあっては、お恥ずかしい限りでしょう。はじめてしまった方が得策では?」
「それをあなたに言われる筋合いでは」
老齢の男が苛立ちを隠さぬ声をあげたが、イグニスは笑みを深めただけだった。
「他に誰が言うんです? 私に言われる前に、あなた動けました? 外交のなんたるかをご存知で? そんなんだから私如きに舐めた真似されるんですよ。文句を言うしか能がないなら黙っておきなさい」
(このひと、味方を……作る気がない)
どころか、ごりごり敵を作っている。
ライアは、他人事ながら青息吐息であった。
マズバル家臣団は体面に泥を塗られて殺気立つばかり、隊商から選り抜かれて連れられてきた東国人の一行も態度を決めかねているようだった。
(ローレンシアといえば修辞学……。皇帝に仕えるための学問の一環で弁論を磨くとは聞くけれど、この人の喧嘩腰は勝算があるのかしら)
自由に動いて構わないと言われていたライアは、料理を運ぶ給仕らのように座にはつかずその場に立っていたが、動きの止まった給仕たちに素早く目配せをする。料理や酒を運ぶ手を休めないように、と。そしてイグニスのもとへと向かった。
イグニスは、さっと手を伸ばしてライアの衣の裾を容赦なく引っ張った。予想外の行動に転びそうになり、体勢を立て直そうとしたが果たせずにその場に膝をつく。
「これはこれは、見目麗しい砂漠の美女まで」
何かろくでもないことを言ったイグニスに、肩を抱かれる。
「その、ような、お戯れは」
「おや。砂漠の花は、ローレンシアの色男はお嫌いですか」
ぐいっと手を突っ張って押し返そうとするが、頼りなげに見えたイグニスの力は存外に強かった。
(自分で自分を色男と言うなんて)
目をむいて「ばかなの!?」という思いを届けようとしたが、構わずに再び抱き寄せられてしまう。
「砂漠にはたいした花は咲きません」
忌々しげにライアが言うと、イグニスがくすりと笑みをもらした。
「左様ですか。しかし、花よりももっとあり得ないものがあります。ここマズバルは『砂漠の真珠』などと言われてますが……真珠は海のものです。あなたがたは海を見たことがないでしょう。ラクダをして『砂漠の船』などと言いますけれど、船が何かもご存知ないのでは? ああ、でも水に乏しきこの地にも『溺死』はたまにあるそうですね。水が多いとはしゃいじゃうのかなー」
(気のせいじゃないわ。この男、両陣営に対して、真っ向からこれ以上の喧嘩を売る気でいる……!)